スリー・ラウンズ

 ノイエ・ソレスの中心部にパイルシティという一角がある。人工地殻の建設が始まった時の最初の杭と甲板が残っている歴史的かつモニュメンタルな地区だ。記念広場があってその中に記念碑まで建っているのだが、周りに広がる街は決して雰囲気のいいものではなかった。最初期の甲板ゆえにその後標準化した甲板の強度基準を満たしていないのだ。周辺街区の区画整理で公官庁がそちらに移転した結果、地価が下がってアウトローの温床と化していた。


 ゼーバッハのファイトクラブもパイルシティの中にあった。黒いセダンから降りて古い公会堂に入るとホールに鉄骨で組まれたスタンドがあり、その中心がフェンスで囲われたリングになっていた。リングにだけ真っ白い照明が降り注ぎ、あとはスタンドも含めてほぼ暗闇だった。

 リングではボクサーのような上裸の男が2人、素手で殴り合っていた。すでに2人ともふらふらで顔中痣だらけ、もはや拳を握る力も残っていないような状態だった。おそらく賞金がかかっていてどうしても負けたくないのだろう。ファイトには強制的に戦いを止めるシステムもないようだった。そしてそれゆえに観客は盛り上がっていた。罵声を上げながら金券を撒き散らしていた。

 1人が殴り、相手は口から血を吐いて倒れる。さらに上から殴ろうとしたところで倒れた方が足を上げて相手の首に絡ませ、横に引き倒しながら首を捻る。最初に殴った方はそれで完全にダウン。今度は血ではなく失禁による水溜りが床に広がる。客席からは歓声と嘲笑、ブーイングがそれぞれ等分くらいに上がった。勝負がついたようだ。

 ガラの悪い空間だと思ったが、客席の暗がりをよく見渡すと案外身なりのいい客の割合が多かった。試合を見るにも金がかかる、というだけのことなのか、それとも昼間の鬱憤を晴らしに来ている政界や財界のキャリアも多いということか。


 また次の試合が始まる。やはり男と男の1対1。片方は格闘家らしい隆々とした体つきだが、もう一方は色白でひょろりとしていた。とても体を動かしそうなタイプには見えない。普段はオフィスでパソコンにかじりついていそうな雰囲気だ。いかにも生活苦で借金をしすぎて止むにやまれずやらされているといったふうだった。

「見ろよ。滑稽な景色じゃないか。貧乏人が金のために争うのを金持ちたちが見下ろしている。この国は平等を掲げたよ。だが実際はどうだ。水や電気、甲板の使用にまで税金を課して、結局その割を食っているのは弱者だ」ゼーバッハは言った。

「インフラの課税は大企業による独占を戒めるために設けられた。エトルキア時代の教訓だ」とエヴァレット。

「だが実際には経営者たちと癒着した政治家たちによって累進税率が引き下げられた。どれだけ貧しくても税金がゼロになることはない。エトルキアに亡命したい人間が多いのもわかるだろう? 向こうではまともな島に家さえ持てればただ生きていくだけの生活にカネはかからないからな」

「まともな島に家さえ、か。それが難しいのだろう。エトルキアとて多くの島は人口超過。亡命したところでどの島でも邪険にされるのは見えている」

「その状況を招いたのはルフトの独立だと思わないか。ルフトは確かに反エトルキアの有志連合だよ。だがそれで領土がこれだけ綺麗に分かれるわけなんてないじゃないか。きちんと段階と交渉を踏んで移転・移住をやったわけでもない。ただ巻き込まれてルフトの下に入った諸侯・住民もたくさんいるのさ」

