小覇王の暗殺者16

 背後から声をかけられた魅音は、心臓を握り潰されたような気分がした。


 孫策は林の入り口の樹の陰に隠れていたのだ。


 魅音は振り向かず、体を投げ出すようにして前方へと跳んだ。とりあえず距離を取らなければ勝負にならない。


 そして地面を転がりながら矢を手にし、起き上がると同時に背後へその矢を射とうとした。


 が、矢は飛ばなかった。孫策の素早い一閃で、弦が切られていたからだ。


「お前のような少女から小覇王が逃げたとなれば、さすがに恥だろう」


 孫策は膝をついた魅音を見下ろした。腕から無造作に剣を下げ、静かに歩み寄ってくる。


 魅音は目を釣り上げてそれを見上げた。


 孫策はその目を見て、獲物を前にした山猫のようだと思った。


「……と言っても、お前は相当な強者ではあるのだろうがな。俺の供回りは皆かなりの手練だぞ?それを三人とも倒してしまうとは」


「その三人もあんたと一緒の方が嬉しいでしょ。後を追って、死んであげなさいよ」


 魅音は憎しみと殺意を込めてそう言った。


 しかし憎まれ慣れている孫策の心はこの程度では微動だにしない。なんの感情も抱かずに受け流した。


「お前、何年か前に会ったことがあるな。確か許貢の……」


「そうよ、父上の仇を討ちに来たの。だから死んでちょうだい」


 魅音はそう言ったものの、弦を切られてはもはや為す術がない。実際のところ、自分は殺されるしかないのだろう。


 それは理解しているが、潔く殺せとは言わない。それよりも、死ぬまでこいつを罵倒してやりたいと思った。


「気の強い娘だな。しかし、父上?許貢には末の息子が残されていただけだと記憶しているが……」


「そうよ、血縁で残ってるのは安ちゃんだけ。でもその安ちゃんはもうあんたを殺すことを諦めてる。兄ちゃんもそう。だから私が殺しに来たの」


 それを聞いた孫策はふっと笑った。力の抜けた笑い方だった。


「そうか……あの時の暗殺者の少年はきちんと誓いを守ったのだな。そして、お前はその妹か。あいつもこんな跳ねっ返りの妹までは制御できなかったわけだ」


「跳ねっ返りで悪かったわね。私は兄ちゃんや安ちゃんみたいに上手に折り合いがつけられないの。憎いものは憎い。だから死んだ後だって、ずっと呪い続けてやるんだから。覚悟しておきなさい」


