57.明日、ロサ・ルゴサで!


 ミスター・エドが持ってきた、重い封筒の中身を、藍子が訝しそうにして開けようとしている。


「なに。これ。すごい、ずっしりしている……」

「ミスター・エドが訪ねてきて、それを渡されたんだよ」

「え、ミスター・エド?」


 御園家のサポートに徹している裏方プロの男性がどうしてと藍子も不思議そうだった。


「小笠原の同僚向けのお披露目パーティーの準備を手伝ってくれるというからさ。そこにあるものを見て選んでおいてくれと言われた」

「えーーー! ミスター・エドが!?」

「御園系列でやっているらしい。なんでも小笠原の隊員のプライベートパーティーのお手伝いを繰り返しているうちに、事業にしてしまったらしい」


 なんでもお商売にしちゃうんだと、藍子も驚きながら、でもさっそく封筒を開けている。


「えー! とっても素敵! お料理いろいろ選べるんだ」

「いろんなスタイルがあるから、締め切り日までに選んでおいてくれとのことだったよ。主催は城戸准将夫妻だって。おすすめの小笠原スタイルは会費制がいいってさ」

「そうなんだ。そうよね、こっちの準備も必要だったわよね。気がつかなかった……。美瑛でドレスを合わせたら、もう気が抜けちゃって」


 帰ってきたばかりなのに、藍子はミスター・エドが持ってきたパンフレットを開きながら、制服姿のまま椅子に座り込んでしまった。


「手順の案内もあってわかりやすくしてくれているのね。選ぶことだけしてくれたら、あとはミスター・エドが全部手配してくれるみたい。いいのかな……。お値段も良心的」

「いいんじゃないか。隼人さんが隊員のお祝いのお世話すると、ミスター・エドがお手伝いをするのだろう。だからそのまま、事業になったんだろうな」

「でも、御園家ぐらいの資産がないと、この離島でのお商売は難しいのでしょうね。この住宅地を含めて、すべて隊員のための事業ばかり。軍との信頼関係もないと出入りできないもの。もう三代か四代ぐらい関わっているわけでしょう」

「ま、巡り巡って、海人の家のためになるのだから、おもいっきりお世話になろう」

「うん。それに、いちばん安心よね。わあ、デザートも種類いっぱい。ココちゃん、どれが好きかな」


 そんな藍子が漏らしたひと言を聞いて、エミリオも顔をほころばす。

 食事をしていた席から、藍子が座っている椅子へと移動し、いつものように背後から彼女に抱きついた。


「俺と同じように、小さな友人を気にしてくれて嬉しいよ」

「お土産、まだ渡していないんでしょう」

「ああ、明日な」

「私も一緒に行こうかな」


 そうしよう――と、微笑みあうと、どちらからともなく、すぐに唇と唇が重なった。

 夜の静けさが二人を包む。遠く波の音、彼女の息づかい、自分の彼女を愛撫する吐息。それだけ。


「はやく見てみたい。藍子のドレス姿」

「私も――」


 ほんとうにいっさい、匂わせてもくれなかった。どのようなドレスなのか、雰囲気になるのか。

 当日、彼女が綺麗に身に纏った時、その時、エミリオも初めて目にすることができる。

 その日を待ちわびて……。






 いまもたまに。夢に出てくる。生まれて初めて見た真っ白な丘の町、真っ白なゲレンデ。


『行くよ。ほら~、藍ちゃんも、海人も行っちゃったよ。え~、またブーツが緩んじゃったの? 行く前にちゃんと履けたか確認したのかって、藍ちゃんが聞いていたよね? もう、私、先に行くね』



 黒髪の女の子がふいっと顔を背けて、ゲレンデを滑り降りていく。

 エミリオは甘く噛ませていたスキーブーツのバックルを再度きつく締め直す手を急かした。


『まってくれ!』


『あはは、ミミ、遅い~! 心美が先に上手くなっちゃった』


 十歳ぐらいの女の子がすいすいと先に滑降していく。エミリオも『負けないぞ。俺だって○年目』と意気込んでゲレンデを滑り降りていくが、どうしてか黒髪の彼女に追いつけない。


『ミミ、こっちこっち』



 え? あれ。心美?




