海の見える島
カイの体が宙を舞う。
頭を前にして高跳びのような美しい背面の放物線を描き、肩から落ちてぱたんと仰向けになった。
痛そう、というのがクローディアの最初の感想だった。
今のパンチはさすがにヴィカも本気だったんじゃないだろうか。彼女の拳はカイの左頬に突き刺さり、カイを吹き飛ばしてなおそのまま前方に抜けた。打ったあとのポーズはまさにボクサーだった。
さすがにKOだと思ったけど、カイはまるでバネ仕掛けのおもちゃみたいにすぐに上体を起こした。
「俺はクローディアをエトルキアまで連れていくためにナイブスを直したんだ」
「あんなチャチな飛行機で大西洋が渡れると思ってるのか?」ヴィカは右手の甲をさすりながら言い返した。やっぱり本気だったのだ。
2人のケンカの原因はエトルキアの首都までの移動手段だった。カイは自作の飛行機で飛んでいこうとしていたのだけど、ヴィカはきちんとした軍の連絡機を手配していた。
クローディアとしてはカイの気持ちを汲みたいのも山々だけど、現実的に考えるとどうも連絡機の方が安心だった。
「直しただァ? んなもんはレース機であって渡洋飛行なんて想定してないだろうが。航続距離は、何キロだ。言ってみろ」ヴィカは座ったままのカイの股の間にズシンと足を踏み下ろした。
「増槽込みで1800キロ」
「バカヤロー、一番狭いところでも3000キロはあるんだよ。だいたいそれ計算だろ。横風と偏西風、予備のマージンを考えりゃ最低でも額面7000キロは必要なんだアホ」
カイは驚愕の表情のままみるみる青くなった。
「……海ってそんなに広いのか」
「当ッたり前だ。見ろ、額面5000キロのプープリエでもきっちり増槽引っ提げてるだろうが」
ヴィカは顎で連絡機の方を示した。輸送機型のプープリエと外形上の違いはない。主翼と垂直尾翼の先端がオレンジ色に塗られているだけだ。たぶん戦場から離れたところで使うのが主なのだろう。内地ほど民間機と接近する機会も多い。安全のために視認性を上げているわけだ。
駐機場にはカイのナイブスも並んでいた。単座機で小型なのはともかくとして、軍用機に比べると造りが簡素でいかにも華奢なのは否めない。プロペラが後ろについているおかげで見かけはジェット機に似ているけど、中身は原始的なレシプロ機だ。
クローディアはヴィカの横に立って肩でえいえいと外へ押しやった。
「カイ、プープリエでいいよ。きっとすごく早く着くし、ナイブスだと正味10時間くらいぶっ通しで操縦しなきゃいけない。きっとすごく疲れるよ。トイレにだって行けないし」
「プープリエには便器ついてるぞ。将官乗せることもあるからな」ヴィカは小指で耳をほじりながら言った。もうまともに相手をする気はないみたいだ。
「ナイブスにはきっと別の使い道があるよ」
クローディアがそう言うとカイは仕方なさそうに頷いた。クローディアは手を差し出してカイを引っ張り上げる。
ナイブスは今しがたタールベルグ最下層の飛行場から飛び立って中層飛行場に回航してきたばかりだった。次いつタールベルグに戻って来られるかわからないし、乗って行かないのなら1層下の格納庫甲板に収めておかなければ。
カイは一度コクピットに上ってステアリングのロックを外し、車止めを抜いて前脚を押し始めた。駐機場は平滑だしタイヤもきちんとしている。1人でも十分動かせる。しかし見ているだけというのも無情なのでクローディアも主翼に手をかけた。しばらく修理を見ていたので触っていいところとだめなところの区別くらいはついている。2人がかりだと普通に歩くより少し遅いくらいのスピードになった。
