将軍だったもの

 キアラは藁山の底から穴の口を見上げた。それは心なしか天使のシルエットになっていた。もともとただの山だったところに自分が穴を開けたのだ。

 とりあえずまずはじっくりと傷の観察をした。幸い基底部は強い照明で照らされていて藁の井戸の中にも十分光が差している。

 手首のグニャリ方からしてそれぞれ何ヶ所かで折れているに違いない。手首の下10cmくらいの範囲が赤黒く充血し、折れた骨が皮膚を内側から引っ掻き回しているのは明白だった。ただ幸い動脈は傷ついていないようだ。もし破れていたらもっと酷い出血になっていただろう。

 骨の修復のために癒合サニタテスの術式をかけようと思ったが、指に力が入らないせいでどうも位置決めが上手くいかない。ただでさえ繊細な調節が必要なケガなのに、こんな手で無理に直したら後遺症につながる。

 ディアナは「奇跡で治せるでしょう」と言った。まったく、わかってない。それか、わかった上でイヤミを言ったのか?

 ともかくあまり複雑な傷を完全に元通りにするのは奇跡でも難しい。あくまで再生能力の制御と促進であって、皮膚にしろ骨にしろ、通常の新陳代謝が混じって変に癒着したりする前に綺麗に繋ぎ合わせているだけなのだ。


 不安とも怒りともつかない微妙な感情が湧き上がってきて体がわなわな震えていた。

「チキショウ……」

 だめだ。先に外に出よう。

 そもそも、藁なのだからわざわざ上まで登らなくても横に穴を掘っていけばいいんじゃないか?

 キアラは仰向けになって手首を顎に下でしっかりとホールドし、翼を頭の上に突き出し、足で藁を押しのけて掘り進んだ。穴から離れるにつれて光が届かなくなり、藁山の重さが肩にのしかかってくる。

 息苦しい。ガードしたはずの手首に圧がかかる。耐えて進む。

 10回ほど搔いたところで翼の肘が硬いものに当たった。壁か。方向を変え、壁に沿って進む

 また10ストロークほど行ったところで何の前触れもなくポンと頭が外に出た。


 ざっと見渡したが、藁が敷き詰められている他はただの基底部だ。脅威になりそうなものはない。大きく息を吸った。

 すると顔についていた藁の細かなカスが鼻に入って盛大にムズムズを催した。基底部の広大な空間にくしゃみが響き渡る。

 と同時に視界の端で何かがビクッと飛び上がった。

 何だ?

 藁山を抜け出して立ち上がる。

 小さな生き物が薄く敷かれた藁の上に腰を抜かしてしゃがみこんでいるのが見えた。


 それは天使だった。酷く痩せこけているせいで小さく見えたのだ、髪も短くボサボサ、顔はげっそりとやつれて、驚いた目玉だけがぎょろりと光っていた。翼も銀色の羽根があちこち抜け落ちて部分的に肌が露出していた。着ている服ももはやワンピースなのかツーピースなのかわからないくらいズタボロだった。おまけに寒くもないはずなのに始終ぶるぶると震えていた。

 なんてみすぼらしいのだろう。キアラは嫌悪感さえ覚えた。

 キアラが近づいていくと天使は後ずさりした。取り落としたブランケットを拾い上げ、頭からすっぽりと被って顔だけ表に出した。

「ごめんなさい、ごめんなさい。あ、あなたが落ちてきて、大丈夫かなって様子を見に行こうとしただけなんです。だから乱暴しないでください」天使は怯えきった様子で言った。

 乱暴?