 目が覚める。エミリオが眠るベッドルームには、ほのかに花の香りが漂っている。

 ここは常春の島。いつも花が咲いている。

 いまは、夏。バラの盛りだ。この時期は、この住宅地のあちこちの家で咲いている花やバラの香りが家の中にはいってくるのだ。


 休暇の第一日目。今日は準備をして、明日はまた彼女の実家、北海道へと向かう。

 彼女は支度で忙しいのか、毎日一緒に眠っているベッドにはエミリオがひとりだけで、隣にはいなかった。


 素肌のままで眠っていたエミリオは、ブロンドの髪をかき上げながら、おもむろに身体を起こす。

 それと同時にスマートフォンが鳴っている。枕元にあるそれを手に取ると、表示は『父』だった。


「はい……、グッモーニン、パパ……」

『なんだ、なんだ。眠そうな声だな。さては今日から休暇で朝寝坊をしたな』

「正解。巡回航海任務からも帰ってきたばかりだしな……。もしかして、いまから?」

『おう。一足先に行くからな。美瑛に。ママに代わるな』

『エミル! おめでとう!! ママも待ってるからね』

「おめでとうって。それは明後日だろう……」


 まだ眠気が残るが、電話の向こうは、相変わらず両親が賑やかにしている。

 特に母のエレーヌがきゃっきゃっとはしゃいでいて、そんな母を父が豪快に笑い飛ばしている賑やかさ。でも、エミリオはふと頬を緩ませていた。


 厳しい航海から帰ってきて愛する彼女の笑顔と匂いと優しさに触れたとき、賑やかな両親が変わらずにいることを知るとき、エミリオは『俺、護ってきたんだな』と、やっと達成感を得られる。心がひとりの男だったり、ひとりの息子に戻ることができるのだ。


「父さん、母さん。気をつけて。俺も明日、藍子と行くから」

『おう、待ってるぞ』

『エミル、一緒に写真とりましょうね! ママも素敵なドレス買ってもらったの! じゃあねえ、いまからパパと行ってきます!』


 ハッと目が覚める。


「いや、ママ。一緒に写真って、」


 電話が切れた。

 うわ。絶対に『ウェディング・フォトブック』用の写真撮影のときに、ひっついてくるとエミリオは焦った。撮影場所にラベンダー畑があるのだ。

 ずっと前から予測していた通りになって、逆にびっくりする。


 でも。やっぱりエミリオは笑っていた。


「ま、いいか。あはは!」


 またベッドへと寝転がって、ひとりで笑い飛ばしていた。


 息子と彼女が白い衣装で並んでいるその端に、元気いっぱいな両親が息子夫妻に負けずのキラキラの笑顔で入り込んでいるのが、いまからでも目に浮かぶ。



 ポロシャツを着込み、身なりを整えて一階に降りても藍子がいなかった。

 テーブルに『園田少佐に呼ばれたので、城戸家へ行ってきます』というメモが置かれていた。


 明日、皆が美瑛へ出発する。

 当初の予定が変わり、日帰りは子供たちが大変だからと美瑛に一泊ステイする方針に代わったのだ。義父の青地が『その日はロサ・ルゴサを貸し切りにしよう』と、宿泊する部屋を全部、招待客用にあててくれたのだ。

 そんな中でも『だったら、俺と葉月は別の宿を取るよ』と、上官として気を遣ってくれたのか、富良野の宿泊してみたかったホテルを予約したらしい。

 なんでもかんでも『御園家の当主』として叶うらしく、海人も『ほうっておいたら。たぶん、自分たちも部下に気兼ねなく、ふたりきりで過ごしたいんだよ』と教えてくれたので、申し出どおりにエミリオも受け入れておいた。


 エミリオと藍子も別便で北海道へ行こうかと計画していたが、ミスター・エドが『どうせなら、行きだけでもプライベートジェットで皆様と一緒にいかがですか』と勧めてくれたので、便乗させてもらうことになった。