正直なところクローディアは数日前からカイをどう説得したものか考えていた。ナイブスの航続距離が足りるのかどうか、あえて訊かないでおいたのだ。エトルキア軍の手の上に自分から飛び乗るというのは気が進まないけれど、どうせエトルキアの心臓部まで入り込むのが目的なのだからカイの危なっかしい飛行機に乗っていくよりはヴィカに同行する方が理に適っている。旅客機を使うという手も考えてはみたけど、エトルキアの人間に囲まれて始終翼を隠しておくというのも気が滅入りそうだった。
プープリエに荷物を入れてきたのだろう、ラウラが追いついてきて反対側の主翼の付け根に取り付いた。服装はタールベルグに戻ってきた時と同じ魔女のコートだった。
「今さらだけど、本当にシャトールナールに行くのかい?」ラウラは訊いた。
「そのつもり」
「この島に来る前はエトルキアに囚われていたんだろう? 盗掘商から金でふんだくったって」
「フェアチャイルドの餌にするためだってヴィカは言ってたわ」
「本当にそれだけだと思うのかい?」
「いいえ。でも、そうだとして本当の目的が何なのかまるで見当がつかないの。神話も持たない、コレクション目的でもない、そういう人間たちにとって私に何の意味があるのか」
「自分の価値をわかっていない、というやつだね」
「そうね。まさしく。自覚はある。……もちろんヴィカのことは私も警戒しているわ。でも一度言ったことの筋を通さないような人間ではないと思うの。治療を施したあとに何をされるか、求められるか、それはわからない。でも治療をしてくれるところまでは本当だと思うの」
「実を言うと私の方でも方法を調べてはいたのさ」ラウラは少し溜めてから言った。
「でも今のところ手がかりはない。そういうニュアンスね?」
「その通り」
「その方法ってサンバレノ流ってこと?」
「サンバレノ、なぜ?」
「魔術院でなければサンバレノしかない。あなたがそう言ったから。サンバレノに行ったことがある、とも言った」
「いい記憶力だね」
「人間のあなたがあの国で自由に活動できるとも思えない。でもサンバレノにだって色々な価値観を持った天使がいるのだろうし、何か手があるんでしょ」
「何かって、どんな手だい?」
「うーん、そうだな……。例えば、天使に変装するのよ。背中に作り物の翼をつけて」
「フフン、蝋で固めた鳥の羽根だね」ラウラは笑った。
「別に固めなくてもいいと思うけど」
「いや、イカロスの伝説さ」
「知ってるわ。昔から不可解なのよ、その蝋ってのが。わざわざ重くしなくても」
「何にせよ、翼を見せかけられたところで私じゃ天使としては線が太すぎるね。もっとスレンダーな人間でないと」
どうも上手くはぐらかされてしまったような感じがした。クローディアは追撃を断念した。こういう時はいくら追っても無駄なのだ。キツネとウサギのようなもので、一見キツネの方が強そうだけど、足の速さはウサギの方が上だから、一度気づかれたらいくら追っても追いつくことはない。
…………
タールベルグを出発していきなり大西洋を渡るわけじゃない。まずは1時間半程度のフライトで渡洋拠点の島に飛んだ。ポート・プラタという工業島で、タールベルグと同じように中層に広い飛行甲板を持っていた。上層の工場区画が軍事島のような密閉式になっていて、その外壁に大きく基地番号が描いてあるのがタールベルグとの違いの1つだった。
甲板の上の様子もかなり違っていた。物がところ狭しとたくさん置いてあるのは同じだけど、ポート・プラタはそのほとんどがコンテナで、整然と区画が分けられ、その間の通路をクレーンやスタッカーといった作業車両がせっせと動き回っていた。輸送機の発着頻度もベイロンの空港に遜色ないレベルだ。
プープリエの点検と燃料補給のために1時間ほど休息をとるというので、クローディアは赤いロングコートを着て外に出た。翼を隠すためだ。周りでは物流部門の兵士たちが働いている。できるだけカイから離れないように行動した。
「西側に行ってみよう。海が見えるかもしれない」
