ジャイアント・グリフォン

 翌朝のタールベルグは深く冷たい霧に覆われていた。カイは寝袋のようなジャンパーに袖を通して家の外に出た。伸びをすると肩が軽かった。そうか、自分のベッドで眠ったからだ。それはとても久しぶりのことのように思えた。

 ガレージの前にナイブスがとまっていた。脚が無傷な分、遠目にはしっかりして見えるが、近づけば外板は全身ベコベコだし、機首はひしゃげてめくれあがっていた。フレームも歪んでいるだろう。それを直そうとすれば一からくみ上げるのとほとんど変わらない。

 霧の切れ端がナイブスの手前まで入り込んできた。銀色の機体は今にも白い霧の中に溶け込んでしまいそうだった。

 数羽のカラスが上の甲板の縁にとまって喉を膨らませてカアカアと鳴いていた。


 朝食のあとカイはクローディアを連れて中層へ上った。

 クローディアはアルルの赤いジャンパーの下にベイロンから持ち帰ったワインレッドのフレアのワンピースを着ていた。

 スクラップの山は普段と変わりない。週末の中層は飛行機やモノの出入りもなく、工場も止まっていて物静かだった。それでもやや活気が感じられるのは飛行場の駐機場にエトルキアの輸送機や戦闘機が数機でも並んでいるからだろう。

 空軍は古い空港の建物に事務所を置いていた。歩いてくるのが窓からでも見えたのか、ヴィカはロビーのベンチで待っていた。軍制式の作業着姿で髪をアップにしていた。とても魔術の使い手とは思えない格好だった。一瞬彼女だと気づかずに通り過ぎそうになってしまったくらいだ。

「いやいや、私に会いに来たと思って下りてきたのに、ずいぶん恥ずかしい思いをするところだったじゃないか」

 ヴィカの挨拶でカイは立ち止まった。

「その格好だと普通の軍人みたいですよ」

「私だって普通の軍人だよ」ヴィカはフフンと鼻で笑った。

「あなたに訊きたいことがあるんですが」

「まあ、座りなよ」ヴィカはベンチの横をポンと叩いた。

 カイとクローディアは並んで座った。

「ベイロンに進攻する時、エトルキア軍はフォート・アイゼンにも立ち寄りましたか」カイは訊いた。

「駐屯したか、という意味か?」とヴィカは訊いて脚を組み直した。

「はい。一時的に、短期でも」

「いや、不時着地には指定していたが、実際には1機も降りてないはずだ」

「じゃあ整備は全くしていない?」

「ああ。でもどうして?」

「友達の遺体なんですが、軍が回収してくれたのかもしれないと思って」

「行方がわからないのか?」

「はい」

「そうか、一応工兵部隊の方に問い合わせてみてもいいが、奴ら――飛行機仲間には訊いたのか」

「これからです」

「そうか。行くなら気をつけろよ。あまりよくない予感がしてきた」


 カイとクローディアは駐機場に出てプロストレーターに燃料を入れた。スタンドに金を入れてドラム缶で運んでいくシステムだ。飛行機というのは本来こうやって整備から飛行準備まですべて一人でやらなければいけないものだ。ぞろぞろとメカニックを引き連れていくひと握りのトップレーサーとは事情が違う。

 燃料を翼のタンクに流し込む間、クローディアは翼の縁に座ってポンプを回しながら浮かない顔をしていた。

「ヴィカが言った予感というの、私にもわかる気がするのよ」彼女は言った。

「もしかすると俺たちが気づいていないだけで誰かがアイゼンに出入りしていて、それがちょうどあのあたりなのか……」カイは首を振った。「いや、それはないか。長い間ほったらかしにされたような感じだったし」

 カイはエンジンカバーを開けてオイルの残りやプラグの汚れを確かめていた。

「それは人間なのかしら」クローディアは言った。

「え?」

「あなたとぶつかる前、私はあの島に2日、ひと晩泊まっていたの。私の追手がその痕跡に気づいたのかもしれないとは思わない?」

「だって、君を追っていたのはフェアチャイルドとエトルキアだけじゃ……。そうか、サンバレノも」

「まあね、国を挙げてというんじゃないのよ。時々、功名を狙った天使が狩りにくることがあるの。いくら天使でもフラムスフィアの底では上空ほど動きが取れないし、隠れるところも多かったけど、一度雲の上に出ちゃうとずっと見つかりやすくなるから」

