21.ウサギにつままれる
いったいどこから現れた!? 確かに備品室や装備室、データ室などの保管庫のような部屋が通路の奥にはあるが、通りすがったときに人の気配などなかった。
銀次も焦った顔になっている。
「お、お疲れ様です。連隊長。いや、びっくりしました。さすがですねー。フロリダの特別訓練校卒業生ですもんね。飛行訓練と平行して、特攻訓練を受けられただけありますねー」
いつもの調子で銀次がその場の空気を和ませようとしている。普段はアイスドールといわれている指揮官の彼女だが、今日はエミリオがよく知っている『ほんわかしたご近所の奥様』の顔でそこにいる。
「お一人ですか? まさか、また……園田少佐を置いて」
側近を置いて行方不明になるという有名なサボタージュをしているのかと、そんな時の葉月さんに出会ってしまいエミリオもハラハラしてくる。
「ううん。園田にはここに来ると伝えてあるの。エミルに用があってきたのよ」
サボタージュではなかったが、エミリオ狙い撃ちの訪問だった。だがそれだけで、よく気がつく銀次が察した。
「あ、俺――。先に行ってるな」
「あら。柳田くんも一緒でいいのよ」
「え、あの、失礼ですが、どうされたのでしょう。先日の……視聴させていただた資料のことでしょうか」
「まあ、柳田くんもさすがね。スナイダーがあなたを手放して雷神にくれたはずだわ」
栗毛のミセスがこんな時だけ、琥珀の瞳を鋭く向けてきた。だが一瞬で、いつものおっとりした葉月さんの笑顔に戻った。
「ごめんなさいね。当時、息子には言えないことだったから、致し方なくそのままにしていたことで、藍子さんを困らせているんじゃないかと気になって気になって。かといって、私がわざわざ訪ねていくのは目立ってしまうし、こちらの新棟舎にやってくると海人に見られちゃうかもしれないと思って――」
「ああ、だから……。本日、見学と称して……」
「そうなのよ!」
すっかりお母様の顔だったので、エミリオを銀次も顔を見合わせほっとする。
連隊長というよりは、息子のお母さんとして潜り込んできたということらしい。
「それでね。エミル……。藍子さんと海人のことなんだけれど」
こんなこと聞いてごめんなさいね――と気後れしている様子は、どう見ても皆が知っているアイスドールの少将殿ではなかった。
「まだ海人本人からは聞いていないようですし、私自身からも伝えるには、そちらのご家族である海人を差し置いて話すことなんて出来ません。彼女もなにかを感じ取っていますが、相棒の海人から話すまでは知らぬ振りをすると言っています」
「その、もし、海人が藍子さんに話すようなことがあっても、それは息子の判断だから私は構わないの。ただ。その相棒に自分から話すまで、決意するまでが荒れるかもしれないから」
それは確かに。こちらからは話せ話せとせっつくような内容でもないから、海人の気持ちに添っていくしかないのだ。
「大丈夫ですよ。葉月さん。俺と藍子で、寄り添っていきます。そばにいますから」
本当なら雲の上のお人なのだが、エミリオはすっかり近所にいる青年とご近所の奥様という空気で答えていた。
「俺も、エミリオと一緒に様子を気にしておきます。妻にも伝えておきますね」
「ありがとう。柳田くん。愛美(めぐみ)さんはお元気? 横須賀司令本部の秘書官だったころは、私も随分、女性として気遣っていただいて」
「いまは反抗期の息子と格闘中です。ですから、葉月さんのいまのお気持ち、もしかすると妻のほうがよくわかるかもしれないです」
「ほんと。反抗期なんてなかったと思ったら、成人する間際に襲ってくるんだものね……」
海人自身も『俺、けっこう素直でききわけのいい子供だったんですよ。いまはそんなことやめちゃいましたけどね!』と笑い飛ばしていたことがある。きっとその『聞き分けの良いおりこうさん』をやめたときが、海人の反抗期の始まりだったのだろうとエミリオは思っていた。
「なにかあればお知らせいたしますよ」
「だったら。なにかあれば、園田にすぐに伝えてくれる?」
