フィア・オブ・ハイト

「8時15分になりました。ヨーロッパ地域の天気です。南部と東部では西風が強く吹くでしょう。沿岸部の一部の地域では昼過ぎからにわか雨にも注意が必要です。……続いて高度2000メートルの最高気温です。おおむね昨日より2℃から3℃下がって例年並みとなるでしょう。ケルンテンで9℃、ネーブルハイムで8℃となっています……」


 朝食も終わりかけの頃にアルルが訪ねてきた。

 彼女はクローディアが返却した赤いジャンパーを着ていた。中はベージュのセーターで、首に聴診器がかかっているのが見えた。彼女は内科医だ。仕事前にカイの調子を見にきたらしい。

 カイは椅子に座ってTシャツの前を捲り上げ、アルルはその胸やあばらに小さなUFO型の円盤を押し当てた。

 フラムはヒトの肺に入ると肺胞の表面に炎症を生じさせる。膿が出て気管支を詰まらせるので慢性的な症状は息の音を聞いて程度を調べることができるわけだ。アルルはそうして左右何ヶ所か聴診した。

「良くなってるわね。運動は?」

「階段を上るくらいなんともないよ」

「息切れや動悸は」

「ないない」カイは裾を下ろした。

 アルルも聴診器の耳あてを外した。

「そうそう、言い損ねてたんだけど、ここ数日診療所の水の出が悪いの。工場に行くならボスに言っておいてくれない?」

「いいけど、甲板配管くらいなら見ようか」

「うーん、たぶん塔の中だと思うんだけどね、じゃあ、一度頼める?」

「うん、すぐに支度を済ませるよ」

「先に戻ってるわね」

 カイとアルルはとても仲がいい。カイは手のかかる悪ガキの中の1人だ、みたいな言い方をアルルはしていたけど、本当はもう少し深い関係なんじゃないだろうか。このところ数日置きの経過観察のやり取りを見ているとどうもそんな気がした。


 歯磨きをして髪と翼を乾かし、ツナギを穿いて袖を腰の前で縛る。

 外に出るとホットケーキみたいに生暖かい風が吹いていて、せっかくさっぱりしたのに5,6分もすれば全身ホコリまみれになってしまいそうだった。カイは年季の入ったドカジャンの襟をしっかり立てて亀のように首を縮めていた。

「ねえ、この島の人ってヤクザなの?」クローディアは訊いた。

「え、なんで?」とカイ。

「だってさっきボスって」

「ああ、それか。ボスっていうのは工場長のことだよ。みんなからそう呼ばれてるんだ」

「名前じゃないのよね」

「名前じゃない。カルモウワヴィツとかいう名字で、それはヘルメットに書いてあるからわかるんだけど、長いし覚えにくいでしょ。だからみんな『ボス』っていうんだ。下の名前は誰も知らないかもしれないな。大丈夫、ボスに会ったら君もきっと『ボス』って呼びたくなるよ」

「それってやっぱりヤクザじゃないの」


 滑走路のある最下層甲板とアルルの診療所のある中下層は高度にして500mほど離れている。2階層ほど階段で上ったところからエレベーターに乗る。カイが中層へ行く時にいつも使っている1基だ。

 ケージは文字通り金網造りで、加減速も揺れも容赦がなかった。話によるともう100年以上使われているそうだ。長年ひたすら上下するうちに人間に対する思いやりを忘れてしまったのかもしれない。

 階数表示は1から100まであって、カイは「78」というボタンを押して光らせていた。ほとんどカイだけが家と中層の行き来に使っているのだろう、そこだけボタンの表面がすり減って印刷が読みづらくなっていた。他にかすれているのは「100」と「12」だった。「1」というのが無事なところを見るとボタンがついているだけで実際には降り口のない階層もあるのかもしれない。


 「78」で降りて螺旋階段状の甲板をまた少し上り、少し開けたところにあるのがアルルの診療所だった。本人は家の裏手で枯れ草を毟っていた。そこが水道の配管なのだろう。

「来たよ、アルル」カイは工具用のポーチをじゃらじゃら言わせながら呼んだ。

「ああ、ありがとう。外だとしたらこの辺だと思うんだ」

「見てみる」

 アルルがうんしょッと立ち上がると、カイは小さなバールを取り出して手早く側溝の蓋を開いた。インフラのパイプラインはその中だ。


 タールベルグの中下層にはあえて「中下層甲板」と呼ぶほど立派な甲板は広がっていない。せいぜい幅100mの小さな甲板が4,5階分の間隔を開けてひだのように重なっているだけだ。そもそもが工業島なので計画的に広大な住居区画を整備するほどの人口が見込まれていなかったようだ。

