益州
第152話 茶道楽
抜けるような青空の下、街道に子供の明るい笑い声が響いた。
許靖と花琳がそちらを振り返ると、
陳祗もまだ少年と言えるような齢だが、少女は今年で五つになると言っていた。陳祗よりもだいぶ小さい。
少しふらついてはいたが、頑張れば肩車ぐらいはしてやれていた。
許靖、花琳と並んで、もう一人の女が陳祗たちを眺めている。
その女は陳祗たちの荷物を盗んで捕まっていた女だ。楽しそうにじゃれ合う子供たちへ、優しい眼差しを向けている。
その女の横顔を、花琳は無言で見つめた。
その視線に気づいた女が睨むように花琳を見返す。
「何よ?やっぱりあたし達がついて来ることに不満があるわけ?」
「いえ。むしろ、
女の名は依依といった。明明は依依の娘だ。
二人は母娘で街の借家に住んでいたが、依依が捕縛されてしまったことで追い出されてしまった。大家から立ち退きを要求されたのだ。
陳祗の計らいで刑こそ受けなかったものの、窃盗の噂は近所に知れ渡っていた。しかも似たような事がこれまでもあったらしい。
こうなると、当然街では暮らしにくくなる。
その話を宿屋の主人から聞かされた陳祗は、許靖に何とかならないものかと相談した。
あまりにもお人好しのやる事ではあったが、小さな子供もいるとなると見過ごすのも気が引ける。
(自業自得とはいえ……せっかく陳祗が兄の思いを継いで助けたのだ。それが子供も巻き込んで不幸になるのもな)
許靖としても、それは本望ではなかった。
そして毒食わば皿までとは言わないものの、一度助けたついでに共に益州へ行くことを提案したのだった。
旅は道連れ世は情け、とはよく言ったものだが、まさにその言葉通りの状況になっている。
益州に入ってしまえば、それまでの前科を知られることはまず無いだろう。
そう本人に打診したところ、依依は『また同情か』といったんは反発した。しかし娘の環境にとっても良いことと思い直し、最終的にはありがたくその申し出を受けることにした。
ただし笑顔でそれを迎えてくれた男二人とは違い、花琳はこれまで依依に対しては特別良い感情を見せていなかった。
依依としても経緯を考えれば仕方ないことだとは思ったが、やはり世話になる身としては不安になる。その不安が依依の言葉に棘を作らせた。
「それ、遠回しの嫌味?」
花琳は向けられた棘を全く気にせず答えた。
「本心ですよ。子供は笑っているのが一番です。そのためには母親も幸せでいなければなりません。だから依依さん、今みたいに笑っていられるような生き方をしてください」
依依は花琳の意外な言葉に動揺した。これまで、こういった優しさに触れた経験があまりなかったのだ。
「……あんた、子供は?」
花琳が子供のことを思いやってくれるので、なんとなく気になって尋ねた。
「息子が一人いましたが、もう十年も前に亡くしました」
「……そう」
依依は花琳の言葉に同情の念を抱くと共に、冷水を浴びたような恐怖を覚えた。
自分が今、明明を亡くしたらと思うととても耐えられない。
その気持ちが伝わった花琳は明るい笑顔を依依へ向けた。
「でも、孫二人を残してくれました。その二人は交州で元気にお留守番してくれています。母親も、向こうの祖父母もいますし、太守様も良くしてくださいますから心配も要りません」
「太守様、ね」
依依は横目で道の先を行く兵たちを見た。許靖一行を護衛してくれる益州軍の兵たちだ。
益州刺史、
「あんたたち、お偉いさんだったんだね。まさか護衛付きの旅になるとは思わなかったよ」
花琳は首を振ってそれを否定した。
「いいえ、残念ながら私も主人もただの難民ですよ。ここ十数年ずっとそうですし、これからもその予定です」
「ただの難民相手に護衛がつく?まぁこっちはありがたいばっかりだけどね。荷物は持ってくれるし、娘が疲れたらおぶってくれるし」
依依の言う通り、確かにありがたいことだった。子連れの旅は楽ではないし、歩みも遅くなる。兵たちには随分助けられていた。