 実際に呪い殺さんばかりの視線を受け、孫策は納得するように深くうなずいた。


「お前はきっと、俺と同類なのだろうな。俺もお前と同じように、父の仇への憎しみが止められない。折り合いなど、つけようがない」


 孫策は自分を暗殺に来た少女に対し、小さくない共感を覚えていた。


 しかし、と思う。


「……しかし、お前の兄や許安にはそれが出来るのだ。お前は、そのどちらが幸せだと思う?」


 問われた魅音は唇の端を歪めた。確認するまでもない話だと思った。


「そんなの、兄ちゃんや安ちゃんの方が幸せに決まってるでしょ。私はあんたを憎いと思ってる時が一番苦しい。誰だってそうよ」


 孫策はまたうなずいて、魅音の言葉を肯定した。


「そうだ。俺も黄祖コウソを憎いと思っている時が一番苦しい。人間にとって一番不幸な時間は、何かを憎んでいる時間だろう」


 孫策も魅音もそれは同じだった。


 そしてだからといって、憎むのを止めることが出来ないのも同じだった。


「それでも止められない。憎しみが止められないのだ。俺も、お前もそうだ。だからお前は、これからも俺を殺そうとするだろう。だから俺は、お前を殺さなければならない」


 孫策はゆっくりとそう伝えながら、剣を上段に構えた。


 当然、こんな少女を手に掛けるのは本意ではない。


 しかし今見た通り、この少女は強い。あの弓技は天才しかなしえないものだった。


 加減はできない。許貢の他の家族と同じように、せめて楽に殺してやろうと思った。


 そのつもりで剣に殺気を込める。


「さらば……」


 と、孫策は別れの言葉を口にしようとした。それを言い終わる頃には、暗殺者の首はもう飛んでいるはずだ。


 しかし、孫策はその言葉を最後まで言うことができなかった。


 その左頬から右頬にかけて、矢が貫いたからだ。


「………………?」


 孫策は初め、何が起こったのか分からなかった。分からないまま口が閉じられなくなり、顔に衝撃だけが走っていた。


 視界の左右に矢羽と鏃が見えて、ようやく自分の頬に矢が突き刺さったまま止まっているのだと理解できた。


 矢羽の方を向くと、第二、第三の矢がさらに飛んできていた。その一本をかわしながら、もう一本を剣で叩き落とす。


 矢を放ったのは二人だった。顔に見覚えがある。


 この少女の兄だという暗殺者の少年と、許貢の末子だ。


「魅音!!」


「魅音ちゃん!!」


 雲嵐と許安は大切な家族の名を叫びながら、全力で駆けた。駆けつつ、凄まじい速度で矢を射掛ける。


 孫策は頬に矢が刺さったままでそれを捌きつつ、二人の方へと一歩踏み出した。その一歩に体重をかけてから、一気に蹴り出す。


 恐ろしいほどの速度で加速した孫策は、二人との距離をぐっと詰めた。


 当然距離が縮まれば、矢よりも剣が有利になる。しかし、それでも二人の足は止まらなかった。守るべき魅音の元へと駆け続けた。


 その気迫が矢にも乗っている。さしもの孫策も至近距離からこの二人に矢を射掛けられて、命の危険を感じた。


 いったん足を止め、矢を切り払うことに集中する。そして射撃間隔の拍子をとらえ、ここだと思うところでまた踏み込んだ。


 孫策は雲嵐と許安を一瞬で己の間合いの中へと入れた。そして剣を二閃する。


 といっても、いきなり二人の体を斬りはしなかった。まずこの速い弓を無効化するのが優先だと思ったのだ。でなければ一人を斬っている間にもう一人に射たれかねない。


 だから小さく剣を動かして、二人の弦を斬った。


 殺すのは、それからでいい。


(一度は見逃した二人だが、こうなっては仕方あるまい……斬る!!)


