グラウンド・ボトム
ヴィカは携杖――エトルキア空軍制式携杖プラスマ・ダルジェン――を取り出して柄を握った。一見文鎮みたいなただの銀色の棒だけど柄の方が少し太くなっている。先端をホースの口に向ける。
「
クローディアは身構えた。
何が起きる?
……?
見かけ上何も変化はない。「ナーエル」というのが何の魔術なのかすぐにはわからなかった。
ヴィカは杖の横に手を翳した。風が出ている。杖をくるっと回して向きを合わせ、ホースの先に近づける。そのまましばらく待つと水が出てきた。杖の先に生じた真空(あるいはごく低圧)のフィールドがホースの中身を吸い出しているようだ。
フィールドの中を通る水はうねうねしたり球状になったりしながら反対側へ飛び出していく。真空環境で沸点が下がって沸騰しようとしているのか。とにかく不思議な見かけだった。ただ水が出てくる勢いとしてはせいぜい風呂場の蛇口くらいのものだった。水は床に落ちて足元から薄く広がっていく。
「なんというか、思ったよりも地味なのね」クローディアは言った。「長いからもっとダイナミックなのかと思った」
「こういうスペルなんだよ」
「詠唱ってもっと短いものじゃない?」
「細かく調整する時はこうやってプログラム的にやるのさ。杖に覚えさせておけばもう少し感覚的にやれるんだろうけど、私にも得手不得手というものがあってね」
ヴィカは手摺に寄りかかって基底部を覗き込んだ。右手で携杖とホースをまとめ、空いた左手で背中の長杖を掲げる。
「
ヴィカはホースを持って杖を掲げたまま改めて基底部を見渡した。
「どう思う? 原因はたぶんあの枝だろう。あれが落ちてきてまずメインタービンに突き刺さって、それから折れたか倒れたかしてポンプをぶっ潰したんだ。いわゆるクリーンヒットだな」
確かにヴィカの言う通りだった。塔の内壁を支えるトラスとよく似た白くて円柱状の巨大な鋼材が基底部真ん中の大きな建物とその隣の建物に引っかかるように横たわっていた。
「とにかく、壊れてると思う」クローディアは答えた。
「それはそうだ」ヴィカは明かりを消して長杖を脇に挟み、トランシーバーを取り出した。「ボス、ポンプとタービンが同時に死んだわけがわかった。支柱が落ちてきたんだ。かなり壊れてる」
「ああ、こっちでもカメラで確認した。大きさからしてかなり上の方の枝だろう。そっちもそっちで心配だが、まずは発電機だ。すぐに降りる」
「人を集めるのか。あまり大勢で来ると万一退避する時に動線が詰まらないか」
「ああ。それに防護服もそんなには揃えられない。厳選しよう」
話している間に水は足元に広がり始めていた。蛇口並みでもそれなりの吐出量になる。「ちょっと支えててくれ」
ヴィカは長杖を預けて手摺によいっと座って足を上げた。クローディアも杖を返して同じように手摺に座った。
「人間が魔術を身に着けたのと、塔を建て始めたのと、どちらが先だと思う?」ヴィカは訊いた。
「急に?」
「人類は誕生以来魔術を使えたわけじゃない。人類の誕生以来塔が存在したわけでもない。ともに発祥があり、
「それはそうでしょ。そんな大層な言い方をしなくても」
「魔術というのは本来こうして塔の働きを補助するために持たされた能力なんじゃないかという気がするよ」
「うーん、そう? 旧文明が長い時間をかけて高度に技術を発展させるとともに魔術も高度になっていったんじゃないの? その発展の起点に塔があったとか、初めから塔を目的にしていたとか、時系列的にそんなふうには思えないけど」
「確かにな。まあ、私がそう感じるというだけのことさ。塔自身手が届かないところに人の手が必要になる。魔術があれば他に道具や機械がなくてもできることの幅がぐんと広がる。資源やエネルギーや、地上に対してあらゆる点で限られている塔の上にはうってつけの機能だろう。いわば人間そのものを
「それこそ、道具や機械のように?」
「うん。それか、道具や機械の性質を取り込んだのが魔術を扱う人間、という表現の方が合いそうだな」
「魔素ってあくまで外的なもの、人間のDNAには記録されていないものだから」
「そういうこと。技術による利便性の追求はフラム以前は確かに全然別の方向に向かっていたんだろう。方向性という方向性があったのかどうかもわからない。ただ塔ができたことによって新世界への順応のために魔術は使われるようになった。気圧や重力魔術は上空の環境への適応のために、火や電気はエネルギーのために、そういうカテゴライズによって大系が編み直されたんだと思ってるよ」
「旧文明時代には有象無象の技術が今の私たちには理解できないくらい高度で、でも塔という環境的なフィルタリングによってその中から必要ないものは捨て去られ、必要なものだけが選りすぐられ、整理され、今現在魔術と呼ばれるものに収斂していった。残すべくして残された。魔術より塔が先かもしれないというのはそういう意味?」
