7章(5)


「……楽しかったな」


 遊馬は地面に仰向けになり、目を閉じた。

 すっかり覚悟を決めた顔をしている。


「早いねん走馬灯! まだ立てるやろ」


 そう叱責しつつ、晴川は油断なく銃剣を社長の首元に押しつけている。


「いや、これキッツいわ……」


 遊馬の肩ともも、そして腹に短い矢が突き刺さっている。

 特に腹の傷は深そうだ。

 スーツの紺色が広範囲に濃くなっている。

 大量に出血しているのだろう。


 弓鳴が手助けにきて、僕と二人がかりで遊馬を持ち上げた。

 遊馬が大きなうめき声を漏らす。


「祐介さん、……置いていってください」


。君には、アルノ川で助けてもらった恩がある」


 あのとき、僕は足を痛めてひとりではまともに歩けなかった。

 森口のことで誤解があったとはいえ、匠司は見捨てるつもりだったし、遊馬が連れていくと言い張らなければ、弓鳴だってどうしたか分からない。

 遊馬が力なく笑った。


「……あれいつでしったけ。前世くらい、遠くに思えますね……」


 僕たちは社長の手を縛り、最後尾に置いて姿の見えない敵の追撃を牽制けんせいしつつ、弓鳴が事前に見つけておいた林道を下って別荘ヴィッラを離れた。

 マキャベリが松明たいまつを持ち、先導する。

 図体が大きい上に筋肉をつけているので、遊馬はとても重かった。


「森を抜けると……、街道の近くの野原に出ます」


 さすがの弓鳴も、息が激しく乱れている。


「……すごく嫌な予感がするんだけど」


 ここまで周到に罠を張り巡らしている教皇軍が、この道を見逃しているとは思えない。もちろん、弓鳴もそれは分かっているはずだ。


「突破するしか、ないです」


 しぼり出すように答えた。

 森林を抜け、視界が開ける。

 野原で僕たちを待っていたのは――

 ヴァレンティーノ公チェーザレ、それに六人の兵士。

 人数だけを言えばこちらの方が多いが、非戦闘員が多い。

 まともに戦えるのは、僕と弓鳴、晴川、それに三人の社員だけだ。

 教皇軍の兵士たちは、小型の弓を地面と水平に構えていた。


「あの弓……!」


 おそらく、先ほど僕たちを襲った弓と同じものだろう。

 弓鳴は既にその正体に気づいていたようだ。


「機械仕掛けで矢を飛ばす弓、俗に言うクロスボウです。射程は短いですが、短い訓練で誰にでも扱うことができて、殺傷能力が高い」


「……ちょっと、ここで待っていてくれ」


 僕と弓鳴は遊馬を地面に下ろした。

 答えるのも辛そうで、無言だった。

 チェーザレが、後ろ手に縛られている社長に明るい声を掛けた。

 

「ダイキ、無様ぶざまだな。しかし安心したよ。貴殿も人間だったわけだ」


 心配など微塵みじんも感じられず、愉快そうですらある。 


「敵を案内して、閣下に花道を作って差し上げたのですよ」


 社長は胸を張り、傲然ごうぜんと言い放った。

 チェーザレは微笑を浮かべてうなずいた。


「――では感謝するとしよう。さて、フィレンツェ政府の代理人たちよ、投降を認める。そうでなければ、導師様以外の者は、ここで人生を終えていただくことになる」


 マキャベリが、大きな身振りでチェーザレに猛然と抗議した。


「あなた方は、最初から条約を結ぶつもりがなかったのですね! この半年間の友情はなんだったのですか!」


 チェーザレが悲しげに目を伏せた。

 なぜか、それが作り物の表情ではないと感じられた。

 

「ニコロ。あなたには大変申し訳ないが、これは教皇聖下のご裁断なのだ」


「しかし――国同士の約束事をこんなに乱暴にくつがえすなど!」


 それは、ほとんど絶叫に近かった。

 チェーザレがマキャベリを見つめる。

 そこに、先ほどまでの罪の意識は感じられない。

 

 

「教皇聖下は神の代理人である。ニコロ、あなたは、?」


 歌うように言い、手にした剣を顔の前に掲げた。

 刀身に月光が走る。水平に伸びるつばと長い柄。

 交差した金属が形作る十字架が僕たちに向けられる。 


「――降伏はしない」


 僕ははっきり告げた。

 こんな騙し討ちをする相手に、無抵抗で捕らわれるわけにはいかない。

 手元を確認した。銃には、館を出る前に短剣をつけている。

 チェーザレは、無感動にうなずいた。


「残念だ」


 

