ウイング・ディファレンス
浴場は居住区画のひとつ上の階にあって広い脱衣所と温水のプールがあり、壁にシャワーのコンパートメントがずらりと並んでいた。床も壁も黒いタイルで覆われ、高い天井は上の階層を支える梁の形に切り欠かれていた。間に合わせで造ったという感じは全然なくて、それこそきちんとデザイナーがついて設計したのだろう。格納庫や体育館にも少しその気配はあったけど、浴場は顕著だった。
景色を眺めていると奥のコンパートメントから若い女が3人連れ立って歩いてきた。
上がるところらしい。クローディアの翼に気づくと小声でキャッキャと騒ぎ立てながら近寄ってきた。
「ねえ天使ちゃん」真ん中の1人が訊いた。短い黒髪だった。「ちょっと羽を触ってもいい?」
「いいよ」クローディアはできるだけ早く答えた。
こういう輩は返事をする前に触ってくることがままある。自分の質問を質問と思っていないのだ。
先を越されるのは癪だった。
女はしばらく順目に撫でたあと、雨覆い羽根のところにまさぐるように指を立てた。あまり気持ちのいいやり方ではなかった。
ラウラの撫で方を思い出したけど、あれとはかなり違っていた。もっと相手を尊重していない感じだった。
「すごい。滑らかで、それでいてふわふわしてるのね」
そして女はついでのように髪を撫でた。他の2人は珍しい生き物でも見るみたいに遠巻きに見守っていた。
「髪も綺麗」
クローディアはかなり我慢した。
「コラッ、髪はいいって言ってないだろ、髪は」モルが痺れを切らして代わりに怒鳴った。その声は浴場の中に響き渡った。
「何よ、嫌なら本人がそう言えばいいでしょ?」女はそう言ったもののとりあえず手は離した。
「いいよモル、今はフレンドリーにしてあげなきゃいけないんだ。居候させてもらってるんだから」クローディアは言った。
「なッ……」モルは勢い余って声を漏らした。
短髪の女はクローディアの口から理性的な言葉が出たのがかなり意外な様子だった。
「いま二種配置がかかってるんだけど、それってあなたを守るためなのよね?」
第二種戦闘配置というのはアラート態勢の一つ上だ。兵器は全て実弾搭載、戦闘員は常に居場所を示し、飲酒は禁じなければならない。いつかはわからないが近々必ず敵が来る、という状態だ。
さらに上、第一種になると非番でも就寝中でも叩き起こされ、全員が持ち場について敵を待ち構える。敵が確かにそこにいる状態、引き金に指をかけた状態だ。
「私を狙ってる天使をやっつけるためだって聞いてるけど」クローディアは言い返した。「あなたたち、仕事は?」
「パイロット。ファイター・パイロット」
「アネモスに乗るの? じゃあ敵が来たら真っ先に守ってくれるのね」
「アラートの番ならね」
「頼むわね。くれぐれも命を落とさないように」クローディアは目を細めて言った。皮肉だった。
短髪の女はいささかバツが悪そうに踵を返して行ってしまった。
クローディアも足早にツカツカ歩いてコンパートメントの短い扉をバタンと閉めた。
「ああ! ヤなヤツ! ヤなヤツ! だからエトルキア軍ってヤなのよ」
「大丈夫?」モルは隣のコンパートメントに入って顔を覗かせた。
「いいわよ。どうせすぐ洗うんだから」
「うわ……」
「あ、ごめん。べつに私は人間を卑下してるわけじゃなくて……」
「あんなにヤなヤツもいるもんだね」
「天使のことをネコチャンと同じくらいにしか思ってないのよ。まったく」クローディアはハンドルを捻れるだけ捻って勢い全開のシャワーを浴びた。細かい水滴があたりに飛び散った。「でも、さっきはありがとう。擁護してくれて」
「だいぶ言っちゃったけど後ろから撃たれたりしないかな……」
「撃たないよ。彼女たちはたぶん実戦を知らない。本当に命を賭けたことのある人間ならあんな無謀な物言いはしないもの」
「無謀な?」
「後ろから撃たれたりしないかって、まともならそう思うでしょ? あんなの戦力としてアテにならないわよ」
クローディアはさんざん貶しながら強いシャワーを浴びて気持を鎮めようとした。
そう、エトルキアにはああいった輩がいるのだ。きっとヴィカのように接してくれる人間は珍しい。
そこでクローディアは気づいた。メルダースのことだ。そういえば彼は天使に対してやけに恭しい態度だった。
ヴィカが近隣の要塞島の中からこのネーブルハイムを選んだのは彼がいるからなのか。私の居心地が少しでもよくなるようにここへ連れてきてくれたんだ。
クローディアは心の中の熱が一気に冷めるのを感じた。
シャワーを止めてシャンプーを手に取った。
時間帯がちょうど狭間らしく、他には誰もいなかった。ネーブルハイムの人口は軽く千人を超えるだろうし、その半分くらいは女のはずだ。そう考えると不思議だった。
「天使っていうのも色々と面倒くさいのね」モルが言った。
「まあね」
「クローディアは人間になりたいと思ったことはないの?」
「……羽の色は気にしてきたけど、そうね、思ってもみなかった」
「何の道具も使わずに空を飛べるって、いいなあって思ったよ。生まれつきその能力を約束されてるって」
「骨のつき方とか、体の構造から違うんだって。アルルが言ってたわ」