 というわけで。小笠原の招待客と共に、明日は一斉に美瑛入りをすることになっている。


「明日の相談かな」


 心美と一緒に飛行機に乗って『お花のレストラン』へ。

 藍子も心美もそれを楽しみにしていて、最近は、顔を合わせれば『ミミには内緒』とドレスを着ること、その日の相談をしたりしている。

 そのためか、エミリオと藍子は城戸家へとお邪魔することも増えていた。


 今日も新郎のエミリオには内緒でなにをしにいったのかと、目覚めたついでに、エミリオも夏空の下へと家を出る。


 目覚めたときに寝室でも香っていた風が、往く道でもしている。


 いいな。これからここで、彼女と子供と暮らしていけるのか。

 この想いがあれば空を飛べるなとすら思える。

 帰ってくる家に待っている人がいることの支えを思う。


 この住宅地で花の香りがするのは、海辺の住宅地初期組と言われている城戸家の庭が素晴らしいからだ。他の家の妻たちも、城戸家の庭に憧れて、こぞってガーデニングをする。

 だから夏になると花の匂いに囲まれる。


 ほのかなバラの香りがするその家が見えてきた。

 庭を覗くと、やっぱり。藍子と心美が園田少佐と一緒に楽しげな笑い声を立てて、バラの木に向かっているところだった。


 黒髪の女の子が、庭先に現れた男をみつけて、笑顔になる。


「ミミ!」


 エミリオも微笑んで手を振る。

 去年よりもしっかりした足取りで駆けてくる。赤ちゃんぽかった幼さが抜けて、ますます大人顔負けのお喋りをするようになっている。


「ココ、おはよう」


 ピンク色のバラを抱えて走ってくる心美が、庭先の柵にいるエミリオのそばに辿り着く。


「ミミ、おねぼうさんだったんだね。もうお昼だよ」

「あ、ああ。今日から休みだから、ゆっくりしてしまった」

「パパもだよ。まだ寝てるの。ユキナオちゃんもだよ」


 城戸准将もユキナオも今日から休暇だった。どうやら今日は明日の美瑛行きのため、ユキナオも城戸家に宿泊しているようだった。

 だからなのか、心美の不服そうな顔が『男はそういうもんなのね』といいたいのだなとエミリオは苦笑いを浮かべる。


「藍子がここにいるとメモを置いていたから来てみたんだ。バラを摘んでいるところだったんだな」

「内緒だから。ミミはバイバイ」


 一気にデジャブが起こった。


 いま立っているところがその位置で、数年前、まだ赤ちゃんのようだった彼女が、舌足らずな口調で、おなじことを言ったのだ。

 呆然としているエミリオに構わず、心美はバラを抱えたまま、またママと藍子がいるバラの木まで戻っていってしまった。ものすごく冷たくあしらわれた気がしたので、エミリオは呆然としていた。


 それを気にしたのか、藍子が城戸家の花の庭を歩いてこちらへと来てくれる。

『あいちゃん、内緒だよ』と心美が念を押す声も聞こえてきた。


「エミル、やっと起きたの。任務も終わったばかりでお疲れだと思ったから、そっとしておいたの」

「ありがとう。目が覚めたらちょうどパパから電話があって、これから美瑛へ向かうとのことだったよ」

「瑠璃からも連絡があったわよ。たくさんの小笠原の隊員が招待客としてやってくるから、そわそわしていたみたい」

「そうか。いよいよだな」

「うん。私もそわそわしてる」


 エミルと藍子が柵越しに話しているその間も、心美がこちらをじっと見つめている。

 それはもう監視されているような怖い目つきだった。


「心美が睨んでいるんだが……。内緒だからバイバイと言われてしまったんだ」

「あ、うん。そうなの。美瑛まで内緒なんですって」

「だったら、俺はもう戻るな」


 そう思ったのに。心美が母親の園田少佐をなにかを囁きあっている。

 そのうちに園田少佐が娘の心美に耳打ちをして、なにかを手に持たせ、彼女の背を押した。

 母親に促された心美が、またエミリオを藍子がいるそこまで駆けてくる。


「ミミ、これ」


 白くて小さな八重咲きのバラを心美が手にして駆け寄ってくる。


「これ、ミミにあげる。結婚、おめでとう」


 追い返すだけでは気が咎めたのか、いつもどおりに一輪のバラを彼女が届けてくれる。


「ミミは白がいいねってママと話していたの」

「そうか。ありがとうな」

「あのね、あいちゃんパパと薔薇比べすることになったの……、あ、言っちゃった!」


 藍子が一瞬だけギョッとしたが、すでに遅しだったようだ。


「いつのまに。青地父さんとそんな話をしていたんだな」

「ほら、うちの実家はロサ・ルゴサで、ハマナスが咲いているでしょう。おなじ薔薇の仲間だから」

「もう、それ以上は内緒。ミミ、バイバイ!!!」


 もう言っちゃった、言っちゃった――と、心美が叫びながらママのところへと戻っていく。

 園田少佐も申し訳なさそうな笑顔を遠くから見せてくれ、そっと会釈をしてくれたので、エミリオもおなじように返した。どうやら、娘に引き留められて、エミリオに近づけないらしい。


「薔薇比べもそうなんだけど。瑠璃とも約束しているみたいなの。あ、これも、ミミには内緒だった」

「なんだよ。わかった。俺は大人しく家に戻る。明日の支度も残っているしな」

「ふふ。もうだめ。私、いまも薔薇を摘みながらニヤニヤしちゃってだめなの。あ、これも内緒かな?」

「わかった。女性同士でなにかあるんだな。美瑛でわかるまで楽しみにしておく」


 あいちゃん!

 そんな心美の声がして、藍子がこれ以上エミリオと話していると心配されるから行くねと、笑顔で離れていった。


「ふう、主役は藍子だ。男は大人しくしておくか」


 まだ薔薇を摘む女性たち。

 母親の清らかな微笑みを浮かべている園田少佐。

 愛らしい笑顔で瞳をきらきらとさせている小さな友人、心美。

 泣きぼくろの彼女が、頬を染めてしあわせそうに薔薇を摘んでいる笑顔。


 パイロットの藍子ではない、花嫁の顔をになっている藍子。

 エミリオも、ふと口元を緩めて見つめて、最後に声をかける。


「明日、ロサ・ルゴサで!」


 彼女と、小さな友人と一緒に。

 ロサ・ルゴサに囲まれる家まで、また帰る。



◆ Naked Ai(終) ◆



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