スカイ・ベリアル
タールベルグの人々は信仰心を持たない。そう思っていた。天使と馴染みがない以上、サンバレノのような神話大系を持っているわけではないし、かといって魔術を扱える人間もほとんどなく、魔術を信奉するエトルキアのイデオロギーに染まっているわけでもない。
でも、だから信仰心がない、宗教を持たない、そう言えるのだろうか。
たぶん、違う。
親友だったミルドの死に直面した時、カイはまるでどう悼んでいいのかわからないみたいだった。でもそれは決して彼が死者との向き合い方を知らないからではなかった。ただタールベルグにとっては特殊なケースだったのだ。
タールベルグの火葬場は上層にあった。工場区画と農耕区画の中間、住居型の島なら最上層甲板が設置される高度だ。ベイロンの「城」はこの高度にあった。
タールベルグでは外の工場の煙突の真上にあたるので甲板はない。つまり火葬場があるのは塔の内部だった。甲板の上にはそれらしい施設は見当たらなかった。人口が減って運営を停止したなんてわけじゃなく、どうやら初めから存在していなかったようだ。食糧や水の供給と同じように塔の機能に頼るのが当たり前になっていたということだろうか。
その部屋は天井が2階層をぶち抜いたように高く、吊り下げられた棒状のシャンデリアがクリーム色がかった白い壁や床を煌々と照らしていた。窓もないのに日向ぼっこができそうなくらい明るい部屋だった。
石だろうか。下手なスカートを穿いてきたらパンツが映りそうなくらい平滑な床で、足音が不思議に響いた。その空間の中で炉の磨き上げのシャッターだけが鈍く銀色に光っていた。それが塔の外周方向に向かって扇状に10基も並んでいた。
葬儀は2人並行だった。参列は家族知人。工員のケリーの方は独り身なので特に親しかった工員数人だけ、老人の方は娘か息子夫婦らしい男女一組に商店街の面々が数人見えた。
むろんクローディアは2人のいずれともほとんど縁がない。タールベルグの葬式を見てみたかったのでラウラに頼んでお手伝いとして忍び込ませてもらっただけだ。
クローディアは一応旧文明の文化に倣ってカチッとしたゴシックのドレス(前にマグダから貰ったお土産に入っていた1着)をキメてきたけど、あとはラウラが司祭のローブのような黒いワンピースを着ているのを除けば、参列者の方はみんな普段着だった。色の統一感もなかった。強いて言えば死者の体の上に白い布が被せられていることくらいだ。担架の縁に軽くかかる程度の大きさ。ありあわせのものではなく火葬専用の布に思えた。
棺はなく、死者は耐火性の担架に乗せて炉の前に寝かされる。そこで司祭――ラウラが死者の人生を簡潔にまとめたスピーチを行う。たぶん前日のうちに近親者から話を聞いて原稿を書いておいたのだろう。
ケリーの方は生まれがわからない。密航者なのか、脱獄者なのか、とにかく貨物機の積んでくるジャンクに紛れてやってきてこの島で職を求めた。そのあとは勤勉かつ朗らかに働き、ボイラー技術者としての未来も有望だった。
タールベルグでは流れ者は珍しくない。何しろ辺境だし、エトルキアの軟弱な行政基盤もあって軍の目がほとんど届いていない。本人が島の上で悪事を働かない限り住人たちも邪険に扱ったりしない。むしろ若い働き手は歓待されると言ってもいい。
老人の方は名前をクラウディウ(なんだか他人事じゃないみたいな響きだ)といって、生まれも育ちもタールベルグというむしろ珍しい部類に属し、30年に渡って島で唯一の理髪店を経営していたが、店を娘に譲ったあとはきっぱり隠居生活に入って他の住人と顔を合わせる機会も少なくなっていた。
紹介が済むとその場の全員で黙祷した。炉の中に担架を押し込むのは司祭の役割だった。ラウラは炉に火を入れ、1時間の休息を言い渡した。1階下にラウンジがあって、そこで談笑する人もいれば一度家に帰る人もいた。火葬場に残っているのはラウラだけだった。彼女は炉の制御盤の前のベンチに座っていた。
