ブラッディ・ソード
背後にバリバリと割れるようなエンジン音が迫り、カイのプロストレーターが急降下の最下点でグリフォンを掠めて鋭く上昇していった。とても人が乗るものとは思えないようなターン、半径の小さな旋回だった。
クローディアは全力で羽ばたいて加速を続けた。グリフォンは圧倒的なパワーで追い上げ、嘴を広げて吠えたり前足の長い鉤爪を伸ばしたりしてきたけど、その度にカイが邪魔をして攻撃を防いでくれた。
グリフォンは何度かカイの方に向かっていこうとした。でもプロストレーターがスピードを保っているとグリフォンでも追いつけないようだった。
クローディアは上層の甲板に立つ天使に向かっていった。
手を伸ばして突っ込む。
天使は受けて立つように腕を伸ばし、人差し指をクローディアに向けた。
クローディアはその指先に殺気を感じた。
翼を畳んでロール。
天使の人差し指の先からレーザーのような赤い光が放たれた。それはライフルの銃弾よりも速いスピードで大気を貫き、クローディアの脇腹の下を通り抜けていった。
クローディアは回避姿勢のまま天使の横を通り過ぎて甲板に着地、スライディングで勢いを殺した。
「あなた、サンバレノの差し金?」クローディアは滑りながら訊いた。
「まさか、あんたの方から来てくれるなんて思わなかった」
「私が狙いなのね」
「私はキアラ。
「聞いたことない」
「おまえを殺す天使の名前よ。憶えておいて」
キアラは聖職者のようなダブダブの黒いローブで体を覆っていた。小柄で、淡いピンク色の長い髪をしていた。
使う奇跡はさっきのレーザーみたいなやつか。他にはどんな技を持っているんだろう。クローディアは身構えた。
グリフォンが追いついてキアラの背後に舞い降りた。甲板の端が崩れ、グリフォンは足場が安定するまで何度かその場で羽ばたいた。
クローディアは音を聞いた。飛行機のエンジン音はカイのプロストレーターだけだ。他の飛行機はもう逃げたらしい。空には柱のような濃密な雲が立ち上がっているだけだった。
もう逃げてもよさそうだ。なんとかプロストレーターに乗り込めればそのまま飛行機の足で逃げ切れるだろう。
キアラが左足を前に出して腰を低くした。右手を斜めに振り出し、人差し指と中指を揃えて伸ばした。翼を広げ、羽根を揃えるようにばさりと一度羽ばたいた。畳んでいる時は白く見えたが、広げると内側は赤みが強かった。小ぶりな翼だ。自分より小さいだろう。ギグリと比べたら翼長は半分くらいかもしれない。
その場でばさばさと小刻みに羽ばたき始める。まるで勢いを溜めているようだった。
そしてカッと目を開くとすさまじい勢いとスピードで突進してきた。そして右手の指先から先ほどより太いレーザー光が噴き出し、刀身の形状を成した。血のような赤い刀だった。
キアラはそれを突きの形に構え、複雑に振り変えた。刃先を立てると刀身が極めて薄いのがわかった。
クローディアは軽く前方に走りながらステップを踏み、間合いの直前に左に飛んでキアラの背中側に躱した。
微妙な回避だった。わずかに膨らんで刀身に触れたワンピースが腰のあたりで切られた。
それでもかまわず前に走り、甲板の縁を目指した。立ちふさがるように横からグリフォンが突っ込んでくる。
カイのプロストレーターが再び急降下でグリフォンの気を引き、翼で目の前を遮った。
今度は上昇せずそのまま甲板の下へ抜けていく。
クローディアは空中に飛び出した。
真下にプロストレーターが見えた。
後ろではキアラが突進から切り返し、再びダッシュで追いかけてこようとしていた。
大丈夫、まだ距離がある。
クローディアは翼を閉じて重力落下、宙返りして速度を殺したプロストレーターが再び真下に来たところで開いたキャノピーの中に突っ込んだ。カイの膝がクッションになって衝撃を受け止めた。
クローディアはすぐに体を小さくしてキャノピーを閉めた。プロストレーターは降下加速でぐんぐんスピードを増していく。
真後ろに迫ったグリフォンが鉤爪をひと振りしたが、危うく尾翼には届かなかった。
風圧が機体を揺さぶった。
キアラがグリフォンに飛び乗って追いかけてこようとしているのが見えたが、もう追いつかれることはなさそうだった。
クローディアが後ろの席に潜り込むとカイは青い顔をして股間を押さえていた。
「え、大丈夫?」
「う、うん。大丈夫……」
クローディアは思い返した。もしかしたら受け身を取る時に肘でキンタマを潰してしまったのかもしれない。それがどんな痛みなのかはわからないけど、想像するとちょっと寒い感じがした。
「えっと、その、ごめん」
「大丈夫……」
カイは時々機体を左右に振って後ろを確かめた。その時クローディアも風防の枠についたバックミラーを注意深く見た。ほとんど小さな点のようになったグリフォンの翼が映るのがわかった。
もう大丈夫だ。
「北へ飛んで。方角を騙しましょう」
「ああ」カイは返事をして右旋回した。方位計が北北西に回った。
クローディアはカイの背中からジャンパーを引き抜いて脚の間に挟んだ。ハーネスを締める前にワンピースの裾を見ると、風圧がかかったせいか裂け目が広がって周りがほつれていた。