「骨のつき方?」
骨格の違いはX線写真を撮った時にアルルも言っていたし、ベイロンにいる間にギグリからも色々と聞いていた。
「同じくらいの体格の人間と天使を比べると、天使の方が軽いんだって。翼の分を差し引かなくても、天使の方が軽いの。それは骨そのものが軽くできているからなの。同じ太さでも、天使の骨の方が軽いってこと」
「骨密度とかいうやつ?」
「そう。鳥の骨が軽くできてるっていうけど、そんな感じなのかな」
「人間より天使の方が骨が折れやすいってことなのかな」
「そう。でも、人間ほど頑丈でなくてもいい骨だってあるでしょう。例えば人間の足って長い距離を歩いたり、どこかから飛び降りたりする時のために頑丈にできているけど、天使ならそんなに長距離を歩く必要はないし、高い所から飛び降りるなら翼で勢いを殺せばいい」
「確かに。でも、骨格が違うって、何より翼のことじゃないの?」
「そう。翼がある。そして翼を動かすための骨がある。人間だと、肩から下、背骨と肋骨のあたりって他には何もないけど、天使はそこに翼を動かすための骨があるの。動きの支点になる肩甲骨みたいなものがあって、左右の翼を連動させるための鎖骨のようなものがあって、羽ばたくための筋肉がくっつくために胸骨の下のところが広がっているんだって」
「胸骨って、この胸の前の真ん中のところ?」
「そう。でね、骨が多いから、人間に比べると比較的体が硬いんだって」
「ねえ、クローディア、正直に言ってもいい?」
「何?」
「それがどんなものなんだろうって、私、今、とっても触ってみたい気持ちなの」
クローディアは吹き出した。もっと深刻な話かと思った。
「悔しいけど、あいつらと同じ気持ちなんだ」
確かに同じ頼みなのに、モルの言い方にはほとんど嫌味を感じなかった。同じ言葉でも、その後ろに隠れているものが軽蔑なのか、それとも尊敬なのかによって感触が変わるものなのかもしれない。
「いいよ、触ってみても」
「ほんと? ――じゃあ、こっちに来て。私がそっちへ行くと、なんかちょっと図々しいっていうか、あいつらみたいで嫌だから」
クローディアは体につけていた泡を軽く落とした。パーティションを回ってモルに背中を向け、翼をすぼめたままゆっくりと羽ばたいた。
「翼の付け根の下が肩甲骨みたいに動くでしょ。触ってごらん」
クローディアは背中にモルの両手が触れるのを感じた。
「ほんとだ。腕がもう1本あるみたいじゃん。……いや、1本っていうか、1セット?」
「鳥の翼って、人間でいうところの腕でしょう? 天使の翼も構造的には鳥の翼みたいなものだし、腕と翼が両方あるってことは、構造的には、腕が2セットあるって言っても間違いではないんだ」
「筋肉があるのもわかるね」
モルの手は鳩尾のラインにあった。
「生半可な力では飛べないから、ここの筋肉はすごく強いの。人間はここに筋肉はないんだって」
「だって、ていうか、ないよ」モルはそう言ってクローディアの手を自分の脇腹に導いた。確かに肋骨の下には筋肉はなかった。皮膚の下にすぐ骨がある感じだ。そんなことより思いのほか引き締まったスリムな腰回りだった。
「それにしても、細いね」とモル。
「それも、そう。できるだけ軽い方が翼の負荷が少ないから、体も細いんだって」
「ふうん」モルはとても感慨深そうに息をついた。「普通に一緒に生活できるのに、すごく違うんだね」
「全然別の生き物って感じがする?」
「する。するし、だとしたら、逆に、構造以外のところでどうしてこんなに似ているんだろう、って思う。翼のある人間が天使で、翼のない天使が人間で、それくらいのものに思えるのは」
「エトルキアでは旧文明の技術で人間をもとに作り出されたのが天使だって言われているんでしょ?」
「そんなの迷信だよ」
モルが手を離したのでクローディアはパーティションを回って自分のスペースに戻った。お湯を止めていたので体が冷えてきていた。
「人間でも、天使でも、クローディアだよ」
人間に生まれたかったと思ったことはないの、か。
天使として生きてきた自分の生き方を否定できるのだろうか。
わからない。生きてこられなかったんじゃないか、という印象が強すぎて上手く考えることができなかった。
結局、私にだって差別意識はあるのだろう。クローディアはそう思った。モルの方がずっと心が広い。
「私さ、飛行機バカにはうんざりしてるけど、でも、飛行機が嫌いってわけじゃないんだ。見てるとすがすがしい感じがするから。でもさ、クローディアを見てさ、天使の方がずっとすごいって思ったよ。生身で飛べるんだ、って。だから、あのジェットテールはあくまで道具だけど、でも頑張るよ。クローディアくらい上手く飛べるようになる。コツは掴めたの。きっとすぐに追いつけるよ」
「ありがとう、モル」クローディアは答えた。モルのポジティブに救われたような気がした。タールベルグの外へ目を向けているところはカイと似ているかもしれない。でもこの子はもっと根本的にポジティブなのだ。それは決して悪いものではなかった。
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