電撃文庫『はたらく魔王さま!』/和ヶ原聡司

魔王城は六畳一間!? フリーター魔王さまが繰り広げる庶民派ファンタジー!

著者:和ヶ原聡司 イラスト:029

https://dengekibunko.jp/product/maousama/201010000473.html



★特別書き下ろしSS『魔王と勇者と女子高生と悪魔大元帥と堕天使と聖職者の、交わらない一日』


 窓から吹き込む風が初夏というにはまだ優しく、降り注ぐ日脚は春というには少し強い、そんな季節のある日曜日のことだった。

 築六十年の木造アパート、ヴィラ・ローザ笹塚二〇一号室でその風に身を任せながらぼんやりと旧式のノートパソコンを叩き、動画サイトを巡回していた。

 そしてふと空腹を覚えヘッドホンを外し、畳と座布団の上でこわばった腰と尻をほぐしながら立ち上がったとき、

「あれ? 芦屋?」

 二〇一号室の事実上の主と呼んでも過言ではない主夫、芦屋四郎の姿が部屋の中に無いことに気付いた。

 いつの間に出掛けたのだろうか。

 ふと見ると、部屋の中央のカジュアルコタツの上に、何かの広告の裏面に残されたメモ書きがあった。

『買い物に行ってくる。食事は適当に済ませろ』

 なるほど、ヘッドホンをしていたので単純に芦屋が出掛ける音に気が付かなかったということだろう。

 それほど大音量で何かを聞いていた記憶はないので、もしかしたら芦屋も漆原に声をかけずに出たのかもしれない。

「ま、いいや。口うるさく言われないなら、適当にしますよっと」

 漆原は言いながら冷蔵庫を開け、しばし沈黙したあと、冷凍庫を開ける。

 そして、

「適当にって、何をどう適当にすりゃいいっていうのさ……」

 ところが冷蔵庫には、腹が満たされるタイプの食材が残っていなかった。

 冷凍庫にもインスタント食品の類は無く、ほうれん草だのブロッコリーだのコーンだのの開封済み冷凍食材がかすかに残っている程度だった。

 菓子類で誤魔化そうにも備蓄が尽きていることは分かっていた。

これで芦屋が家にいるなら、食べるものを要求して小言を言われるのが面倒なので空腹を無かったことにして我慢するのだが、いないとなると逆に食欲を満たしたい欲求が耐えがたくなるから不思議なものだ。

 真奥のクレジットカードによるネット出前サービスなども考えたが、適当に済ませろと言って出て行ったくせに、残った紙の器などを見て芦屋が文句を言うのは分かり切っていた。

 こうなると漆原に取れる手段は、堕天使の矜持を曲げてでも非常手段に訴えることしかなくなる。

 漆原は部屋の押し入れ側、隣の二〇二号室側を見てから、ふっと肩の力を抜いて首を横に振った。

「さすがにメシくれは、悪魔とか以前に人としてやめといたほうがいいな」

 基本、己のプライドの在り処にこだわることの無い漆原だが、隣室に住む鎌月鈴乃に食事をたかるという選択肢だけは取れなかった。

 鈴乃本人にどう思われるかよりも、その事実が露見した後の芦屋や真奥の反応を考えてのことだった。

「空腹は冷静な判断力を失わせるね」

 芦屋も買い物に出かけたのならそう遅い帰りにはならないだろう。

 それまで冷凍ホウレンソウとコーンをバターと塩で炒める程度の料理をしてみようか。

 そう考えてパソコンの時計を見ると、時間は午後一時半。

 漆原は芦屋の残したメモと時計を何度も見返してから、つぶやいた。

「あいつの買い物にしては、遅いな、まさか……」

 漆原はここで初めて、芦屋が仕事で出かけたのではという可能性に思い至り、

「今日、真奥が帰ってくるまで、家に僕一人?」

 時ならぬ食糧危機に直面したことに気付く。

 慌てた漆原はもう一度真剣に冷蔵庫と冷凍庫を改め、

「……クソ、なんか芦屋にいいように操られたみたいで腹立つ」

 冷凍庫の奥底に、一食分に丁度良い、ラップに包まれた冷凍ご飯が眠っていた。

 漆原は悪態をつきながら米をレンジで解凍し、あり合わせの食材でバター炒めを作ったのだが、最後まで米びつの中から米を出して自分で米を炊く、という選択肢があったことに、気付くことはなかったのだった。


