11.女になれない
夕暮れ間際になって、藍子は肩章がついている夏の白シャツ制服のままダイナーに行ってしまう。研修で来たから私服なんて持ってきていなかった。
せめてと思って万が一に備えて持ってきた濃紺のタイトスカートで来た。そしてコックピットではひっつめて束ねている髪を、やわらかめにして下ろしてきた。
それらしき男性が見当たらなかったので、小笠原の綺麗な夕陽が見える窓際のテーブル席に座った。
アイスコーヒーを頼んで飲んでいると、ひとりの背丈がある男性が慌てて駆け込んできた。
店内を見渡し、向こうの男性はすぐに藍子を見つけてくれた。藍子は初めて見る顔でも目があったのですぐに彼だとわかった。
「あの、朝田藍子さんですか」
「はい。藍子です。雷神フライト整備班に所属の竹原さんですか」
「はい。竹原です」
真面目そうな男性だった。背が高くがっしり系、けっこう身体が大きい。スポーツでもしていたのかと思える体型だった。
汗をかいている彼はハンカチで拭きながら、藍子の目の前に座った。
「えっと、あの、光栄です。ジェイブルーの女性パイロットさんにお会いできて」
「こちらこそ。お忙しいのに、お時間を作ってくださって。いまのいままでお仕事だったのではないですか」
「はあ……、メンテナンスがなかなか。特にイエティ……あ、いえ、業務の話はすべきではなかったですね」
「イエティて。あの城戸君ですよね。双子の兄のほう。しょっちゅう空で会うんですよ。彼がやってくるとあちらの飛行隊もムキになって大変なんです」
「ですよね! そうなんですよ。もうユキもナオも機体の限界まで使い果たして帰ってくるので、メンテナンスが大変で」
「ですけれど、雷神のネイビーホワイトの整備士に抜擢されるのは一流の整備士である証拠ですよ」
ありがとうございます――と彼が汗を何度も拭う。
そこから暗くなるまで割とスムーズに会話が進んだ。でも仕事の話ばかり、そう仕事の話ならどんどん進む。彼も笑顔で話しやすそうだった。
でも藍子は言わなくてはならない。祐也に言われて会ったけれど、いまは誰とも付き合う気はないと――。
「あの、藍子さん。あのですね」
あちらから話しかけてきて、藍子も「なんでしょう」と微笑み返した。
「も、申し訳ありません!」
急に頭を下げられ藍子はびっくりする。
「どうしても、その先輩に言われて断れなかったことと、まだ、誰にも公表していない『恋人』が俺、いるんです。だから、その、」
さらに藍子は仰天して言葉を失う。そして、自分の愚かさとはしたなさにも気がついた……。
なんだ。祐也のためといって会いに来て、この男性は私に会うからには気があるんだとすっかり思いこんで、こっちからなんとか断らないとなんて、傲慢なこと考えていたその愚かさに――。
彼も先輩のプレッシャーを受けて義理で会いに来ただけだった。
「いいえ。ありがとうございました。私も相棒に言われて来ただけなんです。気にしないでください」
「藍子さんのような美人なら他にも気に入ってくれる男いっぱいいますよ」
どうかな。パイロットの女なんて割と敬遠されるんだよねーと思いつつも、彼は誠実な男だとわかったから藍子もさっぱり微笑む。
「彼女さん、小笠原にいらっしゃるの?」
「いいえ。横須賀にいます。実は同じ整備士で、彼女はまだ若いのですけれど、今年のはじめまで同じ整備班にいたんです。同じ班にいたので周りが気を使わないよう、黙って付き合っていました」
こちらはジェイブルー小松組と違って、業務のために異性関係については匂わせない決意をしているカップルだった。
改めて、そのカップルそれぞれだなあと藍子は唸ってしまう。
「ですがそろそろ別居婚になったとしても一緒になろうかと思っていたところだったんです。彼女にも整備士の道を歩んで欲しいし、自分も雷神と一緒にいると空母に乗り込んで長期間留守にすることも多かったので、いつ彼女と別れるかわからない状態で。だから周りにも彼女がいると堂々と今まで言えなかったんです」