「ああ、なによ。まだ1回しか着てないのに!」
「何?」
「ワンピース。裾を切られちゃったの」
カイは振り返ってワンピースを確認した。
クローディアは一度裂け目の部分を見やすいように差し出したが、その部分だけ腰から太腿にかけて素肌が丸見えになっていることに思い当ってすぐにひっこめた。
「だけど、あの天使かなり動きが素早かったな」カイは正面に向き直って言った。
「キアラ、といったわ。近接向きの奇跡を使っていた」
「刃物みたいに見えたけど」
「そう、それが奇跡だった。奇跡が使えたら苦戦するレベルじゃなかっただろうけど」
「……ごめん」カイは謝った。
「それにしたってあのオマケは厄介だわ」
「そうだよ、グリフォンっていったい何なんだ」
クローディアは説明する前に少しだけ頭の中を整理した。
「サンバレノでクレアトゥーラと呼ばれる人造生物の一種」
「人造?」
「旧文明のバイオ技術で生み出されたの。でもサンバレノ神話はそれを天使に使役されるものとして神が与えたものだと説いている。だから被造物。クレアトゥーラ。あの国はグリフォンだとか、ああいったものを軍に組み込んで、飼育して、戦力や輸送力として使っているの」
「飛行機なら引き離せるけど、君が生身だとかなり脅威になる」
「そう。――あ、あの人大丈夫かな。グリフォンに食べられてた人」
「食べられてないよ。ちゃんと脱出してたし、今頃隙を見て誰かが着陸して救助されてるよ。連中は普段からエトルキア軍に追い回されてるんだ。あのくらいでへこたれたりしないよ」
「それならいいんだけど」クローディアはコクピットと胴体の中を見回した。「そういえば、レース機というのはジェットパックを積まないものなの?」
ベイロンの戦闘機がタールベルグに攻めてきた時、撃墜されたエトルキア機のパイロットたちは脱出したあと背中につけたジェットパックでタールベルグに戻ろうとしていた。
「あれも結構重いんだよ。パラシュートだって軽くはないけど、これなら座布団代わりになるし、レース機が不調になるとしたらたいていは全力で飛んでいる時、つまり島の近くにいる時だからね。それに、レース機は軽いし揚力もあるから、エンジンが止まってもわりと長く滑空できるんだ。パワーで飛んでる戦闘機みたいにエンスト即真っ逆さまなんてことはないんだ」
「それでも島から離れたところで脱出しなければならなくなったらどうするの?」
クローディアは不安だった。カイがもしグリフォンに叩き落とされていたらどうなっていたのだろう?
「その時は、もう、覚悟するしかないね。一応小さいボンベはあるけど、そんなの何の足しにもならない。レースでトンネルに突っ込んでいく俺たちがそのくらいの度胸もないんじゃやっていられないよ」
「あなたたちって本当に死と仲良しなのね」
「そうだろうね」カイは少しだけ寂しそうに答えた。それから少し間を置いてクローディアの話が終わったのを確かめた。「ねえ、でも、グリフォンっていうのは人を食うのかな」
カイは気づいてしまったようだった。クローディアはもう少し早くそのことに察しをつけていたけど、カイに言うのはなんだか躊躇ってしまってダメだった。
「そういうこともあるのかもしれない。ごめん、さっきあいつに直接訊けばよかったのに、余裕なくて」
「いいよ」
「サンバレノでは人間をグリフォンの餌にすることもあるんだって、聞いたことがある。だから、そうね、ミルドの体も、あいつが食べちゃったのかもしれない」
「そうか。もしそうなら、あいつは敵だ」
クローディアはカイの肩に手を置いた。慰めだった。
「どうせ死んじまったんだから体なんかどうでもいいって思うかもしれない。そうだよ。でも、俺はモルのために持ち帰ってやりたかったんだ。誰かが死んだ証拠というのはさ、生きている人間がそれを受け入れるために必要なんだよ」
「あいつら、きっとこんなことじゃ諦めない。カイはどうしたい?」
「クローディアは今までもサンバレノの追手から逃れてきたんだよね?」
「そうね。逃れてきたというか――」
「彼らは諦めたのか」
「そう。殺したの。それが一番確実な方法だから」
短い沈黙。
カイはクローディアの言葉を受け止めていた。
それとも想像していたのかもしれない。クローディアが今まで何人の天使を殺してきたのか。どんなふうに殺してきたのか。
「でももし生きたまま捕えることができたら、君が奇跡を取り戻す助けになるかもしれない。血液型さえマッチすれば――」カイは言った。
「だめ。それはだめ。きっとそんな皮算用をしながら向き合えるような相手じゃない」
「……ごめん。いいんだ。言ってみただけだ」
「相手に慈悲はかけられない。あいつらがミルドにしたかもしれないことを、あなたもしなければならないかもしれない」
「ああ。君と一緒にいるということはその険しい生き方を共有するということなんだ。それはいいんだ。ヴィカに話してみよう。ベイロンの時とは事情が違うだろうけど、武器を貸してもらえるかもしれない」
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