    ※


 その芦屋は、アパートからそう遠くない場所にいた。

 京王新線幡ヶ谷駅にほど近い、甲州街道のとある歩道。

 頭上に首都高が通り車通りは多いが、案外人通りは多くなく、特に店などもないその場所で、芦屋はアウトドア用と思しき折り畳み椅子に腰かけ、膝の上に銀色のものをたくさん並べながら、道をじっと眺めていた。

 時折手元でカチカチと音を鳴らす銀色のものには、『乗用車』『タクシー』『バス』『自動二輪車』『小型貨物』『大型貨物』という文字の紙が貼り付けられている。

 芦屋が眺めているのは、首都高速道路幡ヶ谷インターチェンジの出口だった。

 いわゆる、交通量調査のアルバイトである。

 首都高速の都心部各インターの車両流出データ採取が目的で、登録した日雇い形式の仕事が久しぶりに回って来たのだ。

 芦屋は緊張していた。

 何せ幡ヶ谷インターと幡ヶ谷駅はすぐそばだ。

 つまり、真奥の勤め先であるマグロナルド幡谷駅前店もすぐ近くなのだ。

「うーむ」

 芦屋は、自分の身長に合わない椅子のせいで強張る足腰に顔を顰めながら、ふとした瞬間に周囲を伺ってしまう。

 何せここは、あまりに自分の生活圏に近い。

「……我ながら、こんなことを気にする性格だったとは」

 これまで芦屋は、いくつもの悪魔らしからぬ仕事を経験してきている。

何が悪魔らしい仕事なのかということはさておき、その事実を敵である勇者エミリアこと遊佐恵美や、クレスティア・ベルこと鎌月鈴乃に恥ずかしげもなく告げてきた。

だが、肝心の仕事をしている最中の姿を彼女達に目撃されたことは一度も無かった。

 恵美や鈴乃が、人が仕事をしている姿を揶揄するような性格でないことは分かっている。

 分かっているが、そんなことは関係なく、なぜかこのときの芦屋は、知り合いに仕事中の姿を見られることが単純に決まり悪いという感覚に気付いてしまったのだ。

 そんなことを考えている間にも、芦屋の指はインターから出てくる車を正確にカウントしている。

「いや、エミリアやベルに、この辺りに来る理由もないか?」

 首都高の出口は距離的には駅に近いが、それでも駅から歩いて三分ほどの場所。

 調査地点のすぐそばにスーパーマーケットがあるが、永福町に住む恵美が立ち寄るには不便だし、鈴乃からこのスーパーに来たという話は聞いたことが無かった。

「意外とタクシーが多いな」

 余計なことを考えずに仕事に集中しようと思いなおし、カウンターに目を落としてそんな感想を抱いたとき。

「んっ?」

 芦屋の視界の端を、見覚えのあるカラーリングの服装の女性が通りがかった。

「佐々木さん?」

 道路を挟んで向こう側の歩道に、笹幡北高校の制服を纏った少女が歩いていることに気付いたのだ。

 考えてみれば、恵美や鈴乃が通りかかるよりも、マグロナルド幡谷駅前店でアルバイトをしている千穂が通りかかる可能性の方が、圧倒的に高い。

「……」

 だが通りかかった学生は千穂ではなく、通りの反対側にいる芦屋にも当然ながら気づくはずもなく、そのまま通り過ぎて行った。

そして芦屋は、

「まぁ、佐々木さんなら別にいいか」

 千穂なら別に仕事中の様子を見られても気にならない。

「……なんだ、そう考えると、私は未だにエミリアやベルに対して、苦手意識を持っているということか?」

 だが千穂なら平気、という感覚を肯定すると、そういうことになってしまう。

 これは魔王軍最高幹部悪魔大元帥として、看過できない事態だった。

 そして、

「あっ!」

 余計なことを考えていたせいで、一台、中型車が目の前を通り過ぎたのを見逃した。

 乗用車だった気もするし、小型貨物車だった気もするし、最近よく見るやや大型のタクシーだった気もする。

「……仕事に集中しなくては」

 これまでの経験と記憶を動員し、微かに見えたカラーリングから大型の個人タクシーだと判断した芦屋はタクシーのカウンターを押し、まだそぞろのままの気を取り直すべく、大きく息を吐いたのだった。