 旧文明の建築家たちはこの島をほぼ無人で運用するつもりだったのだろうし、巨大な中層甲板のせいで年がら年中日陰になる中下層を居住環境にしようとも思っていなかったのだろう。現代の人々が勝手に住み着いて勝手に甲板を広げてしまったのだ。

 アルルの診療所もその狭い襞の上にあって、塔までだいたい20m、甲板の端まで50m、甲板の直径方向には隣家がないという立地だった。円周方向には路地を空けて同じような素朴な一軒家が並んでいるのだけど、ほとんどどれも空家で、外壁も真っ黒にくすんで荒れ果てていた。その並びの中でまるでそこだけに明るい光が当たっているかのようにアルルの家だけが生気を保っていた。


 カイは家と塔の間の側溝を全部開いて中の水道管を調べていた。

「甲板じゃないみたいだ。この辺は全然綺麗だよ。他の家に伸びてる線もきちんと閉じてあるし」

「やっぱり塔の中かしら」

 塔の内部につながるドアはパイプラインの根本の横に設置してあった。カイがハンドルを回してドアを押し開ける。

 パチ、パチ、パチとまっすぐな廊下に明かりが灯った。かなり広い廊下だ。パイプラインは床下にまとめられているのでハッチを開いて潜り込む。こちらも立って歩けるくらいの天井高だ。両側に走るパイプを懐中電灯で照らしながら進んでいく。

 塔の内装は甲板の上に比べるとかなり無機質だけど、パイプそのものは外の側溝に走っていたものと代わり映えしなかった。そもそも塔の中にある旧文明製品を模倣したものなのだろう。

「なんだ、2人とも、上で待ってればいいのに」とカイは振り返った。

「1人でいるとちょっと不気味だから」とアルル。

「2人で待ってればいいのに」カイはクローディアを見た。

「塔の中をちょっと見てみたかったの」

 カイは黙って肩を竦めた。


 150mほど進むと塔の中央部の空洞に突き当たった。

 塔の躯体は二重構造になっていて、中心部のトラスと外壁部のパネルで強度を持たせている。強風や地震に耐えるためにパネル部分は継ぎ目が伸縮するようになっていて、要するにしなる。

 つまり外壁部にパイプラインやらエレベーターのレールやらを設置すると相当な伸縮性を持たせなければいけない。揚水なり上下水なり、インフラが中心部の空洞に集められているのはその方がひずみが小さいかららしい。

 カイは梯子で床上に上がり、懐中電灯で頭上の内壁を照らして光で上水のラインを辿った。プラスチックの青いパイプがまっすぐ伸びていって闇の中に消えている。綺麗なものだ。ほとんど劣化していない。明かりを消すと奥行きが感じられないくらい真っ暗だった。上にも下にも開口部はない。密閉空間だ。


「どう?」

「だめだ。わからない。やっぱりボスに聞いてみるしかないか」カイは答えた。

「私が見てこようか」クローディアは手を差し出した。飛んでいけば揚水ポンプまで見に行ける。ただこの暗さだからさすがに懐中電灯は欲しい。

「でもその翼だ。前みたいにぴょんぴょん登っていくのは大変そうだけど」

「……うん、まあ、正直、辛いかも」

「いいよ、ボスに頼もう」アルルはハッチから這い出してきたあと廊下の手摺にくっついたままガクガクしていた。

「アルル、恐いの?」クローディアは訊いた。

「だってその下2000メートルも切れ落ちてるんでしょ?」

「まあ、それはそうだけど」クローディアは手摺から下を見下ろした。穴の底から冷たい風が吹き上がってくる。塔の根本より先端の方が日に当たっている時間が長いからその分温められる。塔の中で対流が起きているのだろう。「大丈夫だよ。もし落っこちても私が捕まえるし」