飛行甲板上は往来が激しいので、歩行者は甲板裏の通路を移動するようにと事前に注意を受けていた。通路といっても格納庫甲板の天井に吊り下げられたキャットウォークで、かなり高さがある。
幅も狭いのですれ違う時はきっちり1列にならなければいけない。喋りながら歩いてきた物流部門の兵士の2人組が話をやめて行き過ぎる。
民間人が珍しいだけだろう。でも非番で私服を着ている兵士も見かけるし、ひと目で民間人とわかるものだろうか。コートから翼がはみ出したりしていないだろうか。かといってキョロキョロするのも不自然だし……。
エトルキアの人間に囲まれているという事実そのものより、自分自身のそういった思考の方がむしろストレスだった。
何かを察してくれたのだろうか。前を歩くカイが手を後ろに差し出してクローディアの手を握った。
固い。何となくそう感じた。タールベルグにいる時と何かが違う。たぶん彼も緊張しているのだ。
同じだ。私だけじゃない。
クローディアはカイの手を握り返した。
通路の終端は飛行甲板に上がる階段になっていて、外に出ると一気に眺望が開けた。背後の滑走路を巨大なスフェンダムが滑走していく。翼端で生まれた乱流が吹きつけ、カイのジャンパーが煽られる。自然と甲板の端の手摺に掴まっていた。
「地平線が青い……」カイ呟いた。
その通りだった。地球と空の境目は青いグラデーションに覆われていた。内陸だと砂埃のせいでいつも黄色く霞んでいるのでこんな景色は見られない。そこには確かに海が広がっていた。
「見て、あそこに海岸がある」クローディアは甲板の下の方を指差した。海岸線は思ったより近くにあった。島から10kmも離れていないんじゃないだろうか。影の感じからして浜ではなく断崖のようだ。それより向こうには塔のシルエットも見えない。塔が建設されたのはあくまで陸地の上だけだ。ポート・プラタが大陸の果ての果てに建っているのだということがしみじみと感じられた。
「あそこから水平線まで全部が海なんだ。あの向こうにも陸地があって、塔がある。アルルもラウラもそんな場所に行ったことがあったんだ」
そう言ったカイの手がぶるっと震えた。そういえば握ったままだった。恐いのかな、と思ったけど、違った。カイの目は宝石みたいだった。期待しているのだ。彼はこの景色を行き止まりではなく広がりと捉えていた。
もしもカイの価値観に触れていなかったら自分はエトルキア行きを断固拒否していたかもしれない、とクローディアは思う。タールベルグあるいはベイロンでの奇跡のない生活をむしろ甘受していたかもしれない。現状を変えるより受け入れようと思っていたかもしれない。
カイと出会う前、地上で生きている間、クローディアはいかにして日常の繰り返しを守っていくのかが人生だと思っていた。それが間違っていたなんて今でも思っていない。安寧は大切だ。けれどカイはむしろ変化と飛躍に価値を求めていて、そういう生き方を認められるようになったのは彼のおかげに違いなかった。
視線に気づいたカイが振り向いた。
クローディアはぎょっとした。カイの左頬が腫れていたからだ。顔の輪郭が変わるくらいの腫れだった。無意識に彼の右側ばかりとっていたのか、今まで全然気づかなかった。
「え、何?」
「ほっぺ、ヴィカにパンチされたところ、リンゴみたいに腫れてるわよ」
「殴られたんだからジンジンするのは当然だと思ってたけど」カイは不可解そうに頬を撫でた。
「尋常じゃないんだって。そうか、あのあとすぐ冷やさなかったから……」
「そんなに?」
「今からでも冷やした方がいいわ」
クローディアはカイの手を引いて来た道を戻る。もしかするとさっきすれ違った兵士たちもカイの頬を見て絶句していたのかもしれない。
いささかポジティブな捉え方だな、と自覚したけど、ともかくそう考えると少し気が楽になった。
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