「こんなものは誰がやってもなんにも変わらないんだけどね。誰もやりたがらないんだ」ラウラは言った。
「棺も花もないのね」クローディアはそう言って隣に座った。
「ん?」
「地上の人間たちは体がぴったり収まる木の箱に死者を入れて、その中を花でいっぱいにして送っていたの」
「ふうん。それは資源の無駄だね。塔の上じゃ木は貴重品だよ」
「ふうん? 昔の葬送方法ってアーカイブには載ってないの?」
「今日のやり方がアーカイブにあるやり方だよ」
「他の」
「他?」
「これだけ?」
「見たところ」
「燃やさずに埋めたり、海に流したりするやり方もあるのよ」
「知らなかったねえ。死者のために資源を無駄使いしたり、無意味に地上に降りたりしないようにあえて残さなかったんだろう。すると昔は骨だとか髪だとか、腐らない部分を形見に取っておくなんて文化もあったのかな」
「……うん」
「だろうね。何にも残らないのは結構寂しいものだよ。このあとは粉になった骨を空に撒くんだけどね、それもきっと無駄なものが島の上に溢れて塔に負荷をかけないためなんだろうね」
「無駄なもの……、形見って、無駄?」
「物質的に人間の生存に役立たないものは無駄だったのさ。心の持ちようが人間の生死を分けることもあるって繊細な問題を旧文明が認識していなかったわけじゃないだろう。ただ、塔の建設という課題はそこまで悠長なものではなかったのさ。切り捨てられるものはいくらでも切り捨てなければならなかった」
「むしろ、綿密に組み上げたからこそ、そういう操作や欺瞞が働いているような気もするけど」
ラウラは頷いた。つやつやした黒髪が揺れた。
「塔――というかアーカイブを組んだ人間たちは後世の文化を設計できる立場にあったんだね」
「……神さま気取りだったのかしら」
「あるいは私たちは彼ら教祖の作った塔という宗教を信奉する者たちなのかもしれない。地上の文化に馴染んだ君がもしこの島の文化に違和感を覚えることがあるとすれば、たぶんそのせいなんだろうね」
ラウラは小さな窓から炉の中の様子を窺って火を止めた。クローディアも覗かせてもらったけど、その時点ではまだ形の残っていた骨も20分ほど冷めるのを待って炉を開いた時には跡形もなく砂状になっていた。まさに灰だった。
ラウラは一抱えほどの真っ白な骨壺を持ってきてそれぞれの代表にスプーンを手渡した。鍋物を取り分ける用みたいな大きなスプーンだ。それでもってまず代表が骨の灰を骨壷に収める。ケリーはボス、クラウディウは娘さんがやり、そこからそれぞれの参列者全員にスプーンを回した。最後はラウラとクローディアが箒とちりとりを使って担架の上を徹底的に浚った。担架の上にもちりとりの上にも灰を残さない。人間だったものは完全に骨壷に収まった。
あとは散骨だけだ。一行は中層甲板の東端まで移動した。
「死者の肉は大気に還りました。今またその骨も風に還し、その魂がいつか新しい命に宿るように祈りましょう」
おそらくそれが葬式の間にラウラが発した一番儀式的な言葉だった。
言葉が終わるとボスはケリーの壺を開けてスプーンで灰を撒いた。
灰は西風に巻かれて甲板から離れていき、煙のように拡散して見えなくなった。土でも掘り返すみたいにどんどん撒いていく。壺の中はすぐ空になった。クラウディウの方はもう少し時間がかかったけど、それでも5分程度だ。最後に壺をひっくり返して空にする。わずかに甲板の縁にかかった灰も箒で丁寧に掃き出された。死者の肉体だったものはもはや島の上には一片も残っていなかった。
空になった壺をラウラが預かり、全員で黙祷して解散。葬式はそれでお終いだった。
終わったところでできるだけ早いところその場から立ち去るのが礼儀なのだろうか。参列者たちは立ち話もなく塔の方へ戻っていった。最後まで残っていたのはボスだ。ラウラに礼を言うためだろう。火葬場では相変わらず作業着だったけど、外に出る時に羽織った上着はヨレヨレのダッフルコートだった。休日のこの人はどんな格好をしているのだろう?