「わかりました」
――と、返答したその時。エミリオの目の前で母親の顔をしていた葉月さんの表情が、はっとしたものになる。
「ここで待っていてくれるかしら。ほんの二分よ。誰が来ても、私がここにいるって言わないでね」
さっと音もなく彼女が向かったのは、エミリオと銀次が先ほど通過したばかりの奥への通路。やはり備品室だった。
ほんとうに音もなく、あっという間に入っていった。ドアを閉める音すらもしなかった。
「すっげ。なんか葉月さんのこれまでの経歴が理解できちゃうの目撃した気分だぞ」
「なんの音も立てずに、さっと入っていきましたよね」
銀次とともに、エミリオも驚愕の眼差しをそちらへ向けていた。きっといつもあのような状態で、周囲の人間の目を盗んで自由自在に動いているのかと納得のものだった。
それで、どうして御園葉月少将が慌てるように隠れてしまったのかも、すぐにわかった。
エミリオと銀次が備品室から、もとのメイン通路へと視線を戻したその時、すぐ向こうに、またもや驚く人がこちらへと向かってきていた。
『彼』も、エミリオと銀次に気がつく。
「おお、エミルに柳田くん。ひさしぶり!」
葉月さんと同行していたはずの海野達也少将だった。新島の東南防衛司令本部のナンバー2になっている。言ってみれば、同期でライバルの葉月さんより遙か上位の地位に就かれた。
エミリオはすぐに理解する。葉月さんが隠れたのは、遠くにこの人の影を見たからなのだと。
「お久しぶりです。海野少将」
「お疲れ様です。海野司令」
それぞれ敬礼をして挨拶をする。
「本日も訓練、ご苦労。突然の訪問、気を遣わせてしまったね」
海野少将も敬礼を返してくれるのだが、こちらもご近所のおじ様という気さくな笑顔に表情が和らいでいた。
「ちょうどよかった。エミルのところに、葉月が訪ねてこなかったか」
ふたり揃ってドキリと硬直する。さあ、どちらの意に沿うべきか? 同じ少将で司令だが、海野少将のほうがランクが上と言えば上の地位にいる。
「つい先ほどまで、一緒にそこを歩いていたんだよ。ちょっとした言い合いもしていたさ。それで俺がちょっと考えて黙って前を見ていた隙に……」
それも想像するには容易いことで、先ほど備品室にさっと隠れたような素早さと一瞬の隙をつく身軽さで、海野少将を欺いて離れてやってきたということらしい。
「くっそ。あの女、いっつもいっつも……、俺だっていちおうフロリダで修行を積んだ海兵隊員だったんだぞ」
うーーーと、まだ若々しい黒髪をかきむしる海野少将を久しぶりに見てしまい、どう反応してよいかわからないまま、エミリオと銀次は一緒に表情を強ばらせたまま直立不動状態を保っていた。
「そうだ、そうだ。葉月が訪ねてくる前ならちょうどいい。ちょっといいかな。ちょっとだけ。ここからは俺は司令でも少将でもなくて、御園家のお隣のおじさんな。こっちこっち」
銀次とエミリオの背中を押して、海野少将が向かおうとしたのは『備品室』。しかもドアノブに手を掛け、開けようとしている! その部屋の中にはいま葉月さんが……。
海野少将から逃げてきた御園少将と、逃げられた彼女に怒りながらやってきて、でも彼女には内密で話したいことがある海野少将。
普段から、大人げない言い合いも厭わないおふたりがここでかち合うとどうなるのか。エミリオは為す術もなし!
「ごめんな、ごめんな。ちょーっと海人のことで聞きたいことがあったんだ。で、閲覧許可した資料の確認でこっちの連隊長のくそめんどくさい女に面会で来たついでついで」
ついにドアを開けて、銀次とエミリオ共に入室してしまう。
「ほんの五分。話に付き合ってくれな」
昔から変わらぬハンサムな笑顔を見せてくれる海野少将に押し込められたが、エミリオは驚く。狭い備品室なのに、そこに御園少将がいなかったからだ。
「え、え?」
銀次もキョロキョロ見渡しているし、エミリオも狐(ウサギ?)につままれた気分だった。
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