 そう思い、剣の柄を握り直す。


 しかし、その剣を振る前に肩に衝撃を受けた。


 首だけ振り向くと、魅音の顔がすぐそばにあった。背後から飛びかかり、矢を手に握って直接突き刺していた。


「……っがあぁああ!!」


 孫策は体を振って魅音を弾き飛ばした。


 そして魅音の方をまず仕留めようと思い、剣を振り上げる。


 しかしそれを振り下ろす前に、また肩に衝撃が走った。今度は両肩だ。


 今度は雲嵐と許安が飛びかかり、先ほどの魅音と同じように矢を手に握って突き立てていた。


「ぉおおぉお!!」


 孫策は雄叫びを上げ、体を激しく回した。後ろから羽交い締めにしようとする二人を遠心力で振り払う。


 その勢いで雲嵐と許安は宙に飛ばされ、魅音にぶつかって倒れた。


 そこへ、孫策が剣を突きつけた。


「動くな」


 と、孫策は言おうとしたのだが、左頬から右頬へと矢が貫いている。口がしっかり閉じられないので、上手く言葉が出なかった。


 眉をしかめた孫策は、顎に力を入れて矢の芯を噛み砕いた。


 そして左右からその矢を抜き、最後に口中に残った部分を血とともに吐き捨てた。


 抜いた矢の鏃を見て、短くつぶやく。


「毒矢か」


 三人は答えなかった。


 しかし暗褐色の色合いでそれを悟った孫策は、すぐに肩に突き立った矢へと手を伸ばした。


 肉に刺さった矢は、普通なかなか抜けない。鏃には返しがついているし、刺さった部位の筋肉が収縮して抜けるのを妨げてしまうのだ。


 しかし孫策は腕力に物を言わせ、力ずくで抜いた。かなりの痛みを伴うだろうに、眉の一つも動かさずに三本とも抜いた。


 その間も隙のない剣先を三人へと向けている。それで三人とも、地面に尻をつけたまま動けなかった。


 矢を地面に投げ捨てた孫策は、まず雲嵐と許安を交互に見た。


「初めの矢を射ったのはどっちだ?」


「……俺だ」


 雲嵐が小さく手を上げた。


「そうか、見事な一射だった。しかし殺気を全く感じなかったのが不思議だ。いったいどんな気持ちで射った?」


 雲嵐は少し考えてから答えた。


「……あの矢を射った時は、お前を殺したいとか憎いとか全然思わなかった。妹を守りたい一心で射ったんだ」


 孫策はそれを聞いて、キョトンとした顔になった。


 一拍置いてから、大きな笑い声を上げる。


「はっはっは!なるほどな。殺す気がないから殺気もないか。害意がないのだから、俺が気づかないのも納得だ。そういえば肩を刺された時にも気づかなかったが、要は同じ理屈だな……」


 笑いながら、自分の頬を撫でた。そこは矢が貫いた部分よりも、少し上だった。


「……昔、お前らの父である許貢が放った矢もそうだったのだな。あの時も俺は矢が視界に入るまで気づかなかった。あれも俺を殺すための矢ではなく、お前たちを守るための矢だったのだろう」


 孫策は少し遠い目でそれを思い出し、小さくうなずいた。


 自分を傷つけることができた矢は、自分を殺すための矢ではなかった。大切な誰かを守るための矢だったからこそ自分に届いたのだ。


 そのことを面白いと思って笑い、ひとしきり笑ってから今度は力を抜いた。


 そして長い、静かな息を吐いた。


 孫策の頬からは大量の血が流れ、顎の先から滴になって落ちていく。それが地にぶつかる音と共に、小さなつぶやきを漏らした。


「毒矢か……俺は、死ぬのだろうな」


 その一言に、三人とも何も答えなかった。


 理屈だけを言うと、死ぬかどうかは分からない。


 毒矢は三年以上前に作ったものだからその効力が残っているか分からないし、孫策は刺さった直後に引き抜いている。どこまで効くかは不明だった。


 しかし、この時代は抗生物質のない時代だ。頬を貫通するような一撃を食らっている時点で、感染症で死ぬ可能性も十分ある。そもそも矢傷とはそういうものだ。


 それに何よりも、狩猟に慣れた三人は孫策に対してある種の既視感を覚えていた。


(狩りの時、その場で即死させられなかった手負いの獣だ……いったん逃げはするけど、しばらくしたら水辺なんかで死んでるのをよく見かける……)


 孫策の姿が、なぜかそういった獣に重なるのだった。


 そして孫策も自分の死が近いことを感じているのかもしれない。だからこんな顔ができるのだと三人は思った。


 その孫策は、また三人に尋ねた。


「お前たちに聞きたいことがある。俺はもうすぐ死ぬから、父の仇を討てん。しかしお前たちはそれを果たした。今どんな気分だ?」


 三人は顔を見合わせてから、同時に答えた。


「最悪だ」


「最悪です」


「最っ悪よ」


 孫策は先ほど雲嵐の回答を聞いた時と全く同じように、まずキョトンとした。


 そして一拍置いてから、弾けるように笑った。


「はっはっは!念願の仇討ちを果たした結果が、最悪の気分か!そうか、そうなのか!しかもお前もか?男二人はまだ分かるとして、お前もそうなのか?」


 孫策は笑いながら魅音の方を見て、そう確認した。


 魅音は吐き捨てるように答えた。


「ええ、本当に最悪。今までで経験したことがないくらい胸くその悪い気分よ。だって結局、仇を殺しても私の憎しみは消えてないんだから。悲しみだってそう……きっと失くしたものが帰ってこないなら、どっちしろ同じってことなのよ」


 孫策は目の前の小娘の言葉を聞き、少し目を大きくした。そして自分の胸に手を当てて考えてみる。


 自分は仇である黄祖を殺せば、この憎しみと悲しみを消し去ることができるだろうか?