    ※


 千穂は久しぶりに、一人で校門から出た。

 普段いつも一緒にいる東海林佳織は、委員会の集まりに行ってしまった。

 そもそも千穂は家と学校が近くアルバイトもしているため、友人と時間の合うタイミングというのが少なくなりがちではあるのだが、全くの一人で下校することは珍しかった。

「うーん……」

 今日は何かと巡りあわせの悪い日だった。

 朝から父は仕事で、母も友人と出かけるとかで千穂が目覚めた頃には既に家にいなかった。

 ダイニングのテーブルに置いてある弁当を眺めつつ、何となく侘しい気分になりながら家を出ると、学校に至るまでの全ての赤信号に引っかかり、学校につくと昇降口のプラスチックすのこの傷に靴下を引っかけてしまう。

 これだけでも一日がかなり憂鬱になるのに、二限目の古文の授業のノートを家に忘れてきたことに気付いてしまい、三限目には担任から、部活動の外部コーチが所要で来られないことになり部活が急遽中止になったことが知らされる。

お昼には箸箱の中の箸が似たデザインの、揃っていないものであることに気付きなんとなく居心地の悪さを感じながらもそもそと弁当を食べ、そしてこの友達のいない下校時刻である。

「朝の占い、八位だったしなー」

 朝のニュースの星占いも、過剰に気にしているわけではないのだが、下手に一番下になるよりも半端で良いのかも悪いかもわからないときの方がモヤモヤするものだ。

「はぁ、しかも……」

 千穂は、またも引っかかってしまった赤信号の交差点で、カバンから取り出したコンパクトの鏡を覗き込み、軽く前髪の様子を見てからため息を吐く。

 今日は夕方からアルバイトのシフトが入っているのだが、そのこと自体は別にいい。問題は……。

「……真奥さん、帰っちゃってるんだよね」

 学校の時間に縛られる千穂はシフトに入れる時間帯は概ね固定されている。

 今日のシフトでは、早朝から出勤している真奥は千穂がシフトに入る三十分前に退勤する予定になっているのだ。

 別に、真奥がいないからといって仕事に身が入らないわけではないし、真奥以外のクルーとも良好な関係を築いている。

 ただそれはそれとして、真奥がいる日は単純にテンションが上がることを自覚している身としては、朝からいろいろツイてない日には、少しでも想いを寄せる人の顔を見たいと思うのも人情だろう。

 店が忙しかったりすると、真奥に限らず時間に余裕のあるクルーが予定のシフトを越えて残っていることもあり、実際にいないと思っていた真奥が残っていて、得をした気分になった日がこれまで何回かある。

 せめてこんな日くらい、そんなラッキーがあってもいいんじゃないかとムシの良いことを考えていた千穂だったが、

「おはようちーちゃん」

「おはようございます……えーっと」

 店のレジで、店長の木崎が渋い顔をしているところに出くわし、千穂は残念な予感に囚われる。

「今日、もしかして空いてます?」

「空いてるんだ」

 木崎が不機嫌そうなときは、客入りが悪いと相場が決まっている。

「ランチタイムもいまいち振るわなくてな」

「そうなんですか」

「まーくんにも早上がりしてもらったくらいだからな。私がこの店に赴任して以来、ワーストに近い売り上げだ」

「え」

 スタッフルームに行くと、壁に貼られていたシフト表の真奥の部分が、千穂の持っているシフト表と変わっていた。

 朝、一時間早く出て、昼、一時間早く上がっていたのだ。

 何か理由があって直前に出勤時間が早まり、その分上がりが早まったのだろう。だが木崎の口ぶりでは、店がきちんと混雑すれば、恐らく早く出勤していても、予定の時間まではいたかもしれない。