 見たところ他に天使もいない。序列争いで虐げられているというわけではなさそうだ。とすればやはり人間か。人間を恐れているのか。

「私は天使で、別にそんなつもりはない」

 キアラは翼を広げた。風切り羽はチョン切られているけど、それでも翼は翼、天使の勲章だ。

 ただ全身藁まみれで、そのせいで誤解させたか、恐がらせてしまったのかもしれない。それに着ているのは水色の寸胴なワンピース1枚で、足も裸足、気づけば髪も首の長さでバッサリ切られていた。相手のことをみすぼらしいと言える立場じゃなかった。

「そうじゃなくて、この手首を治してほしいんだ。自分では上手くかけられなくて、もし使えるなら頼みたいの。片方だけでいい」

「あ、お、折られたのね?」

「そう」

 天使は震えながら頷いて手を差し出した。手首には長い間きつい腕輪をされていたような痕があり、指は節くれ立って異様に長く見えた。

「私はキアラ。あなたは?」

「私? 名前、ですか?」

「そう」

 天使は少しぼーっとしてから「ギネイス、です」と答えた。

 キアラもぼーっとした。ギネイス、銀色の髪のギネイス。どこかで聞いた覚えがあった。

 どこか……そう――

「……オルメト事変で捕虜になったドミニオンのギネイス」

 天使は頷いた。

「私はその後からここに囚われています」

 キアラは唖然とした。そして跪いた。というか崩折れた。自分より遥かに高位の天使だ。でも礼儀を失したことなんかより、かつてメディアで見た彼女の姿からの変わりようがあまりにショッキングだった。


 キアラはオルメト事変に参加したわけじゃない。まだ子供だったけれど、銀色の長い髪を靡かせ、屈強な翼を広げた将軍の姿はメディアを通してよく知っていた。ギネイスは苛烈な性格と果敢な作戦指揮で名を馳せたのだ。

 それがこの天使? 

 容姿の変貌は言うまでもない。内面の変化の方が酷かった。こんなおどおどした振る舞いなんてするはずがなかった。一体何がギネイスをこんなふうにしてしまったのだろう。

「手、を出してください。手当しないと」ギネイスは目を泳がせて恐る恐る言った。

 彼女はキアラが名前を訊いた時からずっと跪いて手を差し出したまま待っていた。その手は居心地悪そうに少しずつ高さを下げつつあった。

 自分より上位の天使に治療を頼むのは失礼にあたる。キアラは躊躇った。

 しかし、いくら高位とはいえこんな卑屈にへりくだった相手に対して失礼とは何なのだろう。

 だいたいまともに奇跡が使えるのか? キアラは得体の知れない侮蔑のような感情に苛まれた。


 そして結局のところ彼女に右手を預けた。実利的な思考を優先しなければならなかった。

ギネイスは慎重にキアラの顔色を窺ってから鎮痛アナージェスの術式をかけ、それから触診を始めた。術式の作用と同時に痛みはふっと軽くなり、触られている感覚もほとんどなかった。

「あ……、あ……、ひどい折れ方をしています。せ、切開しないと治せないかも」

「構いません」

「でも……」

「やってください」それはもはや命令のような口調だった。

 ギネイスは壁際に積み上げられたガラクタの中からメスを1本拾ってきて術式の日で炙り、よく冷ましてから手首に突き立てた。10cmほどの筋がスッと入り、赤い血がじわりと滲み出る。

 傷を開くと腱と肉の間に真っ白な骨の破片が見える。ギネイスは指を突っ込んでそこに押し当て、癒合サニタテムの術式をかけた。

 骨の断面についていた血がさっと周りに退き、顕になった断面同士がまるで磁石のように引き合った。ぴったりとくっついた境目に造骨作用によるケロイドのような膨らみが現れ、破骨制御によってすぐさま平滑に整えられた。

 ギネイスは指を抜いて切開部に指を滑らせた。滲み出した血を拭うと傷口は完全に塞がっていた。消え去った、と言ってもいいくらいだった。

 メスを炙ってから30秒もかかっていない。サニタテムは基礎術式だけど、ここまで速く完璧なものはなかなかお目にかかれない。それだけでも彼女が潤沢な根源ラディックスを持つ奇跡の使い手であることは明らかだった。

