第185話 見合い

(この娘はこれで悪気がないのだから手に負えない……)


 許靖は申し訳なさが募りすぎて何も言えなくなった。


「はっはっは!これは面白いお孫さんですな!」


 明るい笑い声を上げて場の空気をなんとかしてくれたのは、張松だった。


 息子とよく似たその顔を綻ばせ、手を叩いて笑ってくれた。


「まぁ、そんな情けない状況で恋に落ちる息子も息子ですがね。おい、占。もっとお前の良いところを見せないとな。まだ挨拶して早々だが、まずは屋敷を案内して差し上げなさい。うちを回りながら、若い二人で話せば良い」


「あ、はい。そういたします」


 父に声をかけられて正気に戻った張占は、慌ただしく立ち上がった。


「春鈴さん、どうぞこちらへ」


 張占よりも遥かに美しい姿勢で立ち上がった春鈴は、その後について部屋を出ていった。


 許靖は二人の後ろ姿を見送りながら、これが夫婦になったときの強烈な違和感を今更ながらに感じていた。


(まぁ……こういうのはとりあえず会ってみることが大切だ。それに男女の間柄は私の思いもよらないようなはまり方をすることも多いからな……)


 許靖はそう考えて、自らのうかつさを慰めた。


 二人が出ていった扉を眺めていた許靖の横顔へ、張松が声をかけた。


「許靖殿。あれは確かに情けない息子ですが、父のひいき目を除いても優しいのは間違いありません。そこは自信を持ってお勧めできますぞ」


「そうですね。それはよく分かります。うちのも、なんというか……ああいった娘ですが、なんというか……」


 許靖の困りようを張松は笑い飛ばした。


「はっはっは。まぁいいではありませんか。それに、我が家を見ればきっと気に入ってくれますよ。その間、我らはここで政談でもしておりましょう」


 張松は別駕べつがと呼ばれる劉璋直属の官吏であり、許靖はここ蜀郡の太守だ。話すことといえば、やはり基本的には政談になる。


「政談、ですか……そういえば、劉備殿が荊州けいしゅうへ帰られるとのことですが」


 その一言で、張松の笑いはピタリと止まった。そして心なしか体を固くして、手元の茶を音を立ててすすった。


 劉備が荊州に帰る。今、成都の益州政府はこの話題で持ちきりだった。


 荊州では劉備の留守を守る関羽が曹操軍と対陣していた。本拠地が危険に晒されているのだ。


 それに加え、劉備と同盟関係にある孫権も揚州をめぐって曹操と戦を始めた。孫権は劉備に対して援軍を求めている。


 確かに帰るべき事情はあるのだ。


 そして劉備は漢中の張魯チョウロが攻めてくる気配を見せないことも理由に挙げ、東へ帰ると言い出している。しかも、帰るにあたって劉璋に対し兵と軍需物資を貸してほしいと頼み込んできた。


(虫の良い話だが、筋の通らない話ではない。そもそも劉備殿は劉璋様の求めに応じて益州まで軍を進めてきたのだ。帰るのに色々要求してもおかしな話ではないだろう)


 許靖はそう思いもした。


 しかし、やはり虫の良い話であることには間違いない。しかも要求された兵・物資はかなりの量だったので、さすがの劉璋も半分以下の量しか提供しなかった。


 すると劉備は怒った。少なくとも、怒ったという話が成都に届いている。


 そしてこの劉璋と劉備の仲違いも後押しになって、劉備は間違いなく荊州に帰っていくのだという話になっていた。


 これを聞いて一番困ったのが、劉備の益州入りを中心になって推し進めてきた張松だ。自身の成した事業が完全な徒労に終わろうとしている。


(張松殿が今一番触れられたくない話題だろうが……反応を見ておきたい)


 張松はしばらく沈黙したまま茶をすすっていたが、やがて許靖をまっすぐ見据えて口を開いた。


「乱世、ですな」


 許靖は張松の言いたいことをすぐに理解できず、とりあえずそのまま繰り返した。


「ええ、乱世です」


 張松は息を長く吐いてから言葉を続けた。


「時に、劉璋様を乱世の統治者としてどう思われます?」


 許靖は即答した。


「素晴らしい統治者です。心から尊敬申し上げています」


 半分は本当で、半分は嘘だ。


 劉璋は民思いの優しい統治者だ。それは本当に素晴らしいことだと思うし、尊敬している。


「しかし、優しすぎる」


 張松は許靖の回答に逆説で返した。


 それは許靖としても、本心では肯定せざるを得ないところだった。


 単純に『統治者としてどうか』と聞かれれば、先ほどの許靖の回答に全くの嘘はない。しかし『乱世の統治者としてどうか』と聞かれれば嘘になる。


 許靖は話が危険な方に進みそうだと感じながらも言葉を返した。


「おっしゃる通り、優しすぎます。ですが、それこそが劉璋様が人の上に立つべき方である理由だと思います」


「ですが、優しさだけでこの乱世を泳ぎ切ることが出来るでしょうか?」


「今日まで泳いでこられました」


「許靖殿、本心では分かっておいででしょう。今まで益州が攻められなかったのは、天然の要害と群雄同士の足の引っ張り合いがその理由です。しかし群雄の数が絞られその規模が大きくなった今、益州に手を伸ばすだけの余力を持つ者が現れるのは自然なことです。元々、時間の問題だったと言っても良いでしょう」