(……いや、無理だな。この娘の言う通り、失くしたものが帰ってこない限りそれは無理なのだ。そしてそれはもう、永遠に叶わない)


 そう思った。


 だからやはり、この娘の兄や許安のように感情に折り合いをつけ、前を向いて生きられる方がよほど幸せなのだろう。


 ただし、このはげしい男は思うのだ。


「……それでもやはり憎しみを、仇を討ちたいという気持ちを抑えるのは容易ではない。だからもしお前たちをここで逃がせば、俺の息子や娘がお前たちを仇として討とうとするだろう」


 孫策は三人に向かって一歩踏み出した。


 小覇王の殺気にあてられた三人は身じろぎもできない。


「俺は、自分の子供たちには復讐の場に立って欲しくない。憎しみの炎で、己が身を焼いて欲しくはないのだ。だから、お前たちを殺す」


 そう言い渡し、剣の柄を両手で握る。


「俺は小覇王の通る道として、多くの人間を殺してきた。その最後がお前たちだ。光栄に思え」


 それから一瞬の間に、三度剣をひらめかせた。あまりに速すぎて、誰もその太刀筋を知覚できなかった。


 そして自分たちが今生きているかどうか、首が繋がっているのかどうか分からなくなっている時、小さな音が下の方でした。


 見ると、三人の髪の毛が一房ずつ切られて地面に落ちている。


「「「…………え?」」」


 三人は同時に困惑の声を上げた。


 落ちているのは自分たちの首ではなく、髪の毛だけだった。


 孫策は無造作にそれを拾った。


 そして背を向けて、自分の馬の方へと歩き出す。


「……お、おい!?」


 混乱した雲嵐が思わず声をかけた。


 孫策は振り返らず、独り言のように喋った。


「俺を襲った刺客は、許貢の名もなき客人だ。しかし俺と供回りに殺され、その亡骸は長江へと流された」


 それだけ言うと、颯爽と馬にまたがった。


 血がかなり流れているし、本当は動くのも辛いはずだ。しかしそんなことは全く感じさせない動きだった。


「……また、見逃すのか?」


 真っすぐ伸びた背中に、雲嵐が再び声をかけた。もしそうなら、雲嵐はこの小覇王に三度見逃されることになる。


 孫策はやはり振り返らずに答えた。


「お前たちは死んでいなければならない。そうでなければ供回りたちの名誉を守れないし、先ほども言ったように俺は子供たちに復讐の苦しさを味わって欲しくない」


 そこで一度言葉を切り、下を向いた。そこで何を考えたのか、三人には分からなかった。


 ただ、顔を上げた孫策は、今度は三人を振り返った。


「……お前たち、出来るだけもう殺すな。もちろんこんな乱世だから、出来るだけでいい。殺すと、復讐の連鎖に引きずり込まれるのだ。だから殺さずに済むのなら、それが一番いい」


 三人は孫策の目を見て、まるで別人のようだと思った。先ほどまで見ていた烈しい小覇王の目とは異なり、赤子を見つめる父親のような目をしていた。


 許安はそれを見て、胸をえぐられたような気持ちになった。


(復讐の連鎖……覇道を歩んだこの人は、いったいどれだけの鎖をその身に巻かれているんだろう)


 その重さを想像し、暗澹たる思いを抱く。


 その内の一本は自分たちで、しかも実際に殺してしまう。そして本来なら、そうすれば今度は自分たちにその鎖が巻かれるのだ。


 しかしこの小覇王は自分たちを見逃すだけでなく、殺したことにしてその鎖から逃してくれると言う。


 憎かったはずの仇に対してどんな感情を持てばいいのか、許安にはもう分からなかった。


「……僕たちもあなたも、きっとこの乱世の犠牲者なんだ」


 そんな許安の言葉を孫策はどう捉えたのか、嵐でも起こしそうな笑みを返した。


 気づけばまた覇気をあふれさせた小覇王の目に戻っている。


「しかし、この乱世こそが小覇王孫策の最も輝ける時代なのだ」


 そう言う孫策の姿は、確かに輝いていた。まるで天駆ける流星のようだと三人は思った。


 この後、軍営に帰った孫策は弟の孫権を後継者に指名してから没する。


 享年二十六。


 長いとは言えないその人生で、歴史に及ぼした影響は果てしなく大きい。孫策の歩んだ覇道がなければ呉の国が産まれることはなく、三国時代も三国志も存在することはなかった。


 天駆ける流星がこの男なのだと言われれば、確かにそうかもしれないとも思う。


 ただし孫策という巨星はただの流星とは違い、天で燃え尽きることなどなかった。


 身を焼きながら地に降りそそぎ、その烈しいまでの爪痕を深く刻みつけたのだ。

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