献身の天使

アルピナ

エスケープ・リトルエンジェル

 古い記憶だ。もう8年前のことになる。

 16歳のエヴァレット・クリュストはベイロンの最下層中心街にいた。ひとつ上の中下層との高度差は500m近くあったが、それでも塔付近、特に北側は正午近くになると日光が遮られてまるで夜のように暗くなるのが常だった。

 フェアチャイルドはギグリを連れて店の中へ入っていった。だが客としてではない。ベイロンの領主として店主と話をするためだ。今も昔もベイロンの労働者は全て公の労働局を介して仕事を斡旋されるのだが、雇用者の方は全て公営というわけではなく、歓楽街についていえば店舗数の約半数は民営だった。それは経営者の要望によるものでもあるし、政府もそこに市場原理を取り入れて業態のマンネリを防ぐ意味を見出していた。

 むろん民営店の労働条件は経営者が個別に設定できるわけで、待遇の悪い店は労働局への通報でガサ入れを受けることもあった。ただし最終的に店の存続を判断するのはフェアチャイルドの仕事だった。彼は店側との直接交渉を好んでいた。店側がそれに素直に応じるとも限らないから、障壁オーベクス――防御の奇跡を扱えるギグリが傍らで守り、エヴァレットが外を見張るのがセオリーだった。


 エヴァレットは店の扉の横に立って通りを眺めていた。歓楽街の目覚めは夕方だ。真昼間ではろくに往来もない。武器は何も持っていない。何かあれば知らせに来い、という指示だ。楽だが、実りのない時間だった。

 通りに面した建物は黒い壁のように塗り込められ、街灯の周りだけがぼんやりと明るく照らされている。北側を見ると影の外にある建物の角がきらきらと光り、その向こうに四角く切り取られた青空が見えた。

 足音。

 南側の歩道、街灯の下で何かが動いた。

 子供か?

 青いコートを着た5歳くらいの少女がたったっと駆けてきてエヴァレットの脚にまとわりついた。スーツの男の一団がそのあとから歩いてくるのが見えた。

「お兄さん、悪いね、その子が迷惑をかけて」スーツの1人がそう言ってしゃがみ、少女に目線を合わせた。男にしては髪が長く、ウェーブのかかった黒髪が肩にかかっていた。「おいで、帰ろう。ほら、いい子にしてなくちゃだめだろ」

 少女は一層強くエヴァレットの脚にしがみついた。コートの裾からフレアのスカートが見えているので女の子だと思ったが、コートについたフードを被っていて容姿はよくわからなかった。

「この子の親は」エヴァレットは訊いた。

「ここにはいないんだ。そこへ連れて戻ろうとしているんだが、どうもおてんば・・・・でね」

「そこ?」

 エヴァレットがそう訊くと長髪の男は舌打ちを寸止めしたような具合に唇を歪めた。

「……お兄さん、誰の付き添いか知らないけど、それは知らなくてもいいことかもしれないぜ」

 歓楽街にこんな少女――というか幼女――は不似合いだ。誰かに連れてこられたのだろう。それが親でないとしたら……。

 民営風俗店の中には労働局を通さずに従業員を雇おうとする店もあった。労働条件の制約がないからだ。

 エヴァレットは察しをつけた。じりじりと後ずさりして店の扉に手をかけ、ノブを掴んで押し開けようとした。しかし扉は固く閉ざされていた。厄介事に巻き込まれるのを嫌った店の人間が締め出しにかかったのだろう。

 男が首を傾げた。やや顎を上げた不敵な仕草だった。向こうも向こうでエヴァレットの反抗的な態度に察しをつけたのだろう。


 エヴァレットは左手で少女の体を自分の後ろに引きつけ、片足を引いて構えた。だがここで事を起こすわけにはいかない。フェアチャイルドに迷惑がかかる。逃げるしかない。

 エヴァレットは少女を抱いて駆け出した。裏口はどうだ? 店には裏口があったはずだ。そっちなら開いているかもしれない。路地裏に入ってダストシュートを避け、裏口の扉を押した。

 だが開かない。もちろん引いてもダメだ。蹴破ろうにも鉄製の頑丈な扉だった。

 振り返る。スーツの男たちはゆっくりと追ってきつつあった。エヴァレットは店の中へ入るのを諦めて少女を背負い、向かいの通りまで路地を抜けた。

 だがエヴァレットは最下層の地理には疎かった。生活環境は住居のある最上層と学校のある中層にほぼ限られていた。同級生たちは放課後に中下層や最下層でよく時間を潰していたが、フェアチャイルドの公務に同伴するエヴァレットがそこに加わることは稀だった。

 とりあえず塔に向かおう。上層に上がれば逃げ切れるはずだ。まっすぐな通りの先に塔の黒々とした外壁が見えていた。

 だがそう上手く行くものではない。スーツの1人が恐るべき速さで先回りして2ブロック先の路地から姿を現した。

 エヴァレットは通りを渡ってその先の路地に飛び込んだ。店の横の路地よりもさらに細い路地だった。物置や梯子などで塞がれていて体を横にしなければ通れないくらいの幅しかない。しかも建物の角と角か迷路のような分かれ道を作り出していて、終いには袋小路に追い込まれてしまった。