「そうでしたか。申し訳なかったです。私が独り身でいることを相棒が気にして、知り合いを通して貴方を捕まえたみたいなんです。私もいまは仕事でせいいっぱいで、男性が満足する生活を送れる自信がありません」
「空を護る仕事ですからね。自分も雷神についていくから良くわかりますよ。でも本当に藍子さんの噂はよく聞いていて、女性パイロットならではの視点で、いいデータを持ってくると聞いていたんです。仕事の話はとても有意義な時間となりました。それはお話しできて嬉しかったです」
「こちらこそ、雷神の普段の様子が聞けて参考になりました。特に、ユキ君ナオ君のこと。やっぱり皆さん、手を焼いてらっしゃるのですね。彼らの叔父様であるソニック、城戸准将のお話も聞けて嬉しかったです」
お互いにその気がなくても会ったことを詫びて、彼はすぐに席を立った。
藍子も夕暮れが消えた海が見える窓辺で、彼を見送った。
そして一人、そのテーブルにもう一度座り込んだ。
じっと一人でじっと考える。……涙が出そうだった。
「なにやってんの、私」
どこかで素敵な男性と出会えるかもなんて、期待しながら来たのも嘘じゃない。
いい加減、祐也のことは諦めて、彼の妻里奈を煩わせる女でなくなるよう、なんとかいまのこの状況を打破できるかも。
打破出来たら、ずっと祐也といられる、一緒に飛べる。そう思っていたんだ。
案外、身勝手だと気がついた。男を作って里奈を安心させて、気のない男を隠れ蓑にして、いつまでも祐也をそばに感じられる状況を作ろうとしていた?
そのために隠れ蓑になった男性に、その期待をほんの少しでも持ってしまった竹原氏に非常に失礼なことになるところだった。
ホールスタッフが来て空になったグラスを『お下げしてもよろしいですか』と尋ねられる。
「あの、ここ、カクテルとかありますか」
藍子の問いにアメリカ人のホールスタッフがメニューにあると教えてくれた。
よかったらカウンター席ならお好みのものを目の前で――と言われる。テーブル席を一人で占領することも申し訳なく、藍子はカウンターに移った。
島ハチミツを使った『アメリカン・レモネード』というカクテルがおすすめだった。
赤ワインとレモンの酸味、きりっと冷やされているカクテルを飲んで心を落ち着けていると、手元に置いていたスマートフォンが震える。
祐也だった。
『おい! なんだよいきなり破談って報告がきたぞ!』
ええ。もう『ちょっとお見合いの顛末』が後輩から先輩に届いたのかと藍子は目を丸くする。
「どうだっていいでしょ。もともと乗り気じゃなかったし、お相手の彼も突然先輩に勧められて困っていたんじゃないの。会った、紹介したという事実があればなんとかなるんでしょ」
『おまえ、一生懸命に会話したのか? 面倒くさそうな態度取ったんじゃないだろうな』
むかっとしてきた。きちんと大人の会話をしたし、互いの事情も話し合った。ただ、彼のほうがまだ彼女のことは誰にも教えていない、これからだと言っていたから、藍子から勝手に言えないだけ。
『彼が乗り気だったのに断られるってことはだな、藍子、おまえに問題があったんだよ。どうしていつもいつも出会った男に真剣に向きあわないんだよ。いつまでも一人ってわけにいかないだろ』
「一人でいるかどうかは私が決めることなの! 彼には彼の生き方があるの! きちんと話しもしたし、どうしてお付き合いできないかお互いに確認したわよ!」
『おまえ、なんといって断ったんだ』
相棒に言われて来ただけなんて言ったら、祐也は怒るんだろうな。藍子はそう思って黙り込んだ。そもそも会うだけでいいと拝み倒したのそっちじゃないの。それとも? 会えば恋人になってくれて奥さんにプレッシャーかけられなくなって気が楽になりたかったの? だからそんな必死になって私に男がいればいいと切羽詰まっているわけ?