「なるほどね。そういう意味を含んでいないこともない。まあ、魔術の系統だとか学派だとかいうのは学校に行ってる人間じゃないと実感が湧かないか」
「ふうん……」
「とにかくエトルキアでは塔の維持と魔術は密接に関わっている。例えば、エネルギー系の魔術師にとって花形の職業が2つある。私のような空挺兵が1つ。もう1つは救難工兵だよ。聞いたことあるか?」
「救難工兵?」
「まさしくこういう時に塔と都市を守るのが役目なんだよ。私1人じゃこの程度だが、数が揃えばもっとデカいことができるじゃないか」
「もう何倍かの速さで排水できるってことね」
「いや、そんなものじゃない。普通の都市なら1個小隊40人。全員でかかれば40倍だ。私よりよほどパワーのあるやつも少なくない」
「それはすごい」
「だろう?」
「そんなことならこの島にも来て貰えばいいのに」
「あくまで自衛部隊なんだよ。こう悪天じゃ移動は無理だ。特殊部隊じゃあるまい。普通の都市なら、と言ったのはそういう意味だよ」
「なんだか酷い言い分」
「うん。だから軍人はこういう島では肩身が狭いんだよ。しかしまあ、この世界への適応に関してはどんなに魔術を使える人間も天使には敵わないと思うけどね……」
ふと基底層のエレベーターの扉が開いて光が漏れ出した。ヴィカが再び照明の魔術を唱えると、扉の前に4つの
4人ともオレンジ色のぶかぶかしたグラウンドスーツを着込んでいた。頭のところに大きな窓がついていて、背中には空気のボンベを背負っている。いかにも不便そうな恰好だ。前から2人がそれぞれ工具箱を、後ろの2人は小型の発電機を分け持っていた。
クローディアは手摺を跨いで滑空、4人の前に着地――着水した。思ったより深かった。安全靴に水が入り込んだ。
「大丈夫か」先頭の1人が訊いた。スーツの窓を覗き込むとボスだった。ちょうど肩口まで見えているのでショーケースに収められた胸像みたいでちょっと可笑しかった。
「大丈夫」クローディアは答えた。
「ん、何か変か?」ボスはかなり大声で言ったようだけど、グラウンドスーツの密閉がいいせいかすごく小声に聞こえた。ほとんど正面の窓が振動してスピーカーになっているような具合だった。
「明かりは?」上からヴィカが訊いた。
「持ってきた。消してもいいぞ」ボスが叫んだ。でもそれは目の前にいるクローディアでもぎりぎり聞こえるくらいの音量だった。
「消してもいいって」代わりにクローディアが言った。
ヴィカは頷いて明かりを消した。何の余韻もなく明るさが消え、内壁ロボが落とす照明だけが頼りの世界に戻った。見上げると
「排水もこっちに任せてくれ。ポンプを持ってきた」とボス。
「ポンプを持ってきたから――」クローディアはまた通訳しようとしたけど、何か違和感があった。
――そう、今のはトランシーバーから聞こえた声だった。ボスも全然声が通っていないことに気づいてやり方を変えたのだ。
「聞こえてるよ」ヴィカが言った。「それなら遠慮なく温存させてもらうよ」
クローディアは工員たちが持ってきたロープと滑車を持ってヴィカのところまで飛び上がった。
ヴィカが滑車を手摺に取り付けてロープを通し、工員たちが下でポンプを括りつける。ヴィカが引っ張り上げている間にクローディアはもう1往復して電源リールを運び上げ、内壁ロボのアクセスパネルについているコンセントに接続した。勝手がわかったのはイワツバメの一件の時にアクセスパネルも見ていたからだ。いい予習になった。
ホースをポンプにつないで動かすと「ウーン」と唸りながら勢いよく水を吐き出し始めた。ナーエルの倍くらいの水量がありそうだ。
「最初からこいつを下ろしてくれればよかったのに」ヴィカは腕をぶらぶら振りながら愚痴った。ポンプを引き上げるのに体力を使ったのだろう。
「頑張って探し出してきたんでしょ」クローディアはポンプの天面についた赤いパネルを指で撫でた。積もった埃がそこだけ取り除かれる。かなり長い間使われていなかったんだろう。
その間にボスたちは各々膝で水を掻き分けながらさっさと散開して目視でタービンとポンプの状態を確かめて回っていた。
上からはさらに2機内壁ロボ(正式にはリーチベンダーという名前らしい)が下りてきてライトで基底層を照らすとともに内壁に近い設備の補修を始めつつあった。ボスたちはクレーンを動かしてトラスを撤去するとともにロボが乗せてきた部材を下ろしてタービンの修復に取り掛かる。
四方から照らされた基底層はなんだかスタジアムのような雰囲気で、人間を含めた塔の回復力がそこに集中しているのだという臨場感があった。これだけやれば発電機能の回復も時間の問題に思えた。
そう、時間の問題。少人数による大規模な修理はまさに時間との戦いだった。
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