第131話 蜜蜂と花

翠蘭スイランが道場に来なくなった?」


 その日の夕方、許靖は花琳の言葉をオウム返しにしていた。


「ええ、そうなんです。ここ三回ほど立て続けに来てなくて……」


 それは許靖にとって意外なことだった。つい先ほど、父親の袁徽エンキとは役所で次の講義の打ち合わせをしていたのだ。


 特に袁徽からは何も話はなかったし、いつもと違う様子も見られなかった。


 もし武術教室を辞めるつもりだったり、翠蘭の体調が悪かったりするなら何か一言あっても良さそうなものだ。


「袁徽殿とは今日も会ったが、何も言ってはいなかったな」


「私の方は少し心当たりがあるのですが、でもその時には全くそんな様子ではなかったので……」


 花琳は左の頬に手をやりながらそう言った。許靖もその話なら聞いている。


「翠蘭が怪我をしたという話だろう?でも、花琳が謝りに行った時にはそれほど気にしている様子もなかったという事だったが……」


「そうなんですよ。だから安心していたんですが、もしかしたら本当は心配していたのかもしれません。そもそも袁徽様は翠蘭を守るために交州へ避難してきたそうですし」


「そうなのか?それは初耳だ」


 許靖も袁徽が翠蘭を大切に思っているということは分かっていたが、そこまでとは思わなかった。


「私も道場の親御さんたちから聞いた話なのでどこまで正確かは分からないのですが……」


 花琳は袁徽について、噂話で聞いたことを話した。


 袁徽には溺愛していた妻がいたが、翠蘭が小さい頃に亡くなっている。反乱の戦に巻き込まれたのが原因という話だった。


 袁徽は妻の忘れ形見である娘を失うことを恐れ、再び戦に巻き込まれることを恐れた。妻に続いて娘まで失うわけにはいかない。


 袁徽は早い内から漢帝国がもう長く保たないことや、これから反乱や戦乱が頻発するであろうこと、そしていざとなったらすぐにでも避難することを公言していた。そして実際に漢帝国は半ば瓦解し、袁徽はすぐに避難を実行した。


 袁徽は高名な儒学者だ。交州へ逃げたりなどしなければ、どこかの群雄に仕えてそれなりの地位を得られただろう。しかし、娘の安全ためにそれを投げうったわけだ。


 許靖は花琳の話にうなずいた。


「自らの栄華を捨ててでも守ろうとした娘だ。顔にあざなど作って帰ってきたら、内心では心配だろう」


「私が行った時には不満一つ言われなかったのですが」


「袁徽殿は道義をわきまえている。武術を習わせに行かせている子供が多少の怪我をしたからと言って、文句を言う筋ではないことは理解しているだろう。しかし、感情では娘が傷つくことが耐えられなかった、と」


「そういう事なんでしょうね。私も親として、気持ちはよく分かります」


 袁徽が許靖に何も言わなかったのも、多少の怪我ですぐに辞めさせるということを言いづらかったのかもしれない。


 それに武術教室は完全に自由参加だ。急に来なくなったからといって何も問題はないし、そうであれば娘を行かせないこと自体には後ろめたさなど感じないだろう。


 袁徽の様子も普段通りなはずだ。


「しかし、翠蘭と凜風リンプウにはぜひとも続けて欲しかったが……」


 それが完全に大人の事情だと自覚しつつも、許靖はそう本音を漏らした。


 元はといえば、袁徽と趙奉の仲を改善させるために企画したことだ。


(ただ……袁徽殿は翠蘭の希望をちゃんと聞いているのだろうか)


 許靖にはそのことも気にかかった。そもそも袁徽の抱える一番の問題は、そういった所だと許靖は考えている。


 花琳は夫がそこまで思考を巡らせているとは露知らず、先ほどの発言に相槌を打った。


「凜風は毎回来ていますけどね。でも、見ていて痛々しくなるほど元気がありません。本当の姉妹以上に仲の良い二人でしたから、可愛そうになります。それに、二人とも素晴らしい武術の才を持っているんですよ。それこそ……」


 花琳はそこまで言ってから、言いづらそうに言葉を飲み込んだ。許靖は少し待ったが、花琳は続きを言おうとしない。


「それこそ、何だ?もちろん言いたくないことなら、言わなくていいが」


 許靖に優しく気遣われて、花琳はやはり続きを口にすることにした。


「……それこそ、いつか私たちが交州を出て行っても、二人に武術教室を任せられるのではないかと思うほどの才があります」


 許靖は花琳の発言に驚いた。


「今のところ、すぐに交州を動く気はないが……花琳は他の土地へ行きたいと思っているのか?今までは住処すみかを変えることを嫌がっていたじゃないか」


 花琳は首を横に振った。


「別に交州は嫌いではありません。ここは中央の戦乱から離れていますし、この乱世でも物が豊かです。それに南の人の性格なのか、大らかで明るい人が多いと思います。私は良い土地だと思いますし、春鈴シュンレイユウの子育てにも良いと思います。ですが……」


 花琳は許靖の瞳を見つめながら、優しい微笑を浮かべて話した。


「ですが、いつかこの土地にも戦乱は迫るのだと思います。その時、あなたが去りたいと思うなら私は当然またついて行きます」


「花琳……」


 許靖は花琳の微笑みに胸が締めつけられるようだった。


 許靖の逃避行に付き合った結果、花琳は息子を失ったのだ。なのにまだ、自分について来てくれるという。


 花琳はそんな許靖の気持ちを察してくれた。


「勘違いしないでくださいね。あなたがただ逃げるのに付き合うというわけではありません。あなたは今までも、そしてこれからも、行く先々で世のためになることが出来る人です。最近、それをよく考えるんですよ。私もそれを支えたいと思っています」


 花琳は許靖が世界で一番美しいと思っている瞳を細めて、明るく笑った。


 その笑顔にまた胸が締めつけられる。


「ありがとう……花琳は支えるだけじゃなく、今回の件ではそれこそ中心になって世のために働いてくれていると思う。だけど、ちゃんと花琳自身の望みは言うようにして欲しい。言われなければ分からないことも多いから」


 花琳は首を振って答えた。


「私の望みはあなたと一緒にいると、叶えられることが多いんですよ。今だって、たくさんの生徒たちに囲まれてとても幸せです」


「それでも!……ちゃんと自分の気持ちを伝えると約束してくれ。これは、花琳が私に約束させたことだ」


 許靖は強い口調で花琳に迫った。


 花琳は夫の優しく真剣な瞳に見つめられ、これからもずっとこの人と共にいようと思った。


 そしてまた幸せそうに微笑んで、分かりました、と一言だけ答えた。

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