 エヴァレットはゼーバッハの顔を見た。1つ気づいたことがあった。

「亡命の斡旋をしているのか」

「合法さ。捕虜と特定観察指定者、防衛産業関係者以外の渡航は特に制限されていない」

「それでも審査は厳しい。渡航目的を移住で申請するわけにもいかない。書類の手配を代行している、というわけか。いや、あるいは政府が制限している渡航者の偽造書類か」

「言っただろう、合法だよ。あくまで合法だ」ゼーバッハははぐらかした。

「貴様はかつて亡命天使を捕えてエトルキアに移送していた。合法だ、更生だ、と言ったところで使っているのは当時のパイプじゃないか」

「公安が徹底的に摘発したのを忘れたのか?」

「組織そのものは、だ。個人じゃない」

 客席が湧いた。片方がダウンしていた。倒れているのはもちろん色白のひょろっとした方だ。

「さあ、そろそろいいだろう」ゼーバッハは組んでいた腕を解いた。

「まさか貴様とこんな形で言葉を交わすことになるとはな」

「あの小僧が、言うようになったじゃないか」


 ゼーバッハが司会に話をしに行ったのでエヴァレットとギグリは少しの間2人になった。

「あの男、本当に500万も出すつもりはないわ」ギグリが耳打ちした。

「当然でしょう」エヴァレットもそれはなんとなく察していた。ゼーバッハが額を言う時の口調には重みがなかった。

「なぜあなたは乗り気なのよ」

「カタはつけさせてやらないと後々もっと面倒になる」

「お優しいこと」

「まさか、この場を丸ごと潰そうなんて考えてないでしょうね」エヴァレットは不安になった。ギグリの態度にはあまり真剣みがなかった。

「いざとなれば」

「警察沙汰になれば我々も圧倒的に立場が悪くなる」

「わかってるわよ」

「絶対にダメですからね」

 ルフトでは軍人は政治権力や法執行から厳格に隔離されている。たとえちょっとした暴力事件でも、軍人兵士が加害者となれば一段重い量刑が課される傾向にあった。軍人が求められる規律の裏返しなのだ。むろん、両者合意のファイトなら萎縮する必要はない。


 ゼーバッハが手招きしていたので2人は立ち見客の間を割って行った。

「ルールは」エヴァレットは訊いた。

「凶器はだめだ。時間制限はない。どちらかがギブアップするまで続ける」

「反則は」

「んなものはないよ」

 ゼーバッハはエヴァレットをリングに通した。ドアなどない。鎖で繋がれたフェンスの隙間を広げるだけだ。

 エヴァレットはシャツを脱いでギグリに渡した。インナーシャツがあるので上裸ではない。肩を回して体を動かす準備をする。

 リングの向かいで観客が道を開け、身長2mくらいありそうな大男が現れた。とてもじゃないがフェンスの隙間から入ってくるのは無理だろう。すると大男は隙間に腕を差し入れてぐっと力を入れ、両側に押し開いてフェンスをつないでいるチェーンを引きちぎった。怪力で売っているらしい。

