第20話 大内義隆と田原親宏


 吉岡長増と斎藤鎮実の卑劣なたくらみにより、敵の名乗りをあげた菊池義武。それを討伐するための軍を準備することになった。

 とはいえ豊後国内を討伐した前回と違って、今度は県外の熊本である。

「殿が不在では国内に混乱が起こるかもしれませぬ」

 という長増爺さんの言葉で今回は出陣しなくてすんだ。

 いくら共通の敵ができたと言っても、当主不在なら反乱を起こそうとする短絡的犯罪者が出るかもしれないからだという。


 この提案にほかの領主も反対しなかった。


 むしろ、戦争に参加されたら邪魔とでも言いたいかのような扱いだった。

 長増によれば15年ぶりの本格的な戦なので手柄を上げて給料アップをたくらんでいるらしい。

 なるほど、宗麟が出たら手柄の上前をはねられることになるのか。わかりやすいな。

「それに実際に宗麟さんは、この戦いに出陣してませんからね」とさねえもんが言う。

 さねえもんは斉藤家当主となって、義鎮の鎮の字をもらい斉藤兵部衛門鎮実となった。なので正式にさねえもんと呼べる事になったのだ。

「さらっと嘘を混ぜるの止めて貰えます?」

 冷たいな。さねえもん。


「で、史実でも宗麟さんは肥後に行ってないの?」

「はい、8月ごろの手紙で「これ以上、菊池討伐に手間取るなら、自分自身が肥後に行って指揮をとる」と書いていますので間違いないでしょう」

 え?そんなに手間取るの?

「熊本は広いし、山鹿の近くにある合志氏が意外と強くて大友家は3人の指揮官が死んでますからねー。10月になってやっと討伐に成功するんですよ」

 そんなにかかるのか…。でもたとえ口うるさくても死人が出るのは嫌だし、死ぬとわかっていて止めないのもアレだから一応忠告だけはしておいた。

 あと、さねえもんが教えてくれた死亡予定の3人には特別に鎧というかインナーをプレゼントする事にした。

「なんですか?これは」

 練革と呼ばれる牛の皮を火であぶり膠水(にかわ)に漬けて、木枠で型を付けた鎧である。

 鉄に比べて軽量で刃物で切りにくい皮鎧である。これに髪の毛を何層も重ねて圧着した不織物を幾層も重ね内側から練皮で挟んだものを渡した。薄いロープの塊が内蔵された防刃ベストのようなものである。

 大岩みたいな重量物は防げないが、刃物や矢なら通さないだろう。時間があればナノファイバーのセルロースみたいなものの方が頑丈なのだが、設備が整ってない今では手軽で頑丈な髪の毛を使うのが限界だった。

「さらっとオーバーテクノロジー入れてますよね」とさねえもんが後ろで告げたが気にしない事にする。


「それよりも長増は上手くやってるかな?」と俺は遠い山口の方を見てつぶやいた。


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【1550年3月1日 山口県山口市大殿大路 大内氏館】


 田原家は豊後国国東の大身だった。

 だった。というのは今は防州山口に亡命しているからである。

 田原家は初代大友能直の10男だったが正室でない白拍子との間の子だったので領地を相続されなていない。

 これだけなら庶家として歴史の波に名が消えただろうが、彼は有能だった。

 戦働きと利殖で金を貯め、領地を買い集めたのである。

 当時、鎌倉幕府の政策は行き詰まり徳政令を出さないと家来の生活を守ることもできなかったため。その中で銭の力を理解し困窮した御家人に金を貸し、借金のかたに土地を奪ったのだ。


