ウェイク・アップ

 目が覚めると差し込む太陽光の中に白い綿毛がひとつ浮かんでいた。

 鳥の羽根だろうか。それともギグリの翼から抜けたのだろうか。

 何度かゆっくり瞬きしている間に胸の上の重さに気づいた。

 それはどうやらサフォンだった。ベッドの横に椅子を置いて座り、上体を全部ベッドに投げ出しているのだ。

 エヴァレットは手を伸ばして淡いブロンドの髪を撫でた。知っている感触より少ししっとりしていた。夢だとしたらなぜそんなふうに感じられるのだろう。知っているものしか夢の中には現れないはずなのに。

 ……現実なのか?

 サフォンの瞼が開き、水色の目が覗いた。

「僕は死んだのか?」エヴァレットは言った。ずいぶんしゃがれた声だった。

「あ、それほんとに言うんですね。――よかった。目を覚ましましたね」サフォンはそう言って首元に抱きつき直した。かなり心配していたようだ。

 それから彼女は水差しからグラスに1杯水を注いでエヴァレットの口にそっとつけた。喉から胃に向かって冷たいものが落ちていくのを如実に感じた。

「どうして君がここにいるんだ」

「電話をくれないので飛んできたんですよ。」

「マグダがかけたはずだよ」

「そうです。ギグリ様がくれるはずだったのにマグダだったんです。それがなぜなのか聞いたらゼーバッハに連れていかれてしまったというので」

「上手く繕ってくれると思ったんだけどな……」

「いえ、マグダを責めないでください。私たちがすごく問い詰めちゃったんです」

「うん……」

「だって、あのゼーバッハですよ、8年前の」

「君は知っていたんだね」

「アルピナに引っ越す前にちょっとだけソレスにいたんですけど、その間にブンドの人たちに教えてもらったんです。名前を変えたんだよって。あの人がいる島なんて嫌ですから、それで引っ越すことにしたんです。もう関わりたくなかったですから」

「そういう事情だったわけか」

「そうなんです。そのあたりきちんと話しておけばよかったですね。そう思って、申し訳なくて、それで、マグダとの電話のあとすぐに飛んできたんです。今度はママと市長さんのお墨付きですよ。というかママは一緒です」

「すぐに……夜中の間に?」

「いえ、いえ、飛行機がなかったので次の朝の始発で飛んできました」

「次の朝? 今何時だい?」エヴァレットは混乱した。今が「次の朝」ではないのか?

 サフォンは部屋の中を見回して時計を見つけた。

「6時半です。もしかして今朝の話だと思ってます?」

「え?」

「私たちが飛んできたのは昨日ですよ。クリュスト様は丸1日と6時間以上も眠っていたんです。本当にぐっすり眠っていたんですね」

「丸1日だって?」エヴァレットはびっくりしてサフォンを抱いたまま上体を起こした。

 すると待ち構えていたように全身の痛みが襲ってきた。背骨、首、肩、脇腹……。まるで関節という関節を丁寧にすり潰された後のようなおぞましい鈍痛だった。

「あたたたたたっ……」

「ああ、だめですよ、まだ治りきってないんですから」

 サフォンはエヴァレットの肩を支えて布団の上に横たえた。

「ここはホテルではないようだけど」

「ブンドの集会所です。ホテルは報道陣に囲まれてしまいましたし、そもそもゼーバッハの息がかかったホテルなので戻るのは……」

「マグダもこっちに来てる?」

「はい。電話のあとすぐに荷物をまとめてもらって」

「そうか。それはよかった」

 

 右手の壁にあるドアが開いてギグリが入ってきた。シャワーでも浴びたのか髪が濡れていた。部屋着の白いワンピースだ。

 サフォンは慌ててエヴァレットから離れて椅子の上でぴんと背筋を伸ばした。そういえばサフォンはメイド服だった。

「丸1日も死んだように眠ってたのよ。聞いた?」とギグリ。

「……はい」

 エヴァレットが答えるとギグリは両手を口に当ててくしゃみをした。かなり咳っぽいくしゃみだった。ちょっと時間をかけて手を離し、口の中のものを指でつまんで手の中で転がしてから2人に見せた。

「肺珠ですか」

「あなたの治癒にかなり力を使ったわ」

「フラムスフィアに潜っていたんですね」

 天使はフラムを吸うことで奇跡の元となる根源ラディックスの回復を早めることができる。

「夜中しか動けないから難儀だったわよ。人目につくわけにいかないでしょう。どう、体はきちんと動く?」

 エヴァレットは指先から足の先まで一通り動かしてみて自分の体を確かめた。

「ええ。痛みますけど」

「本当に頑丈なのね。全身痣だらけだったけど骨は1本も折れていなかった」

 ギグリはそう言いながらエヴァレットの首筋に手を当てた。鎮痛アナージェスの術式だ。ギグリなら遠隔でも使えるはずだが、サフォンが抱きついていたのを見ていたからだろうか。