「……お仕事、がんばろ」

 ツイてない日はとことんツイてない。そんな日もある。

 今日は帰ったら明日の学校の時間割をきちんと整え、せめて自分の不注意で起こる不運だけはなくせるようにしようと決めたのだった。


    ※


 時刻は夕方だったが、真奥貞夫は予定外に早く仕事を上がれたので、一人で銭湯にやってきていた。

 店の客入りが振るわなかったのは残念だったが、早上がりできたので銭湯はまだ空いていて、堂々と足を伸ばしながら湯船につかることができた。

「あー……今日の晩飯どうすっかな」

 今日は芦屋が夜まで仕事のはずだ。

 芦屋は漆原の食事は気にしなくて良いと言っていたので、折角なのでどこかで一人で食べてしまおうか、などと考える。

 もちろん贅沢はできないが、真奥にしてみれば外で自由に食事ができるということだけでも無上の贅沢だ。

「久々にホルモン焼肉行っちまうか」

 そんなことを考えながらも、お湯の熱さが体にたまった疲労を癒す以上に、色濃く浮き立たせる。

「……あー」

 風呂は体と心を癒すが、あまりに疲労が溜まりすぎていると、それをまざまざと自覚させ、一気に気分がダルくなってしまう。

 そして今日の風呂は、そんな風呂だった。

「しかし帰ってもなぁ、メシ作るのかったるいしなぁ」

 真奥の心は湯船の中で、風呂を上がって帰宅するか、どこかに食べにいくかで水面の波に合わせてゆらゆらと揺れていた。

 しばらくして若干ゆだりがちなまま銭湯を上がった真奥は、停めてあった自転車にまたがることなく、何となく手で押して暗くなり始めた笹塚の街を歩く。

「肉って気分じゃねぇんだよなぁ」

 最初はホルモン焼肉だなどと言っていたのに、風呂を上がったあとはなんとなくすっきりしたものを食べたくなっている人間の体の現金さに、真奥は自分で言いながら苦笑する。

 普段使う道を逸れて、牛丼屋や喫茶店、ラーメン屋や蕎麦屋などがある一角を通り過ぎるも、どれもこれも今の真奥にはピンとこないものばかり。

 こういう気分のときは無理に一番を決めずに適当な選択をすればきちんと満足できるはずなのだが、折角の自由な時間なのに、どうしてもどれか、という気分にならなかった。

「風呂入る前に飯食うべきだったかな」

 かといって、銭湯に行く前だと夕食にはあまりに早すぎた。

「芦屋、今日何時に帰るって言ってたかな」

 交通量調査の仕事は、案外拘束時間が長い。

 昼に出掛けると言っていたから、帰りは恐らく夜の九時を過ぎるだろう。

「ていうかあれだよな、結局今から何食べるにしても早すぎるんだよな」

 時間はまもなく午後五時。

「だけど帰ってうっかり寝そべった日にはそのまま寝落ちしかねないし」

 こんなに物事を決断できない日も珍しい。

 普段なら芦屋か漆原か、もしくは仕事中に千穂と、何となくその日にあったことを話すことで気持ちが整理され、何となく一日の終盤の動きも決まることが多かった。

だが今日は早朝に出勤したために芦屋とも漆原ともろくに話さず、仕事中はお客が来ないせいで木崎の虫の居所が悪く迂闊に私語を交わせず、早上がりしたので千穂とも顔を合わせなかった。

 上手くいかない、というほどではないのだが、メリハリの弱い日ではあった。

 そんなことを考えながらはっきりしない足取りで歩いていると、いつの間にか百号通り商店街に到着していた。

 笹塚駅から帰宅する人の流れと、夕食前の買い物の人の流れが混ざり合った濁流に乗り込んでしまい一瞬しり込みする真奥の目に飛び込んできたのは、とある鮮魚店の店先だった。

「……」

 その日一日のメリハリが無かった真奥は、自分でもその瞬間頭の中で何が起こったのかは分からない。

 分からないが、それこそ何かに乗り移られたとしか言いようのない行動を取った。

「何やってんだ俺」

 気が付くと真奥は白いビニール袋を持っていて、その中にはかなり大ぶりな生のホッケの開きが入っていた。

 安かったのだ。ホッケの開きとしては安かったのだ。

 だからと言って、普段の真奥なら絶対買わないし、芦屋だってこんなものを食卓に出したことはない。

 だが、外食も帰宅しての料理も面倒だと思っていた真奥は、お惣菜を買って帰ればいいという結論の下、ホッケの開きを手にしていたのだ。

 惣菜なら調理済みの焼きホッケを買えばよかったものの、家に帰るまでにぬるくなったら美味しくないなどと訳の分からないことを考えた末、なぜか生のホッケの開きを買ってしまったのだ。

