フォートレス・キリング

 キアラは袖を捲って腕時計を見た。

 午後10時。

 そろそろかな。

 フォート・アイゼンの上層無線室を出て甲板を洗う冷たい風に身を晒した。高度は優に5000mを超える。高度が高いほど日の入りは遅くなるとはいえ、太陽光はすでに全天から排除されていた。気温は零下10℃。防寒着なしで凍えずにいられるのは天使の特権だ。

 両手で髪を後ろに束ね、首を傾げて耳を澄ました。

 甲板が風を切るかすかな震えの向こうに重い羽音が聞こえてくる。

 キアラは音の方角に目を凝らした。

 体も翼も真っ黒な羽毛で覆われたネロをこの闇の中で見つけるのは至難の業だ。

 フラムスフィア上層の雲の中で光る雷をバックにかろうじてシルエットが見えた。雲より輪郭のはっきりした動きの速い影。

 ネロは1000mほど下方からぐるぐると上昇してきて甲板の端に掴まるようにして着地した。

 キアラはネロがするのを待って干し肉を投げ上げた。

「主よ、憐れな生き物に聖なる糧をお与えください。アーメン」

 ネロは暗順応した大きな瞳で干し肉を捉え、嘴を開いて空中で受け止めた。

「お疲れさま。ジャヒアルが降りたのは本当にネーブルハイムだった?」キアラは訊いた。

 ネロは干し肉を飲み込んでから、はっきりと頷いた。

「よし、いい子だ。20分休憩したら行こう」

 ネロは「ピャ、ピャ、ピャ」と高い声で鳴いた。それから顎を甲板につけた。まるでキアラに乗れと言っているようだった。

「お前は賢いね。今出ればゆっくり飛んでもちょうど真夜中に仕掛けられる」キアラはそう答えてネロの首筋に掴まり、うなじのあたりに座った。

 相手は要塞島だ。ハリネズミのように全身に武器を備え、遠距離ではミサイル、中距離では艦砲、近距離では高角砲や機銃を撃ってくる。何もド親切に真っ昼間に正面から突っかかてやる必要はない。夜なら空軍が即座に動かせる戦力も限られるだろう。

「行こう」

 キアラが声をかけるとネロは翼を広げ、バックフリップのように背面飛びして空中に踊り出た。落下の勢いをスピードに変え、滑降のように少しずつ高度を下げながら飛んでいく。

 時速200㎞程度だが1本1本が盾のように大きなネロの羽毛の間に体を埋めていればさほどの風圧は感じなかった。

 それに羽根の間に潜り込んで地肌に抱きつけばネロの体温を直に感じることができた。血管の脈動だって手のひらに感じた。

 キアラはその感触が好きだった。

 飛んでいる間ならいくら抱きついたところで舐められたり咥えられたりすることもない。



 キアラが無線室にいたのはもちろん黒羽――クローディアの行方を追うためだ。アイゼンの施設は完全に機能停止していたが、奇跡を使って電力を供給すれば部分的には復活させることができた。アンテナや受信機は思いのほか電気を食うのでキアラのキャパシティでは長距離用の長波帯と中波帯の受信機を生かしておくのがほぼほぼ限界のところだった。部屋の明かりだって我慢していたくらいだ。

 それにヘッドフォンをして暗い部屋の中でじっとしているのはキアラのしょうにも合わなかった。爪を磨いてマニキュアを塗ったり剥がしたりを延々と繰り返していた。

 でも成果はあった。ベイロンとネーブルハイムの交信を捕まえたのだ。エトルキア軍の暗号規格がほぼ日々更新されていくのでアイゼンの古い設備では音声に起こすことはできなかったけど、生の信号には国ごとに特徴があって、何となく聞き分けることができた。ルフト方面から飛んでくるエトルキア方式の暗号無線はそれだけだった。

 もしやと思って甲板に出て空を見張った。アイゼン回廊を飛ぶのはほとんど民間の貨物機だった。ルフトの軍用機などまず入ってこない。だからジャヒアルは目立った。

 ルフトの西部でジャヒアルを持っているのはベイロンだけだし、ベイロンの状況、ベイロンとクローディアの関係を考えれば、クローディアが絡んでいるに違いない。

 キアラはジャヒアルが飛んでいく方角を確かめ、ネロにあとを追わせるとともに地図でその方角にある島を探した。風向きなども考慮すると最もそれらしいのがネーブルハイムだった。



