32.藍子の実家 ロサ・ルゴサ


 もう気を取り直して、違う話題をと藍子は気にしていたことを海人に話す。


「海人、宿舎でもちょっとしたものは自分で食べられるよね」


「ええ、もちろん」


「引っ越しするにあたって、貯蔵していた食料がいっぱい余ってしまって処分に困ってるの」


「そんなに貯蔵しているんですか? そういえば、自炊すると言っていましたもんね」


「そうなの、実家からすっごい送ってくるの」


「へえ、ご実家、どちらでしたか」


「あ、そうだ。言い忘れていたけれど、私、実家が北海道なんだよね。いま家族は美瑛にいるんだけれど、そこからわんさか送ってくるの。ちょっと食べるの手伝って欲しいんだけれど」


 海人がなんですってともの凄い勢いで藍子に詰め寄ってきた。


「藍子さん、美瑛の出身だったんですか!」


「え、えっと、出身は札幌……。父が料理人でペンション経営をするために美瑛で独立したから、いま実家はびえ・・」


「美瑛でペンション! どこのペンションですか!」


 美瑛のオーベルジュ『ロサ・ルゴサ』と答えると、海人が馬鹿みたいに目の前で悶絶した。


「めっちゃ美味かったオーベルジュじゃないっすかぁ……」


「え、知ってるの。食べにいったの? それとも泊まったの?」


「レストランランチも、宿泊もしましたよ! ガンズさんのご家族と一緒に泊まったし、予約を取るのも大変、ランチも並んでいること多いし、ご実家の人気を知らないんですか」


「えっと、繁盛しているということは知っていたし、忙しそうにしているのもわかってるよ。だから実家に帰るの気が引けて……」


 美瑛の飲食店はシーズンになれば全国からの観光客受け入れで、どこのペンションもレストランもカフェも市場も忙しくなることは当たり前だと藍子は気にしたことがなかった。


「地元のグルメ雑誌、レジャー雑誌にはよく載っているんですよ」


「そうなんだ。実家を出て軍隊に入った後から、美瑛に移って営業を始めたから、最近の道内の情報は知らなくて」


「っていうか。ロサ・ルゴサのお嬢さんだって自覚ないですね」


「海人だって御園家のお坊っちゃんて自覚ないよね」


 海人が押し黙った。なるほど、そういう感覚? なんて首を捻っている。


「でね。父が作ったベーコンの塊とかがまだ余っていてね。小笠原へ冷蔵してまで別送するのが手間だから、ここで食べ尽くしておきたいんだよね」


 隣にいる海人がうつむいて静かになった。藍子は『どうしたの』と彼の顔を覗き込む。ふるふると震えている。


「ロサ・ルゴサのシェフが作ったベーコンってことですよね……」


「うん。ペンションで良く出すみたい。作った時に、私にも送ってくれるの。焼いてもポトフにいれても美味しくてね」


「ください、もうください!! もらいに行きます!!」


 にこにこしていても余裕綽々のお坊っちゃんが、急に必死になる姿に藍子は唖然とする。


 しかもジュニアがなにか騒いでいると事務室の隊員がこっちを見てる始末。挙げ句には、離れたデスクにいた岩長少佐がやってきてしまう。


「こら、海人。なにを騒いでいる」


「少佐。聞いてくださいよ。藍子さん、美瑛にご実家があって、ロサ・ルゴサのお嬢さんだったんですよ」


 岩長少佐も『え』と目を瞠って藍子を見た。


「いや、藍子……。北海道出身だとは知っていたが、まさか、あのペンションの?」


「いま海人から聞きました。少佐もご家族とお泊まりになってくださったとか。ありがとうございます。父が経営しているんです」


 あのガンズさんまで『うわ、知らないで泊まっていた』と絶句していた。


「妻と娘が行きたい行きたいと言うもんでね、面倒くさがっていたら、海人が全部手配してくれて。いや、行ってよかったと思ったんだよ。料理は美味いし、ペンションはいい雰囲気だし、妻がまた行きたいと常々言っているんだよ」


「それを聞いたら父が喜びます。今度のボスが千歳基地にいた方で、ご家族で泊まってくれたと伝えておきます」


「ガンさん、そのシェフが作った自家製ベーコン。藍子さんが引っ越す前に分けてくれるっていうんですよ」


「そんなに多くはありませんが、よろしかったら岩長少佐も。一度、千歳には帰られるんですよね。まだ送られてきたばかりのものなので持って帰られると思います」


「いやあ、妻が喜ぶ。あそこの朝食は優雅で良かったよ」


 たぶん、その時のもベーコン出ていますよ――と伝えると、二人とも「うまかった、うまかった」と喜んでくれた。


 少佐に『仕事しろよ』と言われ、二人一緒にデスクに向き直る。


「いや、凄いご縁が舞い込んできちゃったな俺。美瑛でペンションを経営するシェフのお嬢様と相棒だなんて!」


 またお日様君モードで海人がにっこにこしている。


「私だって、まさか御園家のジュニア君と相棒になるとは思っていなかったわよ」


「でも、俺、ほんとうは小笠原に戻るのがっかりなんですよねー。あー、なんで合格しちゃったかな。せっかくあの島を出られたのになあって。俺、千歳基地を希望したのは北海道グルメの旅がずっと夢だったからなんですよ」


 俺、食べるの大好き――とのことらしい。メカオタクだったり、グルメ好きだったり、そういうのが趣味らしい。


「北海道もいいけど、あの島だって珊瑚礁の綺麗な海じゃない。滅多にないよ、あんな綺麗な海をそばに暮らせるのは」


「逆に藍子さんはどうなんですか。北国育ちで南の島に憧れたりしなかったんですか」


「それは、まあねえ。でも入隊してから候補生として浜松、着任して岩国とか、違う風土に気候も触れてきたからね」


「北海道の食巡り、まだ途中だったのになあ。美瑛に富良野なんて休みになるとレンタカー借りてしょっちょう遊びに行っていたんですよ。もう空気そのものが癒し。見晴らしのいい大地も島にはないものでしょう。ああ、稚内に知床に行っておけばよかった。フライトでは真上を通るけど意味ないもんな。ああ、惜しい」


 まさか千歳基地を希望したのはその食い気かなと、藍子は思ってしまった。


「ああ、冬の洞爺湖もまだだった。夏には行ったんだけどな。うちの両親が冬に行ったことがあるらしくて、雪景色が綺麗だった綺麗だったと、もう子供の頃から何度も聞かされて」


 ご両親の思い出話、それもどうやら北海道へ行きたかった理由でもあるようだった。


「じゃあ、今度は休暇の時は、私と一緒に実家に行こうよ。私も空を一緒に飛ぶ相棒は家族に紹介したいから」


「マジですか! 藍子さん、愛してる!」


 はあ? もう愛嬌満点すぎて嫌味もなくて下心もなくて本当にお日様君で、藍子も愛していると言われても拍子抜けする。


 でも事務室のあちこちから、くすくすと笑いが聞こえてくる。御園ジュニア君があまりにも天真爛漫で、この前まで藍子と祐也のことで素っ気ない空気だった事務室も柔らかくなっていることを感じてしまった。




 しかしこの後、奇しくも藍子の自宅でホームパーティをすることに。


 海人が俺も料理すること出来ます、いっそのこと一気に食べちゃいましょうということになった。


 藍子の自宅では初めてのこと。

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