 自転車の籠にホッケの開きを入れながら、真奥はこれだけ買って帰るとどんなことになるかをシミュレートする。

 米を炊いて味噌汁を作るくらいは気力を奮い立たせてやるとして、問題は、

「……ホッケってどうやって焼けばいいんだ」

 二〇一号室のコンロには一応魚焼きグリルがついているが、真奥は魚焼きグリルを使ったことがなかった。

 迂闊な使い方をすると洗うのが面倒だと聞くし、変な使い方をして折角買った魚をダメにしたくもない。

「鈴乃に頭下げて聞くか」

 鈴乃なら、魚の上手な調理方法もよく知っているだろう。

 ホッケ自体がかなり大きいので、教えを乞うお礼におすそ分けをしてもいいかもしれない。

 そんなことを考えながらアパートに帰った真奥だったが、困ったことに気付いた。

 二階を見上げると二〇二号室も、灯りがついていない。

「マジかよ。出かけてんのか。恵美と約束でもしてやがったのかな」

 インドア派の鈴乃だが、たまに恵美や千穂と連れ立って出かけていることがある。

 千穂は今日夜のシフトに入っているので、出かけるなら恵美と。

 そしてこの時間に恵美と出かけていれば、そんなに早くは帰ってこないだろう。

「……一人でやるしかないのか」

 もし焦げたりこびり付いてしまったりしたら、芦屋に謝って自分がグリルを洗えばいい。

 そんなことを考えながら灯りの灯っている二〇一号室の窓を見上げ、小さく呟く。

「飢え死にしそうになってる漆原を見かねてうちでメシを作ってくれてる……無いな」

 真奥は詮無いことを言いながら、共用階段を疲れた足取りで上がっていった。


    ※


鈴乃は確かに夕方から外出していた。

だが、恵美とではなく一人で。

 しかも笹塚や幡ヶ谷のような生活圏ではなく、なんと秋葉原の街中を、携帯電話を見ながら歩いていた。

 日本に来た当初、液晶テレビを見て薄い板の中に人が、などとやらかした鈴乃にとっては、電気街と呼ばれて久しい秋葉原は異世界レベルに縁のない場所のはずだった。

 多くの人々が行き交い電気店の仰々しいネオンに照らされた夕刻の秋葉原の町を、少しだけ不安げな面持ちで歩きながら、やがて鈴乃は、一軒の店の前で足を止めた。

「ここか」

 掲げられた看板には『Ristorante U-M【リストランテ ユーエム】』と書かれている。

 緊張の面持ちで鈴乃が扉を開くと、仲から女性店員が現れた。

「予約した鎌月です」

「鎌月様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 女性店員に案内されて窓際の席に案内された鈴乃は、少しだけそわそわしながらも手渡されたおしぼりで手を拭き、テーブルにあったメニュー表を広げる。

「おお……」

 そして鈴乃は小さく歓声を上げる。

 予約の時点で分かってはいたものの、こうしてメニュー表に並んでいる文字を見ると、驚きと期待感が増してきた。

 カンガルー料理。カエル料理。そしてワニ料理。

 ここは、牛豚鳥ではない、日本ではあまり食されないタイプの肉料理を専門に提供するレストランなのだ。

 一年三百六十五日二十四時間うどんしか食べていない印象のある鈴乃だが、真奥達と違って手持ちの資金に余裕がある生活をしているため、一人での食べ歩きを密かな趣味にしている。