「そういう問題じゃない!」

「ああ、アルルは高所恐怖症なのね」

「高所恐怖症っていうか……高いところのへり・・に立つと地面が斜めってるみたいな感じがするのよ」

「それを高所恐怖症っていうんだよ」カイが言った。

「あっ、ほら、揺れてない? ぜったい揺れてるわ」

「揺れてないよ。揺れてるかもしれないけど、わざわざそんなところに掴まってるから弱い揺れまで感じるんだ。ほら、戻ろう」

 カイはアルルの肩を押して出口を目指した。

 クローディアはなんとなくその手が印象深かった。変な感じがしたわけじゃない。むしろ自然すぎる、というか。

 たぶん男友達の肩を掴む時ほど粗野じゃないし、かといって異性に触れる時の過剰な躊躇いとか、あるいは見え透いたイヤラシイ下心とか、そういうものも感じなかった。

 強いて言えば、思いやり、だろうか。そこに少しだけ面倒臭さが混じっているのだ。たぶん、そう。


 カイは開けっ放しだった入り口近くのハッチを閉める時に手を離した。その間にアルルがドアを開ける。廊下も明かりがついていたけど、外の明るさは眩しいほどだった。二人の影が棘のように伸びて足元に刺さる。少し遅れて例の生ぬるい風が吹き込んだ。

「ボス、今日は忙しいかもしれないわね。これだけ風が強いと、色々」とアルル。

「でも水が出なくなるんじゃ……」カイが答える。

「ううん。出ないってほどじゃないの。ちょろちょろってくらい。だから時間のある時でいいって」


 クローディアは翼をフードのように額の前に出して風よけにした。

 外に出ると遠くに飛行機のシルエットが見えた。真ん中に胴体があり、左右に同じ長さだけ翼が伸びていた。

 飛んでいくのだろうか、向かってくるのだろうか。

 確かめるために甲板の端まで行って手摺に掴まった。どうやら向かってくるみたいだ。スフェンダムの民間貨物機型だろう。

 飛行機のスピードはあくまで空気に対するものだから、着陸のために風に向かって飛んでいると、特に今日みたいな日はすごくゆっくり進んでいるように見える。

 長い庇のように伸びた中層甲板の端がそのシルエットに対して上下に動いて見えた。飛行機が揺れているにしては動きが大きすぎる。やっぱり甲板が揺れているのだ。アルルの感じた通りだった。

「ねえ、アルル、高所恐怖症だったら甲板の端っこは恐くないの?」クローディアは振り返って訊いた。

「恐いよ。だから端には近づかないようにしてるの」アルルは家の前に出している物干しの辺りから答えた。「っていうか端に近づかなくてもいいように前庭の広いところを選んだのよ」

「前庭?」

「この辺ちょっと甲板が広いでしょ。家も塔の方に寄ってるし」

 クローディアはひとしきり「前庭」を見渡した。バスケットコートくらいの広さだ。床のコンクリートは正方形のパネル状に敷かれていて、その目地から小さな雑草がぽつぽつ頭を出していた。

「土台は頑丈なの?」

「あっ、それは訊かないでよ」アルルはそう言い返してブルっと震えた。


 人間はかつて地表に住んでいた。地表は塔の上の世界とは違う。地表にはもっと下の階層・・・・・・・は存在しなかった。だから高所恐怖症がある程度合理的な自己防衛機能たりえたのだろう。しかし塔の上では高度に対する恐怖など捨て去ってしまわなければあまりに不便じゃないか。

 千年に渡る世代交代が人間を塔上の生活に適した種に変えていったのだろうとばかり思っていた。でも、たぶん違うのだ。そうしようと思えば塔の上でも高度を感じずに生きていくことができる。それが結果的に人間の古い不便な機能を守り継いでしまった。

 あるいはもしかすると、ほとんどの人間は高度に適応しているのに、古い血の中に長く眠っていた人類種の記憶がとある世代――アルルの中でふっと目覚めてしまっただけなのかもしれない。

 いずれにしても今まで接してきた人間たちはカイを始めとして高度をあまり恐れていないように思えた。だからアルルの反応は少し珍しい。


 クローディアは手摺を掴んで塔の外側に向き直る。その手摺だって錆びついて痩せ細った鉄パイプにペンキを塗り重ねただけの代物だった。ひと蹴り入れれば簡単にもげ落ちそうなものだ。

 戦争の傷跡と砲撃の衝撃によって崩れていくフォート・アイゼンの姿をクローディアは思い出した。

 タールベルグも決して健康な島・・・・ではない。

 人間たちはこの島の上であと何年、何世代生き続けられるだろう。

 島を放棄するのでもなく、島とともに滅びるのでもなく、他にもっと長く生き延びる方法を見つけることができるのだろうか。

 中層甲板を支えるために塔の根本から伸びる巨大な半アーチ状の梁やそこから甲板の裏に伸びる無数の支柱も今は頼りなく見えた。耳を澄ませば方々からリウマチのような軋みを上げているのが聞こえてきそうだった。

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