崩落

 中上層のバルコニーから見上げたところで甲板の裏側が見えるばかり。上層飛行場で何が起きているのか、下からでは把握のしようがなかった。不用意に空に飛び立つのは危険だ。本当に塔が崩れるならぎりぎりまで待ってから飛び出そう。クローディアとそう話し合っていた。

 上を見るために手摺から身を乗り出すと股の間がスースーした。下は1000m近く切れ落ちているのだ。そう思うと空のてっぺんがぐっと近づいてきて手摺や足場がとても不確かなものに感じられた。

 というか本当に不確かなんじゃないか?

 現にこの塔は崩れかかっている。装甲板にはレース機が通れそうなくらいの亀裂が走り、「ズズッ……カッカッカッカン」と不吉な音が内部から響いてきていた。地表には落下した瓦礫の立てた土煙がもやもやと漂っていた。このバルコニーだっていつ崩落するかわからない。かといって足踏みしたりして確かめる気にもなれなかった。


「カイ」クローディアが呼んだ。耳につけたインカムに手を当てていた。「迎えに来てくれるって。もう下りても大丈夫」

 彼女が指差す方を見るとプープリエが近づいてくるのが見えた。脱出した乗員たちの回収のために低空に控えていた高速輸送機だ。中層飛行場の軸線に機首を合わせ、障害物がないか確かめるために一度上空を通過、ぐるりと回ってきて胴体の下から車輪を下ろし、機首を擡げて着地した。滑走路の6割ほど使って減速、かなりスピードを出して誘導路を走り、駐機場に停止した。

 中から出てきたパイロットが辺りを見回す。彼が上を向いたところに合わせてカイは手を振った。

 相手も振り返す。

 よかった。これで帰れる。


 カイはジェットパックのベルトを確かめて空中に飛び出した。しかしそれから大事なことに気づいた。ジェットパックで空を飛ぶのは初めてだったのだ。

 翼には舵がついていてベルトに這わせたワイヤーで操作する仕組みになっていたけど、尾翼がないので上下の動きには重心移動が欠かせなかった。訓練を積んで感覚的に操る乗り物なのだ。

 結果、カイは真っ逆さまの状態からどうにか少しずつ上を向きつつあったが、そのままのペースではどう考えても飛行甲板に激突しそうだった。

 カイは恐怖のせいで「わああああ!」と声を振り絞っていた。


 足に何かが触れた。尻の辺りがぐっと重くなり、急に視界に水平線が入った。ほぼ水平だ。降下加速で得たスピードのまま塔から遠ざかる方へ飛んでいた。気づけば飛行甲板まではまだ500mほど高度が残っていた。もうほとんど目の前のように思えたのに、不思議だ。

 カイは振り返った。

 あとから飛び立ったクローディアが追いついて脚を押し下げてくれたのだ。それで重心が後ろに行って頭が上がったのだ。彼女はジェットパックの後端を掴んで少しだけ翼を広げたままくっついて飛んでいた。

「ありがとう、助かったよ」

「焦りすぎ」

「生身で飛ぶって、こういう感じなんだな」

「初めてじゃないでしょ?」

「自分の翼は初めてだ」

「そろそろターンしないと戻れないよ」

 カイは左のワイヤーを引いて左翼を下げ、プープリエを正面に捉えた。その調子で旋回してスピードを殺しながら降下した。

 クローディアはその間ずっと後ろにくっついていて、着地の直前だけ離れた。

 途中、ヴィカのジェットテールが上層から流星のように下りてくるのが見えた。まっすぐ降下して、直前の逆噴射で減速。一瞬だった。


「カイ、クローディア、早く乗れ」ヴィカはジェットテールを履いたままプープリエの側面ドアの前で待っていた。

 彼女が肩に抱えているのはキアラだった。気絶させられているのだ。ぐったりしていた。

「カイ、意識のないやつを抱えちゃさすがに飛べない。頼むぞ」

 カイはジェットパックを脱ぎ捨ててヴィカからキアラを受け取った。

 クローディアを介抱したときと同じ、妙な軽さだった。自分はこんなか弱いものに人質に取られていたのか……。

「やらせるなよ。大事な戦利品だ」

 ヴィカはカイとクローディアをキャビンの中に押し込むとドアをロックして一足先に飛び立った。


 プープリエはパワーを上げ、そのまま滑走路を無視して滑走を始めた。加速のせいで体が後方の壁に押しつけられた。

 いつの間にか空に浮かんでいた。カイとクローディアは揃って溜息をついて脱力した。

 狭い空間だった。左右のドアをつなぐ、ちょうど廊下のような造りで、後部の貨物・兵員室とも前部の操縦室とも扉で区切られていた。

 カイはキアラの体を仰向けに返した。キアラは目を瞑ってゆっくりと息をしていた。鼻筋に掠れた血がついていた。2つの大きな銃創の出血は止まっていたが、傷はそれだけではなかった。