幸いにも兵たちはみな気さくで、明明を可愛がってくれる。
「少し事情があってこうなっています。ですが、残念ながら本当にただの難民なんです。ですから、成都に着いてからは……」
「分かってるよ。成都での生活は自分で何とかする。明明のためにも、もう馬鹿はやらない」
依依は陳祗に担がれてはしゃぐ娘を眩しそうに眺めた。
「縛られて、家を追い出されて、明明の将来を考えて、途方に暮れた……もう、きちんと生きることにしたよ」
花琳は依依の言葉に何も返事はしなかった。返事をせずとも、依依は自分でちゃんと結論を見つけている。
人が変わることはそう簡単ではないだろうが、きっと娘のためなら変わっていけるはずだと思った。
依依は娘へ向けていた優しい眼差しとはまた別の瞳で同じ方向を見た。
「それに、男にも色んなのがいるって分かったからね。世の中への苛立ちが一つ減ったっていうか……少し楽な気持ちで生きられそうな気がするよ」
花琳はそう言う依依の横顔を見て、その過去に思いを巡らせた。
が、最終的にはそれよりも陳祗へ向けている視線の色合いが気になって思考を霧散させた。
あまり深く考えたくなかったので、思考の残滓をかき消すために遠くの山へと目を向ける。すると、花琳はそこに意外なものを見つけた。
「あれは……茶畑?」
そのつぶやきを、兵たちの一人が耳ざとく捕らえて返事をしてくれた。
壮年の兵で、ゆったりとしたひげを蓄えている。
「ほう……この距離で分かりますか。おっしゃる通り、あそこでは茶が栽培されています」
花琳は父譲りの茶道楽で、この道には一家言ある。
まだ茶が一般的ではないこの時代、茶畑がある土地というのは珍しかった。
「この辺りではよく茶の栽培がなされているのですか?」
兵は嬉しそうな顔で大きくうなずいた。その様子から、この男も茶が好きなのだろうと花琳は推察した。
「土地にもよりますが、益州では茶は割とよく作られていますよ。特に西の方の山間部では、我ら漢民族が入植する以前から先住民たちが茶を栽培していたそうです。言ってみれば、益州は世界の茶文化発祥の地ですね」
兵は誇らしげに胸を張った。
花琳はその言葉に目を輝かせた。
「それは……素晴らしいですね。益州では良い茶が産するというのは知っていましたが、まさかそこまでとは」
花琳の食いつき方に、兵の心ものってきた。
「益州の茶文化は大層なものですよ。世間ではまだ茶を料理の汁物のように使うことも多いですが、それだけではありません。歴史が古いだけあって様々な茶の種類、製法、飲み方があります。私などはいつか益州中をまわって、それらを堪能していくのが夢ですね」
「州内でも土地によって違いますか」
「違いますね。歴史があるということは、そういう事です。もしよろしれば、あまり旅程が伸びない範囲で茶の産地や製造所、店舗などへ寄りながら成都へ向かうこともできますが……」
兵の言葉に、花琳は許靖の方を振り返った。
何も言わないが、すがるような瞳で夫を見る。
許靖の本心としてはすぐにでも快諾したいところだったが、あまり遅くなるようでは劉璋にも陳祗にも悪い。
一応、兵に確認した。
「それほど日数は伸びないのですよね?」
兵は食い気味に回答した。
「もちろんです。差し支えない程度になるよう調節させていただきます。それに成都への道はいくつかあって、天候などによってどう行くのが良いか結果と判断の分かれるところですから、多少遅れても後でなんとでも言い訳できます」
許靖は苦笑した。言い訳すべき相手の一人である自分にそのような事を言われても困る。
この兵自身、行きたくてウズウズしているのがよく分かった。
「結構です。ではお任せしますから、妻の喜ぶようにしてやって下さい」
その言葉が嬉しくて、花琳の頬は少女のような桜色に染まった。
いまだ妻にぞっこんの夫は、それだけでこの旅の苦労は全て報われたと思った。
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