「ボス、ミルドの時はこんなふうにお葬式をしなかったでしょ?」クローディアは訊いた。
「ああ。昨日の大風で行方知れずのまま見つからない人たちの葬式もやってない」
「まだ探しているからじゃなくて?」
「見つかった試しがない」ボスは首を振った。「遺体がない死者は葬式をやらないんだよ」
「彼の死はカイも見ていた」
「死んだか、死んでないか、じゃない。遺体が残っているかどうかなんだ。残ったものを無に還すのが葬式の目的なんだよ」
「ここにないということは、わざわざ
クローディアはキアラとネロのことを思い出した。
彼女たちが齧っていた干し肉のことを思い出した。
それが生まれ変わりだと言えるのだろうか。
言えない――。
いや、そういう問題じゃない。葬式はあくまで肉体の消失を肯定するための儀式なのだ。だからミルドのような過程の問題はフォローできないのだろう。
ある意味、この島の葬式は本質的には死者への祈りとは無関係なのかもしれない。
「
「少し」クローディアは頷いた。
なぜ火葬なのだろう。なぜ棺がないのだろう。なぜ骨を撒くのだろう……。
「死者の魂が新しい命に宿るように」とラウラは言った。
輪廻観だ。
命は巡り、生まれ変わる。生き物は絶滅していくだけではない。いつかまた芽吹きの時代が訪れる。生気のない塔の世界で、それでも子孫たちが絶望しないように旧文明の人々は新しい時代の宗教を設計したのだろう。
火葬炉は人体の形を残すわけでもなく、全てを蒸発させるのでもなく、骨だけを砂状の灰にして残す。その粒が大きすぎれば風に乗らないし、細かすぎれば担架や壺についてしまう。
遺体の処理が理詰めで考えられている。
アーカイブの設計者は人の心性にさほど注意を払わなかったとラウラは言った。
でも、本当にそうだろうか。
塔の上に生き残った人間が死者に依存したり過剰に祀ったりする可能性を徹底的に排除しているのだ。生者ができるだけ身軽に生きていけるよう、精神面の配慮も徹底しているじゃないか。必ずしも物質的な側面だけではない。
なら、なぜ行方不明者の葬式をやらないなんて文化が根付いたのだろうか。
やった方が精神的にはいいんじゃないだろうか。
そしてふと思い至った。
「この塔にも大昔は大勢の人間が避難していたんでしょう?」クローディアは訊いた。
「旧文明が滅びた時の話かい?」とラウラ。
ラウラとボスは骨壷を水で濯いでいた。壺は使い回しのようだ。濯いだ水もきちんと甲板の外へ捨てていたけど、遺族が見たらあまり良くは思わなそうな光景だった。ボスはそれだけ慣れているのだろう。
「その人口がみんな生き残っていたら――」クローディアは続けた。
「この島ももっと賑やかだっただろうね」とラウラ。
「死んだ人たちの世話はこんなふうに他の人たちがしていたのかしら」
ボスが首を振った。
「塔は衛生面にはすごく目聡い。死体が腐乱するような可能性は少しも残しちゃおかない」
「じゃあ」
「うん。昔は死体を回収するシステムがあったらしいが、俺の知る限りでは
「火葬炉の制御盤も後付のものだよ」とラウラ。
「だろうな。旧文明の造りじゃない」
「死というのはある意味人間の尊厳の最も高度で根幹的な部分なんだ。そいつを人間以外のものに明け渡すというのはよほど我慢ならないことだっただろうね」
クローディアはシェルターの中で死んでいった人々のことを想像した。彼らの遺体処理は――というか死そのものが自動化されていたのだろうか。ヴィカがコンソールで選んだリンゴと同じように? 農業プラントで人知れず行われている収穫や屠殺と同じレベルで人が焼かれていたのだろうか。
炉が10基もあったのはきっと効率のためで、でもそれでさえ間に合わないような時期があったのかもしれない。その中で遺体のない人々の死はもっと早く忘れられていったのかもしれない。なんとなくゾッとした。
人間たちが塔の中に住むのをやめた本当の理由はそこにあったんじゃないだろうか。ラウラの言った通り、死という尊厳を守るためだったんじゃないだろうか。
確かに希望を抱いて新しい空の時代を求めた人もいただろう。でも、自分で選べる死に場所を求めた人だっていたかもしれない。あらゆる意味において人間は塔の外に自分の生き方を求めていたのだろう。
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