 エヴァレットは立ち止まった。背中の少女は体をこわばらせて「ママ……」と漏らした。

「君のママはどこにいるんだ?」エヴァレットは小声で訊いた。

「ママを助けて」少女は言った。

「下がっておいで」エヴァレットは少女を下ろして後ろの壁まで追いやった。「いいと言うまで目を開けてはいけないよ」

 スーツの3人組が追いついてきた。前に1人、後ろに2人だ。

「なぁ、お兄さ……」

 エヴァレットは観念したふうで近づいていって、先頭に棒立ちしていた長髪の喉を正拳突きで殴った。

 右の1人が懐に手をかける。

 そこに鉄槌打ちを振り下ろして拳銃を落とし、そのまま手首を引っ張って最後の1人に対する盾にして突き飛ばす。

 ナイフを出して横から切りかかる長髪の振りを躱し、よろめきから立ち直った盾役の殴りを横腹で受け止めながら長髪の腕を取って捻り上げ、その懐から拳銃を抜いてあとの2人の肩を狙って2発ずつ交互に撃った。最後に長髪を組み伏せて手を押さえ、ナイフをもぎ取って刃を確かめた。あまり研がれていない。鋸のようなものだ。これで切られたらなかなか出血が止まらないだろう。エヴァレットはそのナイフで長髪の右手首を外側からざっと切った。

「早く押さえるんだ。失血で死ぬぞ」

 あとの2人は肩を狙ったもののじっくり照準したわけでもないので腕や脇腹に弾が当たっていた。止血しようにも自分では上手く押さえられない位置だ。片手でも使えなければなおさらだ。

 せめて素手でかかってくれば外科的な外傷は負わなかっただろう。基本的に相手と同じ武器しか使わないというのがエヴァレットのポリシーだった。

 ナイフを避けるために脇腹に何発か殴りを食らってしまった。肋骨がズキズキと痛んでいたが、それでも切られたり撃たれたりするよりよほどマシだろう。


 エヴァレットは武器を回収して少女の目隠しをしたままその場を離れようとした。

 が、突如として体が軽くなった。

 浮かんでいる? 足が地面から離れていた。少女も一緒だ。思わず手を伸ばして抱き寄せた。落ちたら死ぬな、というほどの高度なり、1分ほどかけて8階上の高さまで昇った。屋上が見えたところで誰の仕業かはっきりした。

 フェアチャイルドだ。彼が魔術をかけて浮かばせていたのだ。フェアチャイルドとギグリは並んで屋上に立っていた。銃声を聞いたのか、エヴァレットがいなくなっているのに気づいて捜しに来たのかもしれない。

「ケガはないか?」フェアチャイルドは2人を屋上に下ろし、そう訊きながら杖を仕舞った。甲板の間に反射した輻射光のおかげで屋上にはいくらか明るさが残っていた。明かりを点けた夜の室内といった程度だ。

「ありません」

「その子は」

「助けを求められたので……」エヴァレットは答えに窮した。少し考えてから少女に目を移した。少女はまだ律儀にぎゅっと目を瞑っていた。

「もう見てもいい」

 少女は目をパチパチして周りの3人の顔を順に見た。

「どうして僕に助けを求めたんだ?」エヴァレットは訊いた。

「いい人だから」

「いい人?」

「うん」

「ほーう。わかるのか」フェアチャイルドが訊いた。

「うん。善い人・・・はね、わかるの」

 その時一陣の風が吹き、少女のフードを捲り上げた。透き通るような金色の髪と青い目が顕わになった。

「コートを脱いでもらってもいいか」

 少女は頷いて青いダッフルコートのボタンを外し、腕を抜いた。中は白いふんわりしたワンピースで、その開いた背中からは白い小さな翼が生えていた。

「よかった。痛いことはされなかったね?」エヴァレットはなんとなくコートを脱がせた理由をつけるために訊いた。もちろん本当は天使であることを確かめるためだった。

「うん。――あ、ねえ、ママを助けて」

「あの男たちの仲間のところにいるのかな?」フェアチャイルドが訊いた。

「うん」

「場所はわかるかい」

「こっち」少女は指を差した。

 フェアチャイルドはギグリに目配せした。先に向かわせるつもりだ。

「エヴァレットは警務局に連絡して現場の処理を」

「はい。すみません」

「謝るな。手柄にしておこう」

 そう言うとフェアチャイルドは再び浮遊の魔術をかけてエヴァレットを甲板に下ろした。

 スーツの男たちはすでにいなくなっていた。血痕が点々と続いているだけだ。血の匂いがした。見上げるとフェアチャイルド自身は長く板状に変形させた杖で建物の屋上を渡っていくのが見えた。


 結果から言えば天使の少女とその母親を囲っていた店の労働環境は予想に反してさほど劣悪なものではなかった。ただ労働局を通さずに働かせるという、その1点だけが問題だったのだ。少女の母親はウイルス性の肺炎に侵されていた。しかし店は不届雇用の発覚を恐れた。独力でどうにか処置しようとして抗生物質の投与を行わなかった。塔の医薬品生産機能は政府によって厳格に管理されていたうえ、現代技術で密造された薬品を扱う闇医者も天使の肺炎には詳しくなかった。いよいよ母親の窮状を察した少女が社宅を飛び出してきた、というわけだ。

 少女の母親の救助と前後して警務局は店の経営者を逮捕、労働局は全従業員を強制的に登録、経営への関与レベルによって一部を警務局に引き渡した。

 むろん労働者登録は少女の母親も例外ではなかった。彼女は亡命前にサンバレノ軍の工廠で爆薬や雷管を扱っていた経験を活かし、化学教師の資格を取って中下層の高校で働きながら今は少女と2人平和に暮らしているという。他でもない、少女本人から聞いた話だ。

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