 その身体は筋骨隆々として張り詰め、カブトムシのように黒々とテカっていた。背中には大きな翼の入れ墨があった。

 大男が拳を上げながら客席を隅から隅まで見渡すと、観客も「デアフリンガー、デアフリンガー」というコールで応えた。それが大男の名前らしい。

 特にゴングもなくラウンドが始まり、大男はかなり大振りな右フックを繰り出した。体の大きさのせいでいささか緩慢な動きに見えるが、実際スピードは乗っている。

 エヴァレットは試しに屈んで頭を低くした。合わせてフックの軌道も低くなる。ちゃんと相手を見ながら打っているようだ。

 エヴァレットはガードを固めて拳の内側に入り、その勢いで右の正拳突きを打った。

 鳩尾に直撃したと思ったが、拳の先に当たったのはサイのような分厚く固い皮膚の感触だった。手応えがなかった。

 度重なるファイトの中で鍛えられた体なのだろう。まともに力をぶつけても効き目のない相手だということがよくわかった。

 大男はニヤリとして膝を打ち込んだ。

 エヴァレットは両手でそれを受け止めて後ろに飛んだ。それだけでフェンスギリギリだった。狭いリングだ。


 大男はさらに迫ってきて両手を揃えて振り下ろした。

 踏み出す姿を見てエヴァレットは気づいた。大男の脚はわずかに内側に湾曲していた。いわゆるX脚だ。

 エヴァレットは大男の腕を右に受け流しながら――それだけでも両足ががくんと沈み込無ほどのパワーだ――左に滑り込み、大男の膝に蹴りを入れた。

 大男はまたニヤリと笑った。まるで痛くも痒くもない、といったところか。

 だがそれはエヴァレットも織り込み済みだった。

 大男はほとんど構えという構えもなく腕を伸ばして殴りかかり、あるいは掴みかかろうとした。

 エヴァレットは相手の目をよく見た。吸血鬼のような水色の目だ。鼻も曲がっていない。耳も腫れていない。案外顔がきれいだな、と思ったが、ほとんどのファイターはこいつのリーチの内側に入れないのだろう。だから顔に攻撃を食らわないのだ。

 エヴァレットは大男の手首と足首を注視し、攻撃を避け、受け流しながら右膝を狙った。むろん体勢が悪いので威力は出ない。何度打とうが大男はピンピンして追ってきた。


 だが10分ほどやりあった頃だろう。エヴァレットがまた蹴りを入れて背後に回ろうとした時だった。

 振り返ろうとした大男がよろめいて膝をついた。なぜ膝が入ったのかわからないというキョトンとした表情だった。それに息が上がっていた。攻撃を外しすぎたせいだ。攻撃を外すのは当てる以上に体力を消耗する。

 大男は膝をついたままほとんど重さだけで勢いのないパンチを打った。

 エヴァレットは半身になってそれを胸の前すれすれで避け、手首を引っ張って肘の下に肩を入れ、相手の肩と肘をめながら時計回りに回った。

 大男はそのままでは右膝の方に引き倒されるとわかったのか、左脚1本で力任せに立ち上がった。

 エヴァレットはその勢いを使った。飛び上がって大男の肩を越え、体重と着地の慣性を頼りに、極めたままの腕をテコで振り抜いた。大男は仰け反ってエヴァレットに覆い被さり、そのままグミのような弾性体になって腹から床に叩きつけられた。

 床が抜けそうなくらいの「ビターン!」という衝撃が響き渡り、大男は一瞬伸び切った。そして起き上がると呻きを堪えながら肘を押さえた。よく見ると大男の右肘は逆に曲がっていた。

 ラウンドはまだ続いているようだったが、互いに戦意が残っているかどうかはまた別の問題だった。エヴァレットは汗を拭った。腕の外側は散々攻撃を弾いたせいでいくらか骨が当たって腫れていたが、それだけだった。殴りは初手以外使わなかったので手も痛みはない。

 打撃というのは打った方にも打たれた方にも同じだけの衝撃を与える。たとえ一方的に殴っていても一方的にダメージを与えているわけではない。効率の悪い攻撃手段だといえる。エヴァレットは投げや関節技の方が好きだった。


 エヴァレットはフェンスの向こうにゼーバッハを探して指を向けた。

「まさかこんなもので終わりではあるまいな」

「もちろんだ」ゼーバッハは動じなかった。そして右手を掲げ、「パチン」と指を鳴らした。

 するとフェンス際の観客たちが一斉に動き出し、フェンスのチェーンを外し、もう一組分フェンスを持ってきてリングを広げた。フェンスが閉じた時、リングの中にはエヴァレットの他に黒ずくめのスーツを着込んだ3人残っていた。大男は観客数人がかりで外に運び出されていた。1対1では勝ち目がないというわけだ。