「骨の状態がわかりますか」

「ここの所長がベルベットという天使で、1階で歯医者をやっているの。あの小さいレントゲンで全身写すのは大変だったわね」

「結局、助けられたんですね」エヴァレットはファイトのことを思い出して訊いた。

「私は奇跡は使っていない。フェンスを破ってあなたをかっさらって逃げただけよ。私は戦いに手は出していない。決着はついていたし、もう十分ズタボロだったもの。命令には背いてないわ」

 ギグリの言い方はいささか言い訳じみていた。

「外へ飛び出すとベルベットが上で待っていて、ここへ案内してくれたわ。その時点でサフォンがブンドに連絡をつけていたのよ」

「そうか。助かったよ、サフォン」

「ありがとうございます」サフォンは少し赤くなって頷いた。


「でも、問題はそれでゼーバッハが満足したのか、で」エヴァレットは言った。

 ギグリは首を振った。

「残念だけど。たぶんあの男は私が我慢ならなくて手を出すのを期待していたのよ。あなたの命令がなかったらそうなっていたかもしれない」

「リングの外で乱闘になれば十分警察沙汰にできる。そうなれば責められるのは奴じゃない。僕の方だ」

「この国の警察は軍隊が嫌いだものね」

「奴は我々の計画を潰したかったわけですか。単にそれが恨みによるものなのか、というのは気になりますが」

「それならベルベットも話に加えた方がいいわ。サフォン、呼んできてくれる?」

「いや僕が起きますよ。嫌でも体を動かさないと痛みが引かなそうだ」

「もうかなり軽くなったでしょう?」

 ギグリが手を離したところでエヴァレットは肩を回した。まだギシギシ軋む感じはあるが十分動けるレベルだった。サフォンが用意してくれたコットンのゆったりしたシャツとズボンに着替えて部屋を出ると、廊下の向かいが食堂になっていてギグリの姿が見えた。

 テーブルを挟んで向かいに座っているのがベルベットだろう。ブルーグレイの翼と長い髪、目は紫、歳はギグリより一回りほど上に見えた。服は白いブラウスに黒いスカート。かなり落ち着いたインテリな雰囲気を纏っていた。


「初めまして。助けていただいたこと感謝します」エヴァレットは挨拶して握手を交わした。

「ベルベット・ステアー。一応、組織では厚生対策委員ということになっています。どうぞよろしく」

「ホテルにアルピナからの電報を届けてくれたのも彼女」とギグリ。

「あの親子はアルピナに移る前に短い間だけどソレスにも滞在していてね、少しばかり親交があったんです」

「だが我々の方はブンドの党員ではない」

「トルキスとサフォンも別に党員ではありませんよ。ブンドは名目的には政治組織ですが、天使にとっての相互扶助組織としての機能も多分に備えている」

「今こうして匿ってくれているのも?」

「いえ、それは少し違う」

「我々の新大会にメリットがあるのか、それともゼーバッハの方に何かしら対立があるのか」

「両方ですね。新大会は人間と天使の融和を掲げているとギグリは言った。天使の権利向上を訴えるブンドとしても歓迎すべき姿勢です。ルフトはトップダウン的に差別の排除を進めているが、それでも天使がマイノリティであることに変わりはない。個人、企業レベルの不理解や不平等はまだ残っています。それに大会の規模が大きくなればそれだけ雇用も確保できる。亡命天使に住居や仕事の斡旋を行うのもブンドの役割です。……ああ、ベイロンほど労働局の機能が充実した都市も珍しいですからね」

 ベルベットはギグリのことを単に「ギグリ」と呼んだ。ブンドは共産主義を根底に持った特に平等志向の強い組織だ。身分差を感じさせる呼び方にもかなり配慮しているのだろう。


「ゼーバッハの方は」エヴァレットは訊いた。

「その逆です。彼は彼で網を張っていて、いまだに人身売買まがいの商売を続けています。ブンドで先回りして救済するにも限度がある」とベルベット。

「違法なことはしていないと言っていたが……」

「ええ、実際違法ではないのです。ノイエ・ソレスの法整備が遅れているだけで」

 ルフトの立法機能は各諸侯の既存法にかなり依存している。ノイエ・ソレスは連邦直轄であり、ソレスブリュックの法律を下敷きにはしているもののまだ適用範囲などに穴があり不十分な状態だと言えた。だが、ある意味その「法的自由さ」がノイエ・ソレスにおける企業や個人の競争と発展を支えてきたために一概に悪とも言えないのだった。

「下手に糾弾できないわけですか」

「あなたがボロボロにされたのはいい材料になると考えているようね。いいチャンスだと」ギグリが言った。

「そういう言い方は……」ベルベットは苦笑した。初めて見せた表情らしい表情だった。

「私たちも金は手に入らなかった。でも幸いなことにあれは口約束だったし、こちらは一度拒んでいる。向こうが強制力を行使したと言えるわね。あのホテルも私たちにとってそれを拒みにくい場所だったと言える」

