第33話 仕事
「おかえりなさい、父上」
息子は期待通りの言葉を下げて、笑顔で駆け寄ってきた。
「これをどうぞ」
そう言って、小さな布の端切れを手渡された。
「ただいま、
息子の名前は
優しい子に育ったが、一人っ子なせいか十歳になった今でも父母にべったりだった。許靖もそれが嫌ではなかったが、そろそろ親離れをさせなければならないかと考えている。
「今日は先生から『孝』について、改めて教わりました。それで、両親へ感謝の手紙を書くことになったのです」
「それは……ありがとう。とても嬉しいよ」
許靖は読む前から泣きそうになった。読めば必ず泣いてしまう。後から一人で読むことにした。
許欽を通わせている私塾では、たまにこのような事があった。親へのちょっとした贈り物を作らせたり、親を招いて色々な催しをしたりする。
やり方がうまいのだ。子供だけでなく、親も満足させようとしていた。どこの私塾に通わせるかは親が決めるので、経営には好影響なのだろう。
「おかえりなさい、あなた。戦勝と凱旋で、街はお祭りのようですね」
花琳が笑顔で奥から現れた。
結婚して十年以上が経ち、花琳も三十をいくつか過ぎている。
それでも許靖からすれば、相変わらず妻以上に魅力的な女性などこの世にはいないのだった。
「ただいま。お祭りにもなるだろう。一時は国が亡びるかというところだったんだ。それに、戦に出るということは死ぬかもしれないということだ。将兵の家族や知人にとって、生きて帰ってくれるということは何よりも嬉しいことだ」
「あなたのお知り合いもたくさん凱旋なさっているんじゃないですか?」
「ああ、そうだな」
官庁勤めの許靖には、当然出兵して行った者たちの中に知り合いが多かった。
「しかし多くの将兵が次々に凱旋しているから、逆に今日誰が帰ってきたかなどは分からないな」
「一刻ほど前には、
「曹操殿……」
その名を聞いて、許靖は思わず口中で繰り返した。
(治世の能臣、乱世の
その時に許靖自身も曹操に会っている。当然その瞳も見た。
随分と年月が経っているにもかかわらず、あの日のあの瞳が忘れられない。
「曹操様とはお知り合いではないの?」
「仕事柄何度も顔は合わせているが、個人的に深くお話しはしていないな」
「同じお役人でもそんなものなんですね」
「中央政府は人が多いからな……ただ、実は随分前に、馬磨きをしていた頃よりもっと前だが、一度だけお話したことはある。もう十年以上も前のことだから曹操殿も覚えてはいないだろう。その時に、これは大変な人だと思ったが……」
「そう、あなたがそうおっしゃるのならよほどの方なんですね。
許靖はかぶりを振った。
曹操の器を鑑みるに、そのような事件は些事でしかない。
「曹操殿は今回の戦でもご活躍だったと聞いているが、あの方の器ならまだまだ……」
その言葉の途中で、許欽が袖を引っ張ってきた。
「父上、今日学んだことをお話しさせてください」
許靖は毎日、許欽にその日あったことや学んだことを話させることにしていた。
息子の日常を知りたいということもあるし、学問の復習にもなる。
「ああ、いいぞ。今日は何を学んだ?」
「五帝の一人、
『父、後妻に惑い、少子象を愛し、常に舜を殺さんと欲す。 舜、孝悌の道を尽くし、烝烝としておさめて姦にいたらざらしむ』
という一節を学びました」
(なるほど、舜は『孝』の代表的な人だ)
孝とは、子が親に尽くすことをいう。
舜は儒教で神聖視されている神話時代の帝の一人で、特に孝の優れた人物として崇められていた。
許欽が口にした文章を要約すると、
『舜の父は後妻の子である舜の弟を跡取りにしたいと思い、舜を殺そうとしていた。それでも舜は父へ孝行を尽くし、弟にも良くして皆を善い方向へと導いた』
ということである。
(しかし、これはともすれば誤解を招きかねない一節だ)
許靖個人としては、孝を教える題材として少し考えざるを得ない部分があると思った。
それを息子にどう伝えればよいか、思考を巡らせる。
「孝の大切さを学びました」
笑顔でそう言う許欽の肩に、許靖の手が置かれた。
「そうか……しかし欽、書物の話と現実とは少し区別して考えなさい」
許欽は父の言葉に首を傾げた。
「まず第一に、書物の話はごく限られた条件下で起こった一事例でしかないから、簡単に一般化して考えてはいけない」
許欽の首は理解できない単語の連続でますます傾いた。
「……少し難しかったな。つまり、書物の話はそのまま信じてはいけないということだ。それは分かるか?」
今度は多少理解できたようで、小さくうなずいた。
「よし。この場合、舜の行動が孝として優れていたことと、殺されそうになっても尽くすのが良いことかどうかは、また別に考えなければならない」
許欽はまたよく分からないような顔をした。
「欽には、子が親のためにその身を損なうことが必ずしも良いことかどうか、よく考えて欲しい」
中国には子が親のためにその身を捧げることを美談とする話が多い。これまでもそれが良いことだと聞いていた許欽は、また首を傾げた。
「例えばだが、同じ孝の一節として論語には次ような文章がある。
『孟武伯、孝を問う。子曰く、父母は唯其の疾を之れ憂う』
というものだ」
要約すると、
『孔子様は「孝とは何でしょう?」と問われて「父母はただ子の病気を心配するのです」と答えた』
ということだ。
許靖はゆっくりと諭すように話し、許欽はじっと許靖の瞳を見返した。
「多くの父母は、子にただただ元気でいて欲しいと思っているものだ。当然、私たちもお前に対してそう思っている。もしお前が父を守るために傷つきでもしたら、それは父として自分が傷つくことよりも辛い。それをよく覚えておいてくれ」
許欽は分かったような、分からないような顔をして父の顔じっと見返した。
そこまで話したところで、玄関から来訪を告げる声が聞こえた。
どこか聞き覚えのある、若い男の声だった。
花琳は夕食の準備で台所の奥へ引っ込んでいる。
「私が出よう」
許靖は息子との話を切り上げて玄関へ向かった。
そして扉を開けると、そこには予想だにしない人物が立っていた。
「……そ、曹操殿!?」
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