そう思うともう涙が出てくる。
『藍子、藍子? なんか言えよ!』
そのまま藍子は電話を切った。
確かに藍子が本気を見せなかったり、煮え切らなかったのが今まで付き合った男性と短期間で別れる原因だったと思う。
でも男たちも、女だてらにジェット機のパイロットでしかも軍人で防衛最前線へ行く仕事をしている藍子を持てあましていたのも肌で感じてきた。
セックスだって、なんか違うと言われてばかり。藍子は大柄で見目はモデルのようにして鑑賞することは出来るが、抱くとかわいくないと言われたこともある。
つまりそういう男たちの好みにどうしても当てはまらない女。そもそも子供の頃から大柄すぎて男の子には大女とからかわられたし、女の子たちには妙に頼りにされたり『かっこいい』と言われてきた。中高校一貫の女子校で、男という煩わしさとは無縁の気楽な時期を送れた。
高校の担任に言われた。『身体能力は抜群だから、特にスポーツをしたいわけでもないのなら、国際連合軍の試験でも受けてみたらどうだ。女子だと事務官としていい仕事になるらしい』と勧められた。
かっこいい素敵な制服を着てお堅いお仕事。公務員に等しいから収入も手堅い。両親も大賛成だった。ただその後、藍子の身体能力を知った上官がパイロットの道へと導いていくのは誰もが予想外だったことだろう。藍子自身も。それでもそこで祐也に出会った。同期生のリーダーだった。藍子を同期生としても女としても尊重して接してくれた。
軍隊に入っても同じ、男たちは最初は藍子の顔に引き寄せられてくるが、肌に触れようとすると躊躇する。女らしさを感じられないと言う。見た目の美人と抱こうとする女は男にとっては異なるのかもしれない。
またスマートフォンが震える。自分から切ってしまったから、仕方なく藍子は出る。
『藍子、怒ったのか』
今度の祐也は神妙だった。
「怒っていないよ。でも放っておいて」
『なあ、帰ったら少し話し合わないか』
なにを? 藍子は聞き返す。
『このままでいいかどうかだよ。そうでなければ……、思い切って里奈と一緒に食事でもしないか。誤解を解こう』
藍子の返答は嫌だ――だった。でも、藍子は答える。
「わかった、そうする……」
『よし、そうしよう。それが近道だ』
そんな近道、もっと早く作って欲しかった。藍子から歩み寄ろうとしたけれど駄目だった。子供が産まれた時の出産祝いも祐也のデスクの引き出しに入ったままだったことを知っている。どうしても受け入れてくれなかった。そのうちに藍子も諦めたけれど、祐也もうるさく言われるよりかはなあなあにしてしまったのだろう。
電話を切ると、藍子の胸にとつてつもない空虚が襲ってくる。
いつまで続くのこんなこと。変わることが出来るの? 今更……。
この行き詰まった重い空気はいつから肩にのしかかってる?
涙が出てきた。どうしようもなく出てくる。
祐也も、ジェイブルーの研修も……。祐也を思って侵犯を選んだことも馬鹿みたいだった。
赤いレモネードを飲み干して、藍子はカウンター席を立った。
こんなところに女ひとり、涙をこぼしているなんて逆にかっこわるい。ほんとうに今夜は惨め、自分が嫌い。
何人かの男性と目があってしまったのも藍子の足を急がせた。やはり見られていた。早くここを出よう。
アメリカンな木枠のガラスドアを内ドアを開ける、もう一つ外に出るための外ドアへと足を向けたところで、どしんと誰かにぶつかる。
「ご、ごめんなさい」
「いや、こっちこそ、sorry……」
ぶつかった男性と目が合い、藍子は目を見開く。
「アイアイ――」
ダークブロンドに翠の眼、シャボンとベルガモットの香り、エミリオ戸塚少佐だった。彼も制服姿で、驚いた顔で藍子を見下ろしている。
しかも涙を存分に浮かべた目を見られた。藍子はさっと顔を背けた。そのまま急いでそこから離れようとした。
「待て、准尉」
アイアイ以外の呼ばれ方をされて、少しだけこぼれそうだった涙がぴたと止まる。その上、彼の大きな手が藍子の肩を掴んで、男らしいその胸に抱き寄せられる。抱きしめられたまま、ダイナーの外へ彼が一緒に出てしまう。
「え、あの」
パイロットの逞しい腕が力強く藍子を抱き寄せたまま、彼がぐいぐいと店から遠くへと離していく。
「少佐、離してください」
「却下だ」
上官口調で言われ、藍子は唖然とするばかり。
アメリカキャンプの住宅地へと連れて行かれる。
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