 許靖としてもそれは分かっている。


 そして正直な所、劉璋を頭にしてこの乱世を生き抜けるかと問われれば、それは難しいかもしれないとも思っていた。


(しかし、私は劉璋様が好きだ。どの群雄よりも優しく、どの為政者よりも民を大切にしている)


 それは感情論かもしれなかったが、民を愛する為政者を上にいただいた方が民はきっと幸せになれる。そんな単純な理屈が成り立つ場面は多いはずだった。


 それに、乱世の生き抜き方も様々だと許靖は思っている。


「何も絶対に攻められる、という前提で話を考えなくてもいいのではないかと思います。例えば、曹操殿は帝を擁しているのですから朝貢ちょうこうなどを密にして……」


「曹操?……あんな身の程を知らぬ簒奪者さんだつしゃっ!付き合う価値などありませんぞ!」


 張松は吐き捨てるようにそう言った。


 許靖は自分のうかつな発言を後悔した。張松が曹操を嫌っていたのを失念していたのだ。


 過去に張松は曹操と会ったことがある。


 元々劉璋は曹操との提携を模索しており、張松はその使者として兄の張粛チョウシュクと共に曹操の元を訪れたことがあるのだ。


 そして、そこでどうも嫌な目に遭ったらしい。


 許靖も実際のところは知らないが、兄の張粛は曹操から非常な歓待を受けた一方、弟の張松はぞんざいな扱いを受けたという噂を耳にしていた。理由はその見た目だという。


 張松は前述の通り大ナマズのような外見をしており、お世辞にも見てくれが良いとは言えない。


 しかしどういう遺伝子の具合か、兄の張粛は誰からも一目置かれるような威厳のある立派な風貌をしているのだ。


(曹操殿ご自身がその程度のことで扱いを悪くするとは思えない。もしかしたら接待を命じられた者の粗相かもしれないな……)


 許靖はその話を聞いた時にまずそう思ったが、実際のところは何も分からない。


 ただ、張松がその時にひどく曹操を嫌ったのは間違いないようだ。帰ってきた張松は曹操との提携を強硬に反対し始めた。


 そしてその後、劉備を引き入れるよう上手く話を進めて現在に至る。


「許靖殿。私は為政者にとって、徳は必要だとは思います。しかしこの乱世では、それと同時に強さも要る。徳と強さ、その二つを兼ね備えた者こそが劉備殿だと思うのですよ」


 張松の主張で許靖は話がいよいよ危険な方向に来てしまったと感じた。


「その言い方では、まるで劉備殿が劉璋様に取って代わる……」


「許靖殿は!」


 張松は大きな声を上げて許靖に最後まで言わせなかった。


 そして許靖が黙ったのを確認してから声の大きさを戻して先を続けた。


「……許靖殿はこの益州を治めるのに必要な方だと、私は常日頃から思っております。民からも有力者からも慕われ、政治力があり、行政の企画能力にも優れておられる。そして、その人物鑑定眼はもはや寓話に近い」


「……ありがとうございます」


 その人物鑑定眼で見た張松の瞳の奥の「天地」は、息子である張占と同じくナマズだった。ただし息子とは大きく二点違うところがある。


 まず、ナマズの大きさが張占のそれと比べてかなり大きい。これは人物としての大きさの違いだろう。


 そしてもう一点は、張占のナマズが暗い川底の物陰に隠れているのに対して、張松の大ナマズはずっと水面近くを一方向に向かって泳いでいた。


 そして時折、勢いをつけて水面から跳ね飛ぶ。許靖はそれを見て、この大ナマズは太陽に向かっているのだと思った。太陽に憧れ、ひたすらに明るい方を目指しているのだ。


 本来、生き物としてのナマズは張占の方が正しい。ナマズは夜行性で、昼間は川底の岩陰や水草に隠れている。


 太陽に向かう張松の「天地」には無理があるように思えた。


(その無理が良い方向にいく時とそうでない時があるが……劉備殿は張松殿にとっての太陽か。それとも、劉備殿の元で自分の地位が上がることが太陽か)


 許靖は豪勢な部屋を目だけで見回して、どちらかといえば後者ではないかと思った。


 張松の役職である別駕べつがは高官だが、それにしてもこの屋敷には過度な贅が尽されていた。きっと張松にとって、これが明るい方を目指しているということなのではないか。


(だとすると、危険だ)


 許靖はあらためてそう思った。


 ただでさえこの益州は外部勢力を戴くことによって権益を拡大しようとする者が多い。劉璋の現政権も、先代劉焉リュウエンの時にそうやって出来たものなのだ。


 張松は許靖がそこまで考えているとは思いもせずに、許靖を褒め続けた。


「許靖殿は名士としてその名が中華にも知れ渡っていらっしゃいます。それこそ今後来る状況において、政権に名を連ねるだけで周囲から一目置かれましょう。だから私はその状況になっても、許靖殿にはこの益州で存分に働いていただきたいと思っております。ならば息子と春鈴さんが結ばれて繋がりができるのはありがたいことですし、それは今後の状況を考えると許靖殿にとっても……」


「ちょ、ちょっと待って下さい!その今後の状況というのは……」


 許靖の静止に対して、張松は力を込めてゆっくりと首を横に振ってみせた。


「劉備殿は帰りません。私が止めてみせます」


 張松がそう言った時、少し離れた部屋から大きな音が聞こえた。


 何かが壊れるような音だったが、張松はそれを聞いた途端に勢いよく立ち上がった。


 そして許靖には何も告げず、廊下へと足早に向かう。


「あの馬鹿者、執務室には入るなとあれほど言ったのに……!」

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