 このプープリエは救難機運用だ。応急処置キットくらいあるだろう。カイはそう思って後部のドアを開いた。

 呻き声が漏れてきた。硬い床に敷かれたマットの上に10人近くが寝かされたり座り込んだりしていた。ほぼ普通の作業服姿。その格好からしてパイロットではない。スフェンダムから脱出した乗員たちだろう。火傷した者、破片を浴びた者、ケガは様々だった。数人の衛生兵はその手当に追われていた。

 カイは諦めて扉を閉めた。

「どう?」クローディアが訊いた。

「ダメだ。後ろも手一杯」


 カイとクローディアはキアラを挟んで座った。重たいエンジン音が「ゴオオオオオ」と機内の空気を震わせていた。カイは壁に背中をつけてその振動を感じていた。

「クローディア、すまない。俺はキアラを撃てなかった」

「仲良くなったの?」

「……そうかもしれない」

「それとも、フェアチャイルドを殺したのを後悔してるの?」

「それもある、と思う」

「それがカイの経験と感情なのよ。生かしておいたらいつかまた次があるんじゃないかって、私は不安だけど、それも私の経験と感情だから」

「きっと君の方が正しい」

「私1人で追い込んだわけじゃないし、トドメだって私じゃない。だから、ヴィカが欲しいならあげよう。エトルキアに任せられるなら、それでもいいのかもしれない。今までは1人だったから、相手をどこかに閉じ込めておくなんてできなかったけど」

「本当にそれでいいんだろうか」

「私1人で戦ったわけじゃないなら、私1人の感情と経験で決めるわけにはいかない。でも、覚えておいて。カイが選ぶことができたのは有利だったから。圧倒的優位は人に余裕を与える。でももし次があって、圧倒的優位じゃなくなったからって、相手がその慈悲を返してくれるとは限らない。十中八九返してくれない。返してくれなかったら、あなたは死ぬ。今日の赦しがいつかあなたを殺すかもしれない」


 兵員室のドアが向こうから開いた。隙間から緑色の目が覗き込んでいた。モルだ。彼女はカイとクローディアを確認すると通路の方へ入り込んできてカイを抱きしめた。

「よかった、生きてた」

「ああ。心配かけて、ごめん」

「クローディアも、大丈夫?」

「うん。なんともない」

 それからモルはキアラを見下ろした。

「死んでる?」

「いや、気絶してるだけだ」カイは答えた。

「この天使がミルドを殺したの?」モルは改めて訊いた。

「いいや、それは違う。……ただ、グリフォンに食べさせたんだ」カイは後半声を落とした。言いづらかった。

「食べ……」モルは口をもごもごさせた。あまり想像したくないものを想像してしまったのだろう。「人間を人間と思ってないのね」

「人間は人間だよ。でも天使を人間とは全然別の生き物だと思っている。だから疑いもなく家畜のように扱う。天使がみんなそうだというんじゃない。サンバレノという国の文化がそうなっているんだ」

 彼女にもいろいろと思うところがあるのだろう。それ以上何も言わずにしばらくじっとキアラを見下ろしていた。


 兵員室からどよめきが聞こえた。カイはもう一度後ろのドアを覗いた。負傷者たちが窓に顔をくっつけているのが見えた。右舷側だ。

 カイはキアラの体を跨いでドアの窓から外を見た。クローディアとモルも横に来た。

 後ろを覗き込むとアイゼンの全貌が見えた。まだ大気の霞に溶け込まない距離だ。

 その塔の先端部分が倒れ、バラバラに折れながら上層飛行場に降りかかるのが見えた。飛行甲板は衝撃に耐え切れずにへし折れ、応力で逆側の端が持ち上がるとともに真ん中で「へ」の字型に折れ曲がり、そこから2つに分離。まるでグライダーのように斜め下へ向かって落下しながら、慣性と空気抵抗によって小さな破片に砕かれていった。

 塔が崩れる、といえば倒れて横になるのが相場だとカイは思っていた。もちろん実際の光景を目にするのは初めてで、こんなに粉々になりながらゆっくりと落ちていくというのは想像とかなり違っていた。

 アイゼンは上層飛行場より上部を喪失した。塔本体が折れた切り口・・・のあたりでまだ小規模な崩落は続いていたが、もう大規模に崩れることはなさそうだった。


 旧文明の超技術で建設された塔も現代の稚拙な争いによって機能を失い、そして崩れ去る。人間が踏み入れることのできる領域は少しずつ減っていく。塔の崩落によって活動範囲を狭められないのは天使くらいだろう。

「要塞島なんて言っても案外脆いのね」クローディアは呟いた。

「……すまない、モル。形見の1つでも持って帰れればよかったんだけどな」

「いらないよ、そんなの」モルは答えた。「あの塔そのものがミルドの墓標なんだよ」


 プープリエはスフェンダムを追い抜いた。プープリエも速いが、スフェンダムも遅かった。ヴィカの回収のために減速しているようだ。左舷側に戻るとタールベルグのシルエットが見えた。アイゼンからならネーブルハイムよりタールベルグの方がよほど近い。でも今はネーブルハイムに戻らなければならない。カイはドアに背中をつけて腰を下ろし、少しの間目を瞑った。緊張が解けてきたのかもしれない。こめかみに鈍い痛みを感じ始めていた。

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