 やはりドミニオンなのだ。目の前のみすぼらしい天使がかつての英雄と同一人物であることももうほとんど間違いなさそうだった。


 キアラは複雑な気持ちで治ったばかりの手を下について頭を下げた。

 まだ痛みは残っている。骨がすっかり元通りの強度を取り戻しているとも思えない。けれど手首も指もきちんと自分の意図した通りに動いた。

「ありがとうございます、ドミニオン」

「いいえ、私は、そんな……」ギネイスは背中を丸めて後ずさりした。「あの、左手は」

「いいえ、それには及びません」

 キアラは改めて右手の動作を確かめ、左腕にアナージェスをかけ、カルテルスで患部を切開した。もともと感覚的には左腕の方が痛みが強かった。右に切開が必要なら左も必要だろう。それに自分の力を試してみたい気持ちもあった。

 触ってみると橈骨は大まかに2ヵ所、尺骨は1ヵ所だがかなり斜めに折れて断面が広くなっていた。そのささくれのせいで痛みが重かったらしい。

 ギネイスがやったように指を入れて骨に触れ、サニタテムを注入フィル。骨の変化は先ほどより明らかに緩慢だった。しかし普通はこんなものだろう。むしろ平均より少し速いくらいだとキアラは自負していた。


 骨の接合面の処理をしようとしていた時、にわかにサイレンが鳴り始めた。低い、グリフォンの唸りにも似た音だった。

 いくらか落ち着きを取り戻していたギネイスがそれを聞いて今までになくガタガタと震え始めた。何か恐ろしいことが起こる予兆のように思えた。

「あ、ああ、早くしないと……」

 ギネイスはブランケットを被ったまま藁の上を小走りに渡り、発電機の配電盤に飛びついた。太い電線の先に筋トレ用のエキスパンダーのようなハンドルがついている。彼女はそれを握って藁の上にしゃがみ込み、ふぅっと大きく息をついた。

 タービン塔の横に制御用の建屋があって、庇の下に計器が並んでいる。その中でひときわ大きなメーターがぐるりと右に振れた。電圧計か電流計だろう。ギネイスは息吹アドクラフトを使ったのだ。ハンドルは電極だった。


 それはわかったけど、なぜサイレンが鳴ったらアドクラフトなのだろう?

「ギネイス」

 なぜそんなことをしている?

 そう訊きかけてからキアラは発電機が動いていないことに気づいた。基底部にしては静かすぎるのだ。4基とも見たところ壊れている様子はない。まるで博物館に飾られているみたいに綺麗だ。

「キアラ」ギネイスが呼んだ。

「あ、はい」

「あの、ええと、この塔の井戸は地殻の運動で埋まってしまったのです。こう、食い違うようにして」

 ギネイスは翼を立てて擦り合わせた。断層の動きの模式によく似ていた。

「だから、いくら水を注いでも熱が上がってこない」

「まさか、地熱の代わりに天使のアドクラフトを? でも、それだけで塔のエネルギーが賄えるなんて……」

 ギネイスは首を振った。

「1日8回も絞れば足りるのです」

「は、8回?」

「2時間半置きにこうして30分。夜もお構いなしです。インターバルの間はコンデンサーで持たせているけど、足りなければ時間じゃなくてもサイレンが鳴ります」

「……サイレンに従わなければ?」

「サイレンが鳴り終わった時に上のヒューズに電圧がかかっていなければ、この層を満たす空気の二酸化炭素が増えていきます。5分で息ができなくなる。どこにも逃げ込めないし、飛んで上に行くこともできない」


 産業という産業もない軍事島とはいえ、塔丸ごと1基の必要電力を天使1人の力で供給するなんて信じがたいことだった。天使の能力による階位第4位に列するドミニオンだからこそ成し得ることなのだ。

「ギネイス、あなたはこんなことを5年間も続けているのですか」

「はい。私の前には別の天使が務めていました。私が頑張らなければ、次に来る天使にも辛い思いをさせてしまう」

 ギネイスは少し悲しい顔をした。怯え以外に彼女が見せた最初の感情だった。

 キアラは自分の指から血が滴っていることに気づいた。傷の縫合を忘れていたのだ。止血ヘモスタシスの術式を滑らせる。こんな簡単な術式ひとつでもギネイスより時間がかかっている。自分が情けなかった。

 例えば、自分にギネイスの代わりが務まるだろうか。それはネロを傷つけた自分への罰として機能するだろうか。キアラは治したばかりの手首を強く握りながらそう考えた。

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