 特に魔王城の面々と普通に食卓を囲み、芦屋と近所のスーパーの情報を共有するようになってからは、外食の頻度は増えていた。

 とはいえ足を伸ばしても駅二つ向こうの新宿か、恵美が住む永福町近辺に限ったことだったのだが、この日は特別だった。

「本日はご予約ありがとうございました。予約のときに承りましたワニ料理のコース、始めさせていただいてよろしいでしょうか」

「はい、お願いします」

 ワニ料理である。

 あまり外向きの活動をしてこなかった鈴乃が、予約を入れてまで食べようとしたのがこのワニ料理である。

 鈴乃にとって讃岐うどんに並び人生を変えた料理が、エンテ・イスラ南大陸の砂漠の国ヴァシュラーマで出会ったトカゲ料理だった。

 だが当然日本にヴァシュラーマのトカゲ料理があるはずもなく、鈴乃はずっと、それに代わる味覚を探し続けていたのだ。

 そんな折に雑誌の片隅に見つけたワニ料理の店の記事。

 同じ爬虫類系の肉を扱う店ならもしや、と思い、一通りのものを楽しめるコースまで注文してしまったのだ。

 店内の席は半分ほどが埋まっていて、そのほとんどが既に料理が出終わっており、一人客は鈴乃だけだった。

 遠目に見た他のテーブルの料理は、豪華ではあるものの、見た目がそこまで牛豚鳥系の肉料理と違った様子はない。

 これで味が良ければ、いずれ恵美や千穂を誘ってみてもいいかもしれないなどと思っていると、早速サラダとスープがやってきた。

 ワニのささ身肉のサラダと、スープはワニの燻製肉が入ったミネストローネ。

「なるほど」

 初めて食べる食材に少し身構えたものの、サラダもスープも、牛豚鳥とは明確に違った滋味を感じさせるボディの強い味わいで、すいすいと口に運ぶことができた。

 メインディッシュは、バターと和風ソースがよく合うハンバーグステーキだった。

「……これは……良いな」

 パンチがあるがもたれないさっぱりとした後味が、一口また一口とフォークを進ませる。

 食べ終わる頃には鈴乃は顔を紅潮させながら、もう一品、アラカルトでも頼もうかと本気で考えるほどだった。

 店を出た後、鈴乃はやや窮屈になった帯を整えながら、小さく息を吐く。

 残念ながら、ヴァシュラーマのトカゲ料理とはそもそも肉の味自体が違っていたが、自信をもって人に勧められる味だということを確信できた。

「今度、エミリアが休みの日に声をかけてみるか」

 小さな冒険の後の大きな満足をお腹に抱えて、鈴乃は帰りの電車に乗るべく、JR秋葉原駅へと向かったのだった。


    ※


 洗い終えた食器を水切り籠に置いて、恵美はようやく息を吐いた。

 タオルで手を拭いて、巻いていたエプロンを外すと、恵美は少しだけ足音を忍ばせ、寝室を覗き込む。

 既に灯りの落ちた寝室のベッドの上では、手にお気に入りのぬいぐるみを握りながら、大の字で寝息を立てるアラス・ラムスの姿があった。

「……これだけよく寝てれば、大丈夫かな。はぁ」

 そう言うと、恵美は更にしっかり足音を忍ばせ寝室に入り、そっとシェルフの中から下着と寝間着を取り出すと、急いで浴室へと向かった。

 浴室の中は、ひんやりと空気が沈んでいる。

 本当なら湯船につかりたいところだが、アラス・ラムスが突然目を覚ましたときのことを考えると、さっとシャワーで済ませるしかない。

 恵美は換気扇のスイッチをオンにしてから、長い髪を濡らさないようバスキャップをかぶり、浴室のドアを少し開けたままシャワーを浴び始める。

 こうしないと、アラス・ラムスが目を覚まして泣き出しても気づくことができないのだ。

 恵美は熱いシャワーを全開で浴びながら、忙しかった今日の一日を振り返った。

 仕事が休みだったのは良かった。

 テレアポの仕事をしている間は、アラス・ラムスが融合状態になって、窮屈な思いをしているから、休みの日は常に外で遊ばせてやりたいと思っていたのだ。

 だがここのところ、仕事が休みになるとヴィラ・ローザ笹塚に行くことが常態化してしまっており、恵美が休みと知ったアラス・ラムスは、当然のように、

「ぱぱのところにいく!」

 と言い張ったのだ。

 だがこの日はそういうわけにはいかなかった。

 千穂から聞いて真奥が朝から出勤していることは知っていたし、芦屋も何かの仕事で外に出たことを鈴乃から知らされた。

 何よりその鈴乃が、珍しく午後に出掛ける用事があるということで、アパートにいるのは漆原のみ。

 千穂も学校の後はバイトに行くということで、笹塚に行ったところでアラス・ラムスの遊び相手をしてくれる者がいないのだ。

 厳密には漆原がいるにはいるが、単純に恵美が、漆原と一緒だと気が休まらない。

「ルシフェルといるならまだ、魔王の方がマシだわ……」

 誰かに聞かれれば邪推されそうな独り言だが、真奥は一応独立している大人であり、アラス・ラムスの父親としての責任感だけは強い。

 単純にアラス・ラムスが喜ぶし、会話も最低限アラス・ラムスに関することだけしていればいいので、気がねする必要が無いのだ。

「……」

 とはいえ、真奥と一緒にいることで自分が安らいでしまうのは人としても勇者としても明らかに間違っている感が拭えないし、そもそも休みのたびにヴィラ・ローザ笹塚を頼るクセがつくのもそれはそれで何か違う気がした。