 ネロの背中に乗って2時間弱でネーブルハイム空域に辿り着いた。50㎞より内側はいくらネロでも要塞のレーダーに捕えられるおそれがあった。フラムの雲にべったりと張りつくように飛んだ。

 そして残り20㎞というところで探知されたらしい。

 上層の対空ミサイル陣地から白煙が上がるのが見えた。

 キアラは体を起こした。

「ネロ、それじゃあ正面は頼むね。ヤバくなったらアイゼンに帰りな。私は大丈夫だから」

 キアラはそう言ってネロから飛び降り、フラムスフィア表層の雲を突き抜けた。雲底高度で翼を広げ、小刻みに羽ばたいてネーブルハイムの塔基部を目指した。

 夜闇の中では塔は巨大な壁のように見える。

 キアラが塔の外壁に触れるまで何ら邪魔は入らなかった。空軍の連中はぐっすり眠っているみたいだ。

 キアラは羽ばたきで体を外壁に押しつけながら足で外壁を蹴って駆け上がった。

 フラムスフィアの表層高度に突き出した避雷針の間を抜け雲の上に出た。

 重い砲撃の音が響いてきた。

 東の空に術式陣フォーミュラムの赤い発光が見えた。

 ネロが上手く注意を引いているようだ。

 要塞の各所に設置された15cm速射砲の砲弾がかすかな軌跡を残しながらその1点に向かって走っていく。

 しかし術式陣の表面で信管が作動して炸裂、破片が降りかかるが、ネロの羽根はその程度では貫けない。ネロの羽ばたきが爆炎をかき消す。

 ネロは塔から距離を保ちながら反時計回りに飛んだ。

 キアラはその間に甲板の隙間を縫って上層を目指した。甲板の端々では速射砲の砲塔が長い砲身を振り回しながら巨大な薬莢を吐き出していた。20㎜対空ガトリング砲が目の前を掠めるキアラを追って照準レーダーのアンテナを動かした。しかし大きな鳥程度のレーダー反射断面しかなく、敵味方識別信号装置も持たない天使を即座に敵と判別できるわけはない。まだ自律制御だな、とキアラは察した。

 奇襲は成功らしい。

 キアラは手当たり次第に速射砲や40㎜高角砲の砲身をぶった切りながら上に進んだ。少しでもネロを楽にしてやるためだ。

 剃刀カルテルス

 それがキアラの奇跡だった。

 右手の人差し指と中指を揃えて立て、その延長上に60㎝ほどの薄い刀身を形成する。刀身の腹側は極めて固く、かつ流動性があり、術式により常に代謝しているので折れることはない。

 直径50㎝ほどはありそうな速射砲の砲身の根本、駐退機に刀身を押し当て、撫でるように軽く振り抜いた。

 重さはほとんどない。刀身の刃先が対象を分子レベルで引き裂いていく。

 すっぱりと綺麗に切り落とされた砲身の先の部分は甲板に突き刺さるように落下、異常に短くなった砲身から撃ち出された次弾は余った推進火薬の爆発を周囲にまき散らしながらライフリングによる回転を受けずに無回転で飛び出し、爆発に揉まれて縦回転、フォークボールのように落ちていった。

 キアラはすでに術式を解除していた。刀身を現すのは切る時だけだ。奇跡は発光する。あえて目立つ必要もない。

 しかしずんずん高度を上げるにしたがって個人用の銃架も撃ってくるようになった。兵士が1人で持ち運ぶ手持ちの機関砲を引っかけるだけのシンプルなものだが、天使にとってはむしろ人間が直接操作する銃器の方が厄介だった。

