選ばれた子、選ばれなかった子18
徐林が済南に戻ったのは街が完全に占拠されてからだった。
城壁は案の定大きく崩され、そこから人が出入りしないよう一隊が配置されている。
すでに夜更けだったが篝火がいくつも焚かれており、兵が多いことがよく分かった。
もちろん城門も厳重に警備され、普通には入れない。
が、普通ではない徐林は街に入ることができた。
城壁の小さな出っ張りに指をかけ、蜘蛛のように登っていく。そして登りきったら今度は上端に縄をかけ、一気に内側へと降りた。
こういう訓練も行ってきたのだ。闇夜での早業に、警備の兵たちは誰も気付けなかった。
徐林は役所へ向かって駆けながら、父の無事を祈った。信じてもいない太平道の
それを父がよく口にしていたせいか、父の姿が脳裏をよぎった。しかもまるで走馬灯のように、ずっと昔からの記憶が流れていく。
初めて会った時、重症の徐林の枕元に座り、手を握ってくれた。
馬にはねられて頭を強打した徐林は脳出血を起こしていたのだろう。ひどい頭痛と吐き気に襲われ、何度も嘔吐した。
吐いたものが父にかかったが、まるで気にした様子もなく手を握り続けてくれた。そして背中を撫でてくれる。
これほど優しい手はないと思い、『私の子になれ』と言われた時は嬉しくて吐きながら何度もうなずいた。
徐林が回復してから鍛錬を始めた父は恐ろしかった。人が変わったのではないかと思うほどに厳しく鍛えられた。
しかし鍛錬が終わると、必ずどこか痛めていないかを聞かれる。痛いと言うと膏薬を塗り、優しく撫でてくれた。
徐林はその手が好きだった。
しかもその手でよく抱きしめてくれるのだ。
徐林が辛そうにしている時、嬉しい時、父のために何かしてあげた時、任務に行く時、帰った時、日常生活のなんでもない時に抱きしめられる時もあった。
そんな父の抱擁が不思議なほど明瞭に思い起こされ、徐林は小さく微笑んだ後、逆に身震いした。
(……冗談じゃない!死んだ父さんの魂がここに来たみたいじゃないか!)
その妄想を全力で否定しながら役所の塀を越えた。
ここは一度暗殺のために侵入路を把握している建物だ。しかも今は慣れない兵たちが警備しているのだから、徐林にとって忍び入るのは難しくない。
前に来た通りの経路を素早く進み、屋根に上がった。
そして自分が暗殺を果たした部屋の上まで来る。
すると、足元から話し声が聞こえてきた。父の声だ。
(父さん!!良かった、まだ生きてる!!)
徐林はそのことに安堵したのだか、直後に何か重い音がした。少し違う音が二度立て続けにする。
暗殺者として生き、戦場にも出た徐林はその音に聞き覚えがあった。
一つ目は刎ねられた首が落ちる音、もう一つは首のなくなった体が倒れる音だ。
「父さん!?」
徐林は潜むべきことなど完全に忘れ、叫び声とともに窓から部屋へと身を投げ入れた。
どうか聞き間違いであってほしいと願った音は、残念ながら聞き間違いではなかった。
床には父の生首が転がり、頭を失った胴からはおびただしい量の血が吹き出している。
そして、その前に一人の男が立っていた。
十四年ぶりに会う実父、夏侯淵だ。
突然窓から飛び込んできた徐林に驚き、目を見開いている。
「……綝?」
夏侯淵がその名を呼んだ時、徐林の左手から
喉めがけて飛んできたそれを紙一重でかわした夏侯淵は身震いした。
息子の攻撃自体に震えたのではない。自分を殺すために放たれた鏢に、まるで殺気が乗っていなかったことに身震いしたのだ。
徐林は素早く鏢を戻し、両手で双流星を回している。その姿からも全く殺気を感じないのに、明らかに自分を殺そうとしている。
(綝は強い。確かに強いが、これは戦士の強さではない。暗殺者の強さか……)
戦士ならば気で相手を凌駕することも力の一つだが、暗殺者であれば相手が知らぬ間に殺してしまうのが理想だ。
徐林はそういう事ができるように鍛え上げられている。夏侯淵にはそれが化け物に見えた。
「綝、待て。まず話を聞け」
その言葉すら徐林には隙の一つにしか見えていない。間髪入れずに再び鏢を放った。
しかも今度は回転の遠心力がついている分、先ほどよりも格段に速い。
よけられないと判断した夏侯淵は徐和の血に濡れた剣を振り、かろうじて鏢を弾いた。
が、その時には錘の方が剣を握った手にめり込んでいる。微妙な時間差で錘を放ったのだ。
指の骨が完全に砕け、片手はもう使い物にならないだろう。
(片手だけで綝に勝てるか?)
無理だろう。結論はすぐに得られた。
(ならば助けを呼ぶしかない!!)
そう判断して叫ぶため、鼻から息を吸った。
が、それを吐き出すために開けた顎へ衝撃を受ける。
声を上げるどころか、脳を揺さぶられて体の自由が利かなくなった。
(な、なぜだ!?流星錘はまだ綝の手元に戻っていないはず!)
夏侯淵はぐるりと回る視界の中、自分を打った物が見えてその理由を悟った。
もう一つの錘だ。
ごく単純な話で、徐林は予備の流星錘を持っていた。それを投げつけただけだった。
そもそも双流星一つしかないと思い込んでいた夏侯淵の油断なのだが、それに気づいた時にはもう遅い。
すでに勝負は決しており、仰向けに倒れた夏侯淵の首に徐林の鏢が押し当てられた。
「動くな。俺が聞いたこと以外は喋るな。従わなければ殺す」
徐林は自分でそう言っておきながら、自分で驚いた。
これまでも標的に同じことを言ったことはある。ただし、それは殺す前に得なければならない情報がある時だけだ。
目の前の男から今さら得たい情報はないし、『従わなければ殺す』と言ったがどちらにせよ殺すつもりなのだ。
(これまでの標的は殺せる時に即殺してきた。なのに、なぜそうしない?)