 なので今日は笹塚には行けない、とアラス・ラムスに言ったところ……。

「まさかあんなに泣き喚くなんて……」

 真奥に会えないと分かると、アラス・ラムスにしては珍しく火のついたようにぐずりはじめ、ぱぱにあいたいすずねーちゃにあいたいまでは良いとして、しまいにはこーんすーぷのみたいあいすがたべたいと脈絡のない駄々に発展してしまった。

 それでも真奥達の予定はどうすることもできないので、なだめすかしてまずはマンションを連れ出し、近所の公園に行ったり、永福町駅ビルの屋上庭園に行ったり、まぐろばと【マグロナルド】に行きたいというのを誤魔化してモズバーガーに連れていったりと、朝から夕までアラス・ラムスが笹塚のことを思い出さないよう、全力で永福町近辺を遊びまわった。

「あのパン屋さん、また行ってみようかな」

 それなりに大変な一日ではあったが、いつも休みとなると笹塚に行ってしまっていたため、意外と永福町近辺の子供と一緒に楽しめるスポットのことを知らなかったことに気付けたのは大きな収穫だった。

 昼過ぎにはアラス・ラムスもすっかり落ち着き、夕食の時間にマンションに戻る頃には、

「きょうはたのしかった!」

 と、一日の疲れも吹き飛ぶ満点の笑顔をくれたのだ。

 そして恵美も疲れたがアラス・ラムスもそれなりに疲れていたらしく、ご飯が終わるとすぐにうとうとし始め、慌ててお風呂を入れようとしたときには既に夢の世界に旅立ってしまっていた。

「明日の朝一でお風呂に入れてあげないとね」

 シャワーを手早く済ませた恵美がバスルームから出ても、寝室の方からは特に何か変わった気配は伝わってこなかった。

 本当のことを言えば恵美もこのタイミングで髪を洗いたいのだが、明日朝一でアラス・ラムスをお風呂に入れることを考えると、元気いっぱいのお風呂遊びが一時間は続くだろう。

 今洗って明日の朝一時間風呂にいることを考えれば、明日一日、自分の髪をごわごわさせないため。そして髪の長いアラス・ラムスにスムーズにシャンプーをさせるため。

自分も髪を洗うのは明日の方が都合が良い。

「そう考えると明日の朝は戦争ね。私ももう、さっさと寝ちゃおう」

 明日は恵美も仕事がある。

 仕事がある日の朝にアラス・ラムスをお風呂に入れるのは、ある意味で魔王軍を相手にするよりも困難な、時間との闘いだ。

 恵美は寝間着に着替え、アラス・ラムスの眠るベッドの下の布団に潜り込む。

「ふわ……あ」

 我ながら現金なもので、枕に頭を付けた途端にあくびがこみあげてきて、自分が思いのほか疲れていたことに気付き苦笑してしまう。

 世界を救わんと魔王軍と連日戦っていた勇者が、一日娘と遊び回っただけでこれだ。

「……平和ってことよね」

 そう呟くと、恵美は布団の中から手を伸ばし、ベッドの上のアラス・ラムスの髪を手探りでわしゃわしゃと撫でた。

「お疲れ様、アラス・ラムス」

 すると、

「ま……ま……」

「きゃっ!?」

 突然アラス・ラムスが寝返りを打ち、恵美のとなりにどさりと落ちてきたではないか。

 これまで一度もベッドから落ちたことが無かったために恵美は驚いて跳ね起きるが、アラス・ラムス本人は全く目覚める様子もなく、ただ小さい両手がもぞもぞと何かを探すように宙を掻いていた。

「……」

 呼吸を落ち着けた恵美が改めてアラス・ラムスの側に横たわると、小さな手が恵美の気配を感じ取って、その首をぎゅっと抱きしめる。

「……おやすみ」

 少しの窮屈さと、暖かい幸せを感じながら、やがて恵美も目を閉じ、眠りに落ちて行ったのだった。



                              おわり




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