 スーツはいずれもエヴァレットと同じくらいの体格で、まるで塔のように正確無比な直立姿勢を保っていた。

 エヴァレットがリングの真ん中に立って構えの姿勢を取ると、スーツたちは同時に襲いかかってきた。

 タイミングをずらすために正面の1人に向かって走り込み、顎と喉を狙って軽く掌底、膝に打ち下ろして足をかけ、左側に引き倒す。

 左からくる1人はそれで動きが止まったが、右手の対処が間に合わない。脇を締めたものの、肘より背中側に突きが入った。

 予想より重い一撃だった。硬さは大男と同等、鋭さでは一段勝っていた。

 エヴァレットは我慢できずに咳き込んだ。するとその隙に引き倒した1人が起き上がりながらハンドスプリングで両足蹴りを打ってきた。

 どうにか腕を差し込んで受け止めたものの、これも寝転がった体勢から打ったとは思えないほどの威力だった。

 エヴァレットは後方に吹き飛ばされた。視界の中で床が流れた。

 どうにか体の向きを変えて足でフェンスに着地する姿勢になったが、実際の着地は4点になった。

 そこで左手の感覚が鈍っていることに気づいた。蹴りを受け止めたせいだ。せっかく温存しておいたのに、水の泡だ。

 しかし体格の割にパワーがありすぎる。スーツの下に何か隠しているのか?

 あるいは魔術が使えるのかもしれない。触媒も見当たらない、詠唱も聞こえなかったが、身につけるタイプの触媒もあると聞いたことがあった。触媒を離すか、効果を止める詠唱を行わなければ魔術の効果は持続する。事前に筋力強化などの詠唱をしておいて、その効果がまだ続いている、と考えるのが最もそれらしく思えた。


「どうした、あの時も3対1だったじゃないか。無勢が苦手になったか?」フェンスの向こうでゼーバッハが言った。

 スーツは3人でエヴァレットを取り囲んでいた。ボクシングに似た構えて間合いを詰め、ジャブを打ち込む。

 エヴァレットは右手の1人の腕を引いて正面の1人に向かって突き飛ばし、左手の1人を組み伏せた。

これで1つ。

 立ち直った2人の一方を足払いで崩して顔に蹴りを入れ、そいつのジャケットをすぽんと脱がせて最後の1人の首に巻いて締め上げながら組み伏せた1人の喉に蹴りを入れた。

 これで3つ!

 だが気づくとさらに3人のスーツがフェンスの隙間からリングに入ってきていた。

 第3派というわけだ。

 エヴァレットは息を整えた。ジャブが効いていた。脇腹の痛みが呼吸を苦しくしていた。自分が死にかけの老牛のように弱っているのを感じた。

 次の3人も休む間を与えずにかかってきた。勢いをつけた連撃を2人目まではやり過ごしたが、3人目の飛び蹴りがまともに肩に入った。膝だと思ったら足が伸びてきたのだ。

 直後の回し蹴りで突き飛ばされ、床に転がった。

 ちょうどフェンスの外からギグリが見下ろしていた。

 見たことのある表情だ、とエヴァレットは思った。

 そうだ、灰になっていくフェアチャイルドを前にした時もこんな顔をしていた。

 スーツが向かってくる。

 エヴァレットは起き上がってどうにか立て膝になった。

 目の前の床に小さな障壁オーべクスが立ち上がるのが見えた。

 エヴァレットはそれを拳で叩き割った。

「ギグリ、手を出すな!」

 エヴァレットはタックルを受け止めて渾身の力で相手の首を絞めた。だがさらに2人ほどが背中にのしかかり、動きを封じにかかってきた。もはや動ける相手が何人なのかさえ数える余裕もなかった。次第に身動きが取れなくなり、ガラ空きになった脇を蹴られ、腕を踏まれていた。

 痛みと息苦しさで急速に意識が曇り始めていた。人間の体はやられ始めると脆い。弱れば弱るほど弱りやすくなっていく。すぐそこにあるはずの音も光もまるでトンネルの先にある景色のように遠く感じられた。

 「ドン」と衝撃があって取り囲んでいた男たちがフェンスと一緒に吹き飛ぶのが見えた。ギグリが我慢できなかったのか? わからない。自分の体がどうなっているのかさえ、もはやまるで感触がなかった。

 

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