第147話 行き倒れ

 許靖が交州へ移住してから、気づけば十年あまりの歳月が過ぎていた。


 戦乱を避けるために避難して来たわけだが、少なくともここに落ち着いてからは当初の目的を果たせている。


 交州は士燮シショウの抜群の政治力・外交力もあり、この乱世でも一応の平和が保たれていた。小規模な反乱などが無いわけではなかったが、他所に比べると基本的に平和な土地だと言えるだろう。


(この国のあちこちを移り住んできたが、ようやく安住の地を得られたか)


 実際に十年過ごしてみて、結果からもそう思う。


 許欽の死はいまだに心の傷ではあるものの、幸いにも孫たちは元気に育ってくれている。乳幼児の死亡率が高い時代だ。運も良かったと言って間違いではないだろう。


(このまま、ここで老いをたしなむのもいい)


 許靖はすでに五十を越えた。


 現代ならまだまだ現役世代と言えるが、この時代では立派な老人だ。髪にも白いものが混じってきている。


 それでも許靖は実年齢と比べ、ずいぶん若く見えるとよく言われた。おそらく花琳が食事に気を遣ったり、適切な運動を勧めてくれているからだろう。


 そして、当の花琳は夫の許靖から見ても実年齢とはかけ離れた外見をしていた。武術というものは、不老の仙人でも作る手段なのかと思うほどだ。


 そういえば花琳の師匠である毛清穆モウセイボクも、実年齢よりもかなり若く見えた。


(花琳は特に歩くことを勧めていたが、こうやって散歩することも若さを保つ秘訣なのかもしれないな)


 許靖は『老いは嗜むもの』という持論を持っていたが、かといって別に齢を取りたいわけではない。元気でいられるために努力できることがあるなら、無理のない範囲でそうしたかった。


 許靖は家で講義資料の作成を終えてから、近所の道を散歩していた。


 今日の空は雲の具合が良く、外を歩けば夕陽の作り出す茜色が美しかろうと思ったのだ。そしてそれは期待以上のものになっていた。


 しばらく歩いて満足した許靖がそろそろ引き返そうと思った頃、道の脇に何かぼろ布の固まりのような物が落ちているのが目に入った。


(何だ?ごみか?)


 まずはそう思った。


 しかし、近づくにつれてそうではない事が次第に分かってきた。


(……人だ!!)


 許靖はぼろ布の正体が倒れた人間であることを悟ると、急いで駆け寄った。


「どうなされた!?」


 声をかけつつ顔を覗き込むと、まだ少年といってもよいような若い男だった。


 息はしているが頬はこけ、明らかに栄養状態が不良であることがひと目で分かる。


 許靖が何度か肩を叩くと、少年は薄っすらと目を開けた。そしてか細い声で答える。


「あ……お腹がすいて……疲れて……」


(要は行き倒れか。この辺りでは珍しい)


 許靖は少年が一応は受け答えできたことに安堵した。


 ただ、倒れている事情自体は意外に思える。


 本来ならこの戦乱の時代に行き倒れなど珍しくもないのだが、ここ交州だけは違う。士燮の治めるこの地では、少なくとも大規模な戦は起こっていないのだ。


「怪我や病はしていないんだね?」


「少し……腹を下していますが……それ以外は何も……」


 許靖はそれを聞いて、もしかしたら他の土地から来た人間かもしれないと推察した。特に北の人間は、交州に来るとまず腹を下すことが多い。


 許靖の家族は幸いにもそれほど酷いことにはならなかったが、やはり住み始めてしばらくは腹が緩かった。


 それもしばらく住んでいるうちに体が慣れてきたのか、今は全く問題ない。しかし、初めは皆そうなるという話だった。


(本人が少し、と言っているのだから大したことはないのだろう。とりあえずうちに連れて帰るか)


 許靖は頭の中で人を呼ぶか、医者に連れていくかと色々検討したが、少年は意識もあるし話もできる。


 この程度ならとりあえず連れて帰って、それから医者を呼ぶのでよいだろうと思った。


「とりあえずうちに来なさい。動けるかい?」


 許靖はなんとか少年を背負うと、家に向かって歩き出した。


(痩せた少年一人でも、重いものだな)


 花琳に言われて定期的に運動しているとはいえ、人一人を背負って歩くのは思った以上にきつかった。すぐに汗が吹き出してくる。


(いったん下ろして、荷車を持ってきた方がいいか?)


 道の半ばで許靖がそう思った時、背中の少年がぽつりとつぶやいた。


「……すいません」


 それから肩に、少年の涙が落ちるのを感じた。


 事情は分からなかったが、それで許靖は少年を下ろす気が失せてしまった。


 息を切らせながら家までの道を足早に歩き、着いた時には結構な大汗をかいていた。

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