「『誰か』がいるとすれば、それは人間ではなくて天使かもしれない、ってことか。そうか、それに君はベイロンのテレビにも映った」

「そう」

「でもミルドが消えたことと君の追手と、その2つがどう結びつくんだろう」

「……ううん、わからない」

 クローディアは何かイメージを振り払うように首を振った。

「でも不可解なことが起こると、何か危ない出来事の前兆なんじゃないかって、そんな気がしちゃうの」

 カイはエンジンカバーを閉めて一息ついた。クローディアはポンプを回す手を止めて翼の前縁を強く握っていた。

 怯えているのだ。

「奇跡が使えない状態で天使とどれだけやれるのか」クローディアは言った。

「大丈夫だよ。君はあのギグリとやりあってちゃんと勝ったんだ」

 カイはそう言ったものの確信があるわけではなかった。奇跡のぶつかり合う戦闘を自分で体験したわけじゃない。クローディアが恐れているものの大きさをきちんとイメージできるはずがなかった。

 カイはタンクに差し込んだホースを外してドラム缶をスタンドに戻しに行った。


 離陸したあとのクローディアは比較的元気だった。後席から前の座席の方まで体を乗り出してレバーや計器の名前を確かめたり、キャノピーの隙間から流れ込む雲や霧の味を確かめたりしていた。

「ねえ、でもこんな時間に行ってみんな飛んでるの? いつもは夕方なんでしょ?」彼女が訊いた。

「うん。でもそれは平日の話だよ。休みなら飛んでるやつは朝から飛んでるんだ」

 やがてフォート・アイゼンのシルエットが大気の霞みの中からくっきりと現れ、次第に立体感を増してきた。蠅のように飛び回っているレース機も見え始めた。

 カイは受信機のダイヤルを回して普段仲間内で使っているバンドに合わせた。

 短いノイズのあと、男たちのエンジン・チューニング談義がすぐに聞こえてきた。ガヤガヤしたやかましい会話だ。

「なんだ、あの機体」誰かが言った。

「やあ、みんな。カイだよ。カイ・エバートだ」カイは自分で言った。

「お、有名人様のご登場だな」

「おい、昨日のやたらと強いエトルキアの将校、あれいったい何だったんだ」

「なに、別に悪い人じゃないよ」カイは答えた。

「お前がたらし込んだのか?」

「いや、俺の方が――」

「それ、やっぱりプロストレーターV2じゃないか」

「何?」

「よく見せてみろよ」

 みるみるうちに周りの飛行機たちが寄ってきてハトの群れのように秩序のない編隊を組んだ。ざっと10機はいるだろう。液冷、空冷、単座、複座、単発、双発。ベイロンレース向け以外の機体も混じっていた。彼らはプロストレーターの全身をくまなく見るために上、左、下、右と自然に回転して場所を代わっていた。まるで百鬼夜行のような景色だった。

 クローディアがシートの背中を叩いた。

「どうした?」カイはちょっと振り返った。近くに飛行機が固まっている状況でよそ見をするのは結構危ない。

「私は顔見せない方がいい?」

「その方が面倒くさくなさそうだ」カイは笑った。「そうだ、ちょっと身構えて」

 カイはスロットルを押し込んで機体を加速させた。

「あ、逃げるなよ」

 出し抜いてやろうと思ったが百鬼夜行も加速してきた。

 カイは横旋回からバレルロールのように回って操縦の下手なやつらを振り払った。

 あまり無理なGや横Gをかけないように抑えながら複雑に操縦桿を動かしてマニューバを続けた。

 抑えたのは後席のクローディアのためだったが、案外彼女は全然うろたえていなかった。そういえば彼女だって自分の翼でこれくらいのマニューバをやるのだろう。もっと鋭い動きだってするかもしれない。人間の女の子と同じだと思ったらいけない。

「なあ、訊きたいんだけど、誰かミルドを知らないか」カイは仲間に向かって訊いた。

「あいつの機体は落ちただろ」

「遺体だけが見つからないんだ」

「そう、俺もそう思った。なんだ、カイも知らないのか」1人が言った。「カイが知らないなら他のやつに訊いても無駄だろう――」


 にわかに空気が震えた。

 何だ?

 カイは咄嗟に機体を振って機体の上面をアイゼンに向けた。

 上層の一角からもうもうと砂煙が上がっていた。

 格納庫のシャッターが破壊され、飛び散った破片が煙を引いて落下していく。

 爆発?

 煙を突き抜けて何かが飛び出した。

 いや、飛行機か。

 その黒い影が翼を広げた。

 そう、その翼は生き物のしなやかさを備えていた。飛行機ではない。

 羽ばたきに合わせて煙が晴れ、鷲のような形の頭部が現れた。

 しかし――

 ――な、なんだあの大きさは?