 そのため、大友家以上の軍事力を持ち、室町時代に足利幕府が全国に建てさせた安国寺という寺は国府である大分市の府内では無く国崎に建立されている。

 足利家が田原家を大友以上に重視したと言われるゆえんである。

 そのため田原氏は数度も大友家に反旗を翻し、現在は武蔵田原とよばれる分家はあっても、本家は山口の大内家に亡命している。

 だが、国崎の領民はこの亡命している田原こそが自分達の主として考えており、心からの服従はしていないのである。



 そんな彼を北方の守りとして連れ戻すべく1550、3月1日。混乱冷めやらぬ豊後を後に長増は船を出した。息子の吉岡鑑興も同行する親子旅だ。

 西の京都と称された大内氏の館は贅の限りを尽くしたようなきらびやかさで、長増すたちを迎えた。義隆の前に出た長増は

「この度は国の一大事でした故、このような老いぼれが罷り参りまして御容赦頂きたく」

 と、普段の飄々としたなりは身を潜め、正式な出で立ちの長増。正式な使者としてあいさつをした。後ろには鑑興が控える。

 これに対し義隆は

「この度は義兄上(大友義鑑)どのの事、哀しくてたまらん」

 と涙を抑えるようなしぐさで出迎えた。

 まるで京風公家の出で立ちの大内義隆の表情はよく分からない。ただ尼子との戦で息子を失って以来、戦からは手を引き、都落ちした貴族と風流芸事の世界に送っているというのは肌の白さを見れば分かる。

 その貴族趣味によって、本来ならここに居るはずの右腕相良と陶隆房の姿は見えなかった。

 大内家は陶隆房(後の晴賢)と義隆の文治主義で台頭した相良惟任が衝突していた。武断派の陶や内藤らの譜代家臣は相良を嫌い、身の危険を感じた相良は大内家を出奔するが義隆の命で山口に帰り、逆に陶は姿を見せなくなって居る。というのが現状なようだ。

 そのため大内家の内部はバラバラになっていると豊後でも噂されていたが、その噂は正しかったらしい。


『どうやらこのお公家様は戦とは無縁になったようだ』


 謀略の中で生きた長増は、大内の内紛は偽りで密かに兵船を集め、この機会に大内が豊後に攻めてくる可能性も考えていた。

 だが、どうもその心配は杞憂に終わったようだ。逆に参内した家臣達も戦闘と縁がありそうなのは冷泉殿位。文治主義でというのも正しいらしい。


『ただ会ってみるだけでもこれだけの情報が手に入る』それを教えるために、わざわざ息子も連れてきたが、予想以上に重要な情報が手に入ったものである。


 そんな事を考えながら長増は襟を正し、義隆を見据えると

「さて、本題ですが五郎様は義鑑様の勅勘を許し、そちらでお世話になっている田原殿の本領を安堵するとのお言葉です」

 そう言うと、当事者の田原は

「ほほう、豊後では余程兵が欲しいと見えますな。これでは国の防衛も難しいのでしょうな」と皮肉そうに答える。


『お家騒動に乗じて大友家を攻めよ』と大内義隆に言っているのは明白だ。

 だが長増は動じることなく言葉を続ける。

「いえいえ、五郎様はお優しいお方でしてな、お父上の過ちを認めるのにやぶさかではござらぬのですよ」

その言葉に田原は目を見張る。


『過ち』と義鑑の事を批判したのだ。明らかな先代を咎める言葉に田原は驚いた。だが義隆は驚かない。

 当然のように聞いている。


「例えば…我輩は隠居しながらも五郎様(宗麟)とは縁がございましてな。4・5年前に府内に唐船と数人の南蛮人がたどり着いた時、船長が南蛮人が財宝を持っているので殺して奪うように義鑑様におっしゃられた事があったそうです」

 まるで見てきたかのように当時の事を語る。これには義隆も興味を示した。

 南蛮船は周防にも到着している。

 この珍しい客を豊後ではどのように対応したのか興味が無いはずがない。釣り針に魚がかかったのを見て長増は話す。

「とんでもない無法ですが、彼ら南蛮人の故郷は天竺より遠く、政道よりも目先の欲にくらんだ義鑑様と入田の奴腹も賛同したのですが、五郎様だけが反対し諌めたのです」

「ほほうそれは何故じゃ?」

 義隆が興に乗ったように尋ねる

「それは『この者達は遠くお父上の威光を頼って商いをしにきたのです。胸中に飛び込んだ小鳥は鷹も襲わずと言いますのに、彼らを殺してはお館様の沽券に関わります』と仰られました」

「息子殿の方が立派じゃ。どちらが太守か分からぬの」

「はい、お陰で彼らは再び豊後に来ることを望み、数人は唐人町に滞在しておりました。一時の財よりも長く共に栄えること、弱きものを慈しむ心をすでにお持ちです」

 先代を貶め五郎を立てているというのに義隆は感心したようにうなずくだけだった。善悪正しく判断するその姿は正しいが、戦乱の世の党首としては失格である。田原も降参したようで