 とにかく目的は黒羽――クローディアだ。

 居場所はわからないが上を取っておけば不利になることはない。

 キアラは上層飛行場に辿り着いて滑走路の真ん前に出た。

 ちょうど目の前でアネモスが滑走路に入ってきた。ネロの迎撃に向かうつもりだ。

 エンジンパワーを上げたのがこちらに向けた機首の沈み込みでわかった。

 コクピットの中が少し明るいのだろう、キアラには気づいていないようだった。

 アネモスは向かって加速してきた。

 キアラも走り込んだ。

 前足に取り付けた前照灯の光がもろに目に入った。

 目を細めた。

 相手もそれで気づいたようだ。慌てて機首を上げ、遥か頭上に機関砲の曳光弾をばら撒いた。

 狙ったというよりは周りに警戒を促す意味だろう。

「遅い!」

 キアラは親指で小指を押さえ、右手の人差し指から薬指までを立てた。

 さっきより大きな刀身が現れた。長さは150㎝あまり。

 飛び上がり、アネモスの前脚を切り落として腹の下に剃刀を突き立てる。

 損傷した燃料系にエンジンから火が移り、機体は瞬く間に爆発した。その爆発に押し出されるようにして射出座席が上空に飛び出し、パイロットはジェットパックで弧を描きながら降下していった。

 投棄された座席が甲板に落ちてきてぺしゃんこにひしゃげた。

 機体の残骸は勢いのままに島の外へ飛び出し、フラムスフィアに向かって落ちていった。

 世話もない。要塞といってもこんなものか。

 だがアネモスは下の飛行場からも発進していた。

 ネロはアネモスに纏わりつかれながら依然旋回を続けていた。アネモスの機銃はネロの術式陣を貫通しない。ネロにはアネモスを追うほどのスピードがない。

 一見決着のつかない戦いだった。しかしネロが口を開けた。

 嘴の先に今までとは模様の違う術式陣が現れた。その発光が強まったかと思うと1条の赤い光が夜空に走った。

 その近くにいた1機のアネモスはとっさに回避機動をとった。だが尾翼が掠った。反復攻撃をやめて煙を引きながら飛び去っていった。

 ネロは要塞に向かって立て続けにビームを撃った。焦点は下層の飛行場から逆裂きに中層に向かって走った。

 滑走路の表面は溶接痕のように抉れ、速射砲や高角砲の砲塔は腐った果物のように崩れていく。


 殺意。

 キアラは2本指の剃刀を顔の前で構え、飛んできた銃弾を受け止めた。

 銃弾?

 それにしては重かった。

 キアラはその運動エネルギーに弾かれて後ろに1回転した。

 クローディアだ。黒い翼の天使が対空銃座の陰で甲板に伏せてライフルを構えていた。

 2発目。今度は見切って弾丸を真っ二つに切った。

 弾速は速いけど銃口がしっかりとこちらを捉えているので構えていれば食らうおそれはない。

「当たると思ってんの?」キアラは言った。

「モノは試しって言うでしょ?」

 キアラはクローディアが言い終わるのを待たずに右足を前に踏み込んで構え、翼を羽ばたかせて突進した。

 クローディアはライフルを捨てて銃座の逆側へ回り込んだ。

 なぜ奇跡を使わない?

 使えなくなったのか?

 次に現れた時、クローディアは両手に拳銃を構えていた。

 キアラはのけぞりながら剃刀を回して弾を弾き、下がるよりも突っ込む方がいいと判断して踏み込んだ。

「なんで奇跡使わないのよ。持ってるんでしょ、すごいの」

「あなたなんか銃で十分」

「見せなさいよ!」

 剃刀の切っ先が拳銃に触れる一歩手前でクローディアは体を沈めて躱し、そのまま右脇の下に抜けて飛び立った。

 瞬間的な素早さなら自分の方が上だが、クローディアの身のこなしにはあまりに無駄がない、とキアラは思った。

 そんな甘い回避、刀身の軌道を少し変えてやれば当たるぞ、と思っても、あと少しのところで空振りしてしまう。本当にぎりぎりの間合いをわかって躱しているのだ。

「その程度? ギグリの方がよほどきわどかったわよ」

 キアラが振り返った時にはクローディアはもう100mも高い所でホバリングしていた。羽ばたきの風圧を感じたのはそれよりも後のことだった。



 

 

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