 その嘴は何かを咥えていた。

 それは飛行機だった。模型などではない。人が乗るための飛行機――レース機の翼を軽々と咥えていた。

 そしてその生き物が顎に力を入れるとレース機の翼は紙くずのようにひしゃげて折れた。支えを失った胴体からパイロットが放り出され、コクピットのどこかに繋がれた作動索に引っ張られてパラシュートが開いた。

 パイロットはゆっくりと降りていく。その白いパラシュートさえ鷲の顔ほどの大きさしかない。

 やがて翼のはばたきに揉まれて煙が完全に晴れ、鷲の体が見えた。

 それは鳥類の体ではなかった。

 羽毛で覆われたライオンのような体つき、前足は鉤爪のついた猛禽の足、後ろ足はしなやかなライオンの足、背中からは大きな翼が生え、尾は長く、やわらかい柄の先に扇のようなものがついていた。

 しかし何よりおかしいのはその大きさだ。レース機を軽々咥えるということは全長にして20~30mはあるに違いなかった。

「グリフォン……」クローディアは横に顔を出してそう呟いたきり言葉を失っていた。

「グリフォン? あの生き物のことか」カイは訊いた。

 答えはない。

 グリフォンは目の前を横切るパラシュートには目もくれず、嘴に挟んだ残骸をペッと吐き落とし、島の周囲を飛び回るレース機に次々と目を移した。

「逃げろ!」誰かが叫んだ。阿鼻叫喚の無線の中でその声だけが鮮明に聞こえた。

 百鬼夜行のレース機たちがぱっと散って飛び去った。排気管の吐き出す炎のきらめきが視界に影を残した。

 グリフォンは一度下の甲板に降り立ち、膝を折って勢いをつけると再び飛び出してレース機の1機に狙いを定め、はばたきでスピードを増して突っ込んだ。

 狙われた1機は直前でクイックロールを打って失速気味に垂直降下、前足が翼端に当たって小さな破片が飛び散ったが、なんとか逃げ切った。

 カイはどうしていいかわからなかった。とにかくスロットルを押し込んでできる限りスピードをつけておいた。

「私を探してるんだ」クローディアはそう言ってキャノピー越しにどこかを指差した。

「なんで」カイはわけもわからず言い返した。

「あそこ」

「どこ?」

「あそこ」クローディアはカイの頭を掴んで目の横で指を差して見るべき方向を向けた。「あそこに天使がいる」

 そこ?

 ――確かにいた。

 上層の甲板の端に髪の長い少女が立っていた。その背中には白い翼が畳まれていた。彼女の長い黒服は風になびいていた。

「あのグリフォンはあいつの眷属なのよ」

「グリフォンって……?」

「あとで説明するから、キャノピー開けて。早く行かないと他の人もやられちゃう」クローディアは言いながら窮屈そうにジャンパーを脱いでカイの背中と背凭れの間にぐいぐい押し込んだ。

 カイは急上昇しながらエアブレーキを開いてプロストレーターを減速させた。

 キャノピーを後ろにスライドさせると、クローディアは足を先にしてカイの頭の上をすり抜けて外に飛び出し、キャノピーの枠を蹴って離脱した。

 フェアチャイルドの城に突っ込んだ時よりスピードも遅いし、キャノピーの開口も大きい。クローディアも少し手慣れていた。かなりスムーズな発進だった。


 クローディアが垂直降下で姿勢を安定させて翼を広げると、グリフォンは即座にそれを捉えて目を向けた。くっきりとした黄色い虹彩が広がったり窄んだりした。

 グリフォンは塔の周りを一周して勢いをつけるとどんどんスピードを上げながら突っ込んでいった。

 カイはクローディアのために保っていた上昇姿勢から降下に移り、キャノピーを閉めて加速に移った。

 それから両手の親指で操縦桿とスロットルレバーを撫でた。

 プロストレーターは純粋なレース機だ。武装などしていない。

 でも、だからといってできることが何もないのか?

 違うだろう?

 クローディアはグリフォンの突進をするりと躱し、甲板の端に立つ天使に向かっていった。

 しかし後ろでグリフォンがくるりと回って慣性を殺し、クローディアに向かって再び加速していた。

 体が大きい分だけグリフォンの方が速い。

 カイはゆっくり操縦桿を傾けてスピードを維持したままグリフォンの進路に機首を向けた。

 降下で加速して650㎞/h近いスピードで突っ込んだ。これならグリフォンよりずっと速い。

 上から迫る機影に気づいたグリフォンは顔を上げてカイを見定め、くるりと翼を畳んで弾道降下しつつ足を上に向けた。それが迎撃姿勢ということなのだろう。

 カイは足の動きを見越して直前で翼を立てて舵を切った。

 内臓が飛び出しそうになるくらいのすさまじいGがかかり、まるで世界の照明が落ちるように視界が暗くなった。

 気づくと機体は上を向いて上昇に移っていた。無傷だ。

 巣を守る小鳥が近づいてきた猛禽の背中に急降下をかけてモビング(擬攻撃)のようなものだっただろう。

 グリフォンはまだクローディアを追っていたが、スピードは落ち、カイのことが気になって仕方がない様子だった。

「プロストレーターの機動性をナメるなよ」カイは1人で息巻いた。

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