第11話就職

話しが昔に戻って

三月二十日過ぎ聡子に見送られて植野晴之は、柳井工業の上海支店に向かって飛び去った。

聡子は四月一日、待望の大手企業東南物産の本社大ホールで、本社採用の同期二百人と入社式に臨んでいた。

配属は何処だろう?そう思いながら受付にカードを提出すると「堂本聡子さん、本社勤務で秘書課ですので、席はAの八番にお座り下さい」と受付の女性が言う。

「えっ、本社、秘書課ですか?」声が裏返ってしまう聡子。

花形の大企業の本社で秘書課、自分でも想像していなかった職場に舞い上がる。

本社採用の女性社員は約五十人程度、その中で秘書課に配属されたのは自分一人で興奮の中入社式が終わると、その日は帰宅で明日から全員が配属された支店、部課に配属されて出勤に成る。

その日の夜の堂本家の食卓は、聡子の自慢話一色で賑やかに成った。


翌日、にこやかに元気で丸の内の本社ビルに入って行く聡子は、張り切り過ぎる位張り切っていた。

秘書課長の籠谷響子が聡子を課内の人全員に紹介をして、その後会長室、社長室、専務室、常務室と紹介をして廻った。

流石に大企業で常務以上の役職の人は総て自分の部屋が与えられて、筆頭常務以上には総て専属の秘書が付く。

「次の部屋が筆頭常務の桂木常務の部屋ですよ、この会社では専務より権限が有ると言われています。この桂木常務は貴女が秘書としてお付きする方です」

「はい、判りました」緊張する聡子。

ドアを課長がノックすると「はい、どうぞ」の声が聞えるが、聞き覚えが何処かに残っている聡子。

何処で聞いたのだろう?と考えている間に扉が開いて、お辞儀をする二人。

「桂木常務、明日から専属に成ります新人の堂本聡子を連れて参りました」

窓の外を見ている桂木、顔を上げる二人。

「籠谷課長、堂本君に少し話しが有るので、先に帰って良いぞ!」

その様に言われた課長がお辞儀をして、立ち去ろうとした時、桂木常務が振り向いて「ご苦労さん」と言った。

「失礼します」と後ろに課長の声を聞きながら「あっ、か。。。」と口走る聡子の驚いた顔。

籠谷課長はその様子には気づかずに部屋を出て行くと聡子は「加山さんですよね!」驚きながら尋ねる。

「そうだ加山は芸名だな、この様な場所で会うとは思わなかったな!」微笑みながら言う。

「いつからご存じだったのですか?」

「最終選考の履歴書を見た時に気が付いた。これから仲良くしよう!加山の事は忘れてこれからは常務と秘書で付き合って欲しい」

「それはどう言う意味でしょうか?」

「君が風俗に勤めていた事は内緒にしてやるから、これからは大人の付き合いをしようと云う意味だ」

「えー、その様な事は出来ません、その様な事をするのなら暴露して会社を辞めます」恐い顔の聡子。

「この様な大企業の本社秘書課に就職出来たのに、つまらない事を話して恥をかいて辞めるのかね」

「それも覚悟です!私が口外すれば加山、いえ桂木常務もお困りに成られますよ!それでも良いのですか?」

「ははは、私の風俗が好きな事は誰でも知っているから、言うなら言えば良い事だ!銀座の行きつけの居酒屋でも有名だぞ!」笑いながら言う。

そう言われると何も言えなく成る聡子に「お父さんの病状はどうだ?」不意に尋ねる。

遠い記憶を呼び戻す聡子は、加山が父の職場を知っていた事を思い出した。

「思い出した様だな、身体に負担が無い部署に代っただろう?」

そう言われて顔色が変わった聡子に「この会社は日本国中、いや世界国中に取引先が有るのだ!君の気持ちひとつで、お父さんの状況も変わるし、家族にも風俗で働いていた事が知られてしまうぞ!それでも良いのか?」

「。。。。。。。。。。。」放心状態の聡子。

「まあ、急な事で驚いただろうが、昔は客と風俗嬢で時間の制限も有ったが、これからそれは無く成った、楽しく仕事をしたいだろう?また後日返事を貰えれば良い!」微笑む。

「。。。。。。。。。。」言葉を失った聡子。

「何を深刻に考えているのだ!私は君の身体の隅々まで知っているのだぞ!本番行為はしていないがな!これからは真の付き合いをしようと云う事だ!よく考えて後日返事をくれ!変な事を考えると総てを失う事になるぞ!」そう言うと再び笑い始める桂木常務。

項垂れて部屋を出て行く聡子は正に天国から地獄の心境に成っていた。


自宅に帰ると父の治が上機嫌で「お帰り、仕事はどうだった?丸の内の本社の居心地は?」と尋ねた。

母の昭子が「お父さん機嫌が良いでしょう?今日ね!係長に昇進したのよ!大病に成って雇って貰えるだけでも有り難いのに、楽な職場に配属されて、今度は係長に昇進するなんて夢の様だわ」そう言って身体一杯に喜びを表わす母。

「えー、係長に成ったの?」と驚いたが、脳裏に桂木常務の顔が浮かんで、私に対する脅迫?と思い始めると急いで自分の部屋に駆け込んだ。

「どうしたのだろう?会社で何か有ったのかな?」父の治が聡子の態度に心配をする。

「初めての職場で、緊張していたのでしょう」

二人は二階に走って行った娘を楽観的な目で見ていた。

聡子はその夜一睡も出来ずに、会社の事、家族の事、恋人の晴之の事を次々考えていた。

晴之に相談出来る内容では無いので、自分が一人で悩むしかない状況。

翌日目が腫れぼったい状態で、食事もしないで会社に向かう聡子。

いきなり籠谷課長に「何ですか?いきなり夜遊びですか?鏡を見てきなさい!」と叱られて洗面所に走って行くと、そこには暗い顔で、化粧も殆どしていない寝起きの熊の様な姿が映っていた。

戻ると籠谷課長が「彼が桂木常務の秘書の小塚敬一君よ!」と聡子に紹介した。

お辞儀をしながら、昨日の一件は無しに成ったのだとほっとしていると「場所によっては、男性より女性の方が良い場合が有るので、堂本さんは小塚君のサブで、本日から桂木常務の秘書として、頑張って下さい」そう言われて、脆くも崩れた考えに暗雲を感じた。

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