自分で自分に問い、それからすぐにその答えを得られた。
(俺は、この男を苦しめたい)
要は憎いのだ。
それが分かった徐林は鏢を首に押し付けたまま、片手で器用に夏侯淵の両手、両足を縛った。
それから紐を首に巻き、声を上げればすぐに締められるようにしてから、頬を殴った。
ゴッ
と低い音がして、夏侯淵の首が横を向いた。
その首を逆に向かせるよう、裏拳で反対の頬を殴る。
それを何度も繰り返し、徐林は実父を痛めつけた。
先ほど戦っていた時には殺気一つ表出させなかった徐林が、今は憎しみを体中から放ちながら相手を打っている。
別に痛めつけることに快感はない。満足もない。
ただ、この男を苦しめなければ済まない感情が胸の奥に渦巻いていた。
徐林はその感情に促されるまましばらく殴り続けたが、ふと気がついてその手を止めた。
「お前、殴られてもあまり苦しんでいないな?」
夏侯淵の様子から、そう感じたのだ。
殴られながら冷静にこちらを伺う余裕すらある。
「……私は兵を指揮する立場だが、戦場では自分自身も最前線に立ちたがる性分だ。普段から怪我も多い」
「じゃあ殴っても無意味だな」
そう判断し、拳を解いた。
それから鏢をあらためて首に押し付ける。
「もう殺そう」
徐林はそれで夏侯淵を苦しめてやるつもりだった。
死の恐怖はどの生物でも共通だ。今から死ぬのだと分かれば、目の前の男はひどく苦しむことになるだろうと思った。
しかし、夏侯淵の瞳には恐怖の色は浮かばなかった。むしろ安堵すら感じられる目をしている。
徐林は不思議に思って尋ねた。
「……死ぬのが恐ろしくないのか?」
夏侯淵は澄んだ瞳のまま答えた。
「恐ろしいさ。しかし、それがお前に対する贖罪になるならそうしよう」
「贖罪?」
「お前を一人置いて行ってしまったこと、ずっと気に病んでいたのだ。徐和から言われて気づいたのは癪だが、私はその罪にずっと苦しめられてきた。お前がそれを終わらせてくれるなら受け入れる」
徐林は夏侯淵の言うことを、本当の意味では半分も理解できなかった。
ただ、どうやらこの男を殺そうとしても苦しめられないことは確からしい。
そう理解した徐林は攻め口を変えることにした。
「……そうだな……お前の一番大切なものはなんだ?」
夏侯淵は問われた理由は分からなかったが、今の素直な気持ちを答えた。
「お前だよ、綝。私には子が多いが、お前だけは五歳までしか愛してやれなかった。だからその分だけ、お前の幸せを願っている」
それは夏侯淵の真心から震え出た言葉だったのだが、徐林の心にはまるで響かなかった。
(話にならないな)
深く考えることもせず、胸に入る前に一蹴した。
自分は今、この男を苦しめたいのだ。それ以外のことには関心が湧かない。
徐林はあまり知らない実父のことを、苦しめてやるためだけに考えてみた。
そして一つ思い出した。
「そういえば、あの赤ん坊はどうなった?」
「赤ん坊?」
「お前が俺を置いて行った時に抱えていた赤ん坊だ」
「ああ……桃花ならいい娘に育ったよ。七年前に張飛という武将に嫁入りして、今も元気に暮らしている。私とは敵同士になってしまったが、文のやり取りだけは欠かしていない」
そう言う夏侯淵の顔は、どことなく幸せそうだった。
だから徐林は自分の考えが正しかったのだと判断し、これからすべきことを決めた。
「よし。俺はその娘を殺す」
「……なに?」
夏侯淵はなぜ突然そんな話になったのか分からず、ただ聞き返した。
その表情に、徐林は少しだけ満足感を覚えた。
「何もくそも言った通りだ。桃花、といったか?その娘を殺すんだ」
「ちょっと待て。なぜそういうことになる」
「その娘がお前の大切なものだからだよ。俺はお前に、生きながら大切なものを失う苦しみを与えたい」
「綝……」
「俺を捨ててまで選んだ娘だ。さぞかし可愛いがっているんだろう」
「いや、待て。あれはそういうわけでは」
ゴッ
という音がして、夏侯淵の言葉は途切れた。
いや、言葉だけでなく意識も途切れていた。徐林が錘でこめかみを打ったのだ。
意識を失った実父の顔を、徐林は少しの間だけ見下ろしていた。
しかし憎しみ以外の感情は浮かばず、すぐに立ち上がる。
それから養父の首を抱え、手のひらで顔についた血を拭った。
今からここを忍び出なければならないが、せめて首は持って行こうと思った。
「父さん……首だけしか埋葬できないけど、勘弁してね」
父の顔は意外なほど安らかで、まだ温かいから寝ているようですらあった。
それは徐林の苦しみを少しだけ和らげてくれたものの、やはり胸が張り裂けそうなほど苦しいことに変わりはない。
その苦しみが滲んだ憎しみを実父に吐き落とした。
「……お前にも、必ず同じ苦しみを味わわせてやるからな」
そのために、あの赤ん坊を殺さなければならない。
「桃花、か」
徐林は初めて自ら選んだ標的の名をつぶやき、暗殺の成功を父の首に誓った。
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