「そうでございましたら、安心して帰れようと言うもの。この話、前向きに検討いたしたく存じますが如何か?」


 田原が伺うと、義隆は鷹揚に「よい。許す」と許可した。


 ああ、やはりこのお方は全てをなげだしたのだな。

 長増はそう思った。

 先代当主の政策を全て否定し、新しい体制を作ると言う事は新当主は国内の領主のご機嫌をうかがう程、権限が弱いという事である。野心があるなら、この混乱をついて豊後に攻め入るために田原の帰還をそう簡単に許すわけがない。

 何らかの条件なり、内通のための準備をするはずである。

 そんな人間のどす黒い野望が義隆からはみじんも感じられなかった。

 おそらく田原も、ここにいない陶もその気風は感じ取ったのだろう。

『「大内家の命脈は長くない」と申していた斎藤の言葉は正しいようだ』と長増は思った。

 くすぶる火種の恐ろしさに気がついてない、いやそれがどれほどの禍になるか判断する力が失われているのだ。18年前に豊前で死力を尽くして戦ったかつての敵に、長増は憐れみさえ覚えていた。


 面会が終わり退出した際に

「五郎どのは仁者じゃな。お父上よりよっぽど話やすう思える」

 と義隆が言ったのが印象に残る。


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「うまくいって良かったですな父上」

長門国、娑婆津を眺めながら鑑興は言う。会談が終わり、今日のうちに豊後へ立つ準備も終わった2人は船上にいた。

「ああ、そうじゃな。会う前は心配じゃったが、うまくいって良かった」

「はは、流石に父上でも不安になる事があったのですか」

 無邪気に鑑興は笑う。それに対して長増は

「そりゃそうじゃ。もし失敗していれば大内殿の館に入る前に首を斬られていたからのう」

「へ?」

 何故会う前から成否が決まるのか?虚を突かれた息子に長増は一通の書を見せる。

「これは?」

「田原殿に事前に贈った書状に同封しておった書状じゃ」

 そこには

・今回の義鑑襲撃事件は大内義隆の家臣の誰かが画策したものであろう事。

・ところが義隆が豊後を攻めなかったので、この画策をした者は失望しながら近年中に義隆に対して兵を起こす準備をするであろう事。

・その時ろくな兵を持たない田原殿は流浪の身となるか、共に討ち死にするしかないので早々な帰国をお勧めする。

 という大内家が見れば激怒するような内容が書かれていた。


「……父上。これは一体何ですか?」

「なーに、大友家が危ないと高見の見物をしている田原殿に、今自分がどれだけ危ない位置におるか教えてやったのよ」

 陶と相良の対立は防州の者なら誰でも知っているが、今回の騒動で義隆が傍観を決めれば陶は謀反を決断するだろう。

 その時、食客の身では自分の身を守れる訳がない。

 そして今豊後に帰れば、仮に義隆が勝ちそうなら白々しく加勢を出すことで恩も売れる。そうでなければ命を守るために豊後に帰るのは必然となる。

 田原親宏という男は、そこまで計算できると踏んだから長増は予め密書を送っておいたのだ。


「では、もしも田原が密かに書状を義隆殿に見せていれば」

「いったじゃろ?館に入る前に斬られるだろうと」

 その言葉に 鑑興はその場にへたり込んだ。

「なにお館様にはワシが斬られた時は田原に異心ありと触れ回り、国東を完全に治めるようお伝えしてある」

 そして父の命を賭けた根回しと先読みの力に感心した。だが…

「あれ?では何故私を同席させたのですか?」

 下手をすれば殺される。ならば家名を残すためにも自分か父は豊後に残留させるべきではないのか?

「なに、一人くらいはなにも知らずに振舞う者がいた方が、大内殿も警戒せずに済むじゃろうし、ワシが自分で蒔いた種じゃ。他人に迷惑をかけるのは悪いではないか」


「身内でも悪いわ。この糞親父殿」


 危うく死地に赴いていたかもしれないことを理解して鑑興は目の前の鬼を海に放り投げようかと考えながら、のど輪をかけた。


 それから10日して、田原から、すぐには帰れないが七月中には戻ると書状が届いた。

 これは史実通りの流れである。

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 豊後大友家の劇薬 田原親宏が国崎にもどりました。これで北の守りは盤石。南の志賀氏も一党独裁ができなくなり、パワーバランスがとれました。

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