 

 サフォンがトレーを持って入ってきて3人の前に紅茶のカップを並べ、しっかりとお辞儀をして何も言わずに出ていった。すっかりメイドさんだ。

 エヴァレットは紅茶を一口飲んでから話を再開した。

「しかしゼーバッハを糾弾するということはやつに組する人間も敵に回さなければならないということでしょう。実際のところ、奴はこの街でどの程度の影響力を持っているんですか」

 ギグリとベルベットが目を合わせ、それからギグリが答えた。

「あの男がノイエ・ソレスのギャンブル界を握っているのは実際ね。一部の企業家・政治家とコネを持っているのも確か。でもそれで政府に対する発言力があるかというと必ずしもそうではない。ノイエ・ソレスはベイロンと違って娯楽で産業が成り立っているわけではないもの。産業規模に占める業界売上の割合は5パーセント以下よ」

「我々の大会設立に干渉する理由については」

「スパルタンとつながっているからでしょうね」

「……スパルタンと?」

 エヴァレットが訊き返すとベルベットが答えた。

「ゼーバッハのもう1つの顔が商社です。武器商人という言い方をしてもいい。もちろんそちらが裏の顔。日の当たる場所で営業している企業ではない。ルフト連邦軍はすでに自前の装備品を揃えていますが、一部諸侯では依然としてエトルキア時代の兵器を近衛隊に装備させている。そういった諸侯のためにルフトで生産していない部品の調達を請け負っているのがゼーバッハであり、エトルキア側の窓口になっているのがスパルタンです」

 スパルタン、と聞いてエヴァレットは何かが引っ掛かるのを感じた。おそらくファイトに関することだ。順を追って記憶を辿った。薄暗いリング、がじがじとうるさいフェンス、デアフリンガーという名の大男、スーツの3人組……。

「ああ、そういうことか」

「何?」ギグリがちょっと驚いて訊いた。

「やはり装身式の触媒だったんだ。いや、ファイトでスーツの連中とやりあった時、体格のわりに妙にパワーがあると思ったんです。それでもしかすると装身式の触媒で事前に筋力を強化していたのかな、と。エトルキアにはそういう制式触媒がありますからね。奴がパイプを持っているなら、なるほど、納得だ」

「軍用品の乱用というのはいい材料になる」とベルベット。

「あれはいわば杖を体に押しつけるもので、使えば体に跡が残る。現場で脱がせれば証拠になります」

「なるほど」

「話を戻しましょう。ええと、スパルタンの利害ですか」

「ええ」

「つまり、我々が新大会を創設すればベイロン大会の規模は相対的に小さくなる。そうなればスパルタンも見返りの見込みを引き下げなければならない」エヴァレットは解釈した。

「スパルタンから直々に阻止の依頼があったのか、あの男の独断なのか、それはわからない。でも、前者だとしたらタイミングも手口もちょっと雑すぎる気はするわね」とギグリ。

「独断の線が強い」

 エヴァレットが言うとベルベットも頷いた。

「コネを持っている政治家や財界人というのは」

「カジノやらに関して事業的な癒着が見られるという意味であって、個人的なコネとは違うようね。いずれにしてもゼーバッハがボロを出せばさっさと手を切るレベルでしょう」

「社会的に抹殺しさえすれば、そのあとどう料理しようがリスクはないと」エヴァレットは言った。

「ふうん、抹殺ね」ギグリはそう言ってベルベットに目を向けた。

 ギグリだって仕返ししたい気持ちは山々だろう。ファイトの落とし前はつけさせなければならないし、8年も恨みを生かし続けた人間が多少のことで悔い改めるとも思えない。ただ一応部外者の前なので明言はしたくない、という様子だった。

「まあ、どちらでもいいわ。どうせ何があってもスパルタンは直接の手出しはできないもの。ゼーバッハを抹殺するとして、問題になるのはその諸侯とやらの反感を買わないことよね。それについてはモラブチェクに持ちかけてみましょう。商売になるのだから嫌な顔はしないでしょう」

「ブンドは軍事産業とは距離を置いています。その問題をフォローできるのはありがたい」とベルベット。

「糾弾までの段取りは見えているのかしら?」ギグリは訊いた。

「あなた方を餌に使うことになる。それでも頼っていただけるならできるだけの協力は返しましょう」

「メディアを呼ぶなら1つ伝手があるの。使わせてもらっても?」

「ええ。構いませんが、ゼーバッハを相手取れる局でなければ」

「LBCはどうかしら」

 ベルベットは吟味するように何度か頷いた。「資料を見てみましょう」彼女はそう言って一度食堂を出ていった。

 エヴァレットとギグリは2人になった。

「ゼーバッハを頼みにしていた200万、当てがなくなったわね」ギグリは一口紅茶を飲んでから言った。内容に反して彼女は得意気だった。「昨日1日どうするか考えていたのよ。どうにか上手く工面できるかもしれないわよ」





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