 脳内に溢れる神経伝達物質によって引き延ばされた、長い一瞬。

 僕はそれを静止画のようにた。


 ある者は機械仕掛けの弓クロスボウの引き金に指をかけ、

 ある者は火縄銃の狙いを定め、

 ある者は剣を構えて駆け出し、

 ある者は頭を押さえて屈み込み――


 この場に膨れ上がった殺意が弾け、時間が加速する。


 僕は正体不明の万能感に突き動かされていた。

 ――ヴァル・ディ・トッリの防衛戦で初めて他者の命を奪ったときのように、できるはずだ。

 銃剣を構え、チェーザレに向かって走る。

 ためらいはない。恐れもない。

 深く踏み込み、首を狙って突く。

 チェーザレは剣を斜めに構えると、僕の突きを刀身で受け止めた。

 銃身を刃の上で滑らせ、剣を返す。

 僕の持つ銃は、あっけなく地面に叩きつけられた。

 二秒にも満たない出来事。

 チェーザレが無防備になった僕に鋭い突きを放つ。


「祐介さん!」


 いつ、立ち上がっていたのだろう。

 僕の前に、遊馬が飛び込んできた。

 ほとんど体を投げ出すようにして。

 チェーザレの剣が遊馬の胸を貫く。

 遊馬がその刀身を握ろうとする。

 

 こんなときに、なぜ田中の手のことを思い出したのか――

 

 しかし、チェーザレの剣は遊馬の手につかまらない。

 チェーザレは左手で遊馬の体を払って剣を引き抜くと、すぐさまそれを僕に向かって振り下ろした。

 誰かが発砲したのだろう、すぐ近くに光源が生まれて、チェーザレの顔を明るく照らした。深い灰色の瞳から、純粋な殺意がほとばしっている。

 剣というより、死そのものが降ってきた。

 

 そう思った。


「しゃーないな、もう!」


 銃声が立て続けに響いた。

 チェーザレの体が止まった。

 鎧が砕け、胸に赤黒い飛沫しぶきが跳ねる。

 チェーザレは胸を押さえ、よろめき――

 と仰向けに倒れた。

 その口から、血の泡が溢れ出ていく。


 僕の隣に、晴川が立ってた。

 その手に銃。

 火縄銃ではない――


「あー、やってもーた」


 晴川はチェーザレに近づくと、さらに至近距離から頭に二発を撃ち込んだ。

 チェーザレの体が小刻みに痙攣けいれんし、動かなくなる。

 その顔には、撃たれたときの驚きの表情がこびりついていた。

 理不尽さを訴えているようにも見えた。

 こんな場所で、こんな形で命を落とすとは、想像もしていなかっただろう。


「晴川――」


 

 黒い小型の拳銃。

 この時代の製造ではありえない。

 みな自分のことに手一杯で、他に目撃者はいないようだ。


「……今度、話しますんで」


 晴川が強張った顔で言った。

 戦闘は終わっていた。

 壮絶な命のやりとりの末、相手は全滅し、社長は混乱に紛れて姿を消した。

 生き残ったのは、僕と弓鳴、晴川、社員が一人、マキャベリ、サヴォナローラ。

 そして……


 遊馬の時間が尽きかけていた。

 矢を受けた時点で重症だったが、チェーザレに刺された胸の傷は致命傷だった。

 顔が血の気を失い、唇が紫色に変色し、かさかさに乾いている。

 その体を野原に横たえ、周りを囲んだ。


「アホが、B級アクション映画の観すぎやろ。カッコつけもたいがいにせえよ」


 いつも飄々ひょうひょうとしている晴川が、目に涙を浮かべている。

 弓鳴は子どものように泣きじゃくっていた。


「ごめんね……別荘に行かずに逃げるべきだったのに、チェーザレと社長を捕まえれば戦争を止められるって思って……、私のせいで……」


 遊馬は小さく息を吐いた。


「……おれ、おまえらが好きだよ。同期で良かった。みんな癖が強いし、歳の割にガキっぽいけどさ……」


「それ、あんたにだけは言われたくない!」


 弓鳴は笑い、それからまたしゃくり上げた。

 遊馬が僕を見た。目から、ほとんど光が失われかけている。


「……祐介さん、お先です。ねえ、二十一世紀でも出世してくださいよ。そんでまた……みんなで仕事がしたいです」


「ダメだ、二十一世紀は遠すぎる。一緒にフィレンツェに帰ろう。仕事が待ってるじゃないか。ミラノに支社を作るんだろ」


 僕も感情を抑えられなかった。

 涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていたと思う。

 遊馬悟。

 会議で沈黙が訪れると、必ず何か言葉を発してそれを埋めた。取るに足りない内容でも、その一言が呼び水になって、別の誰かが口を開いた。

 その姿勢に、どれだけ救われてきたか分からない。

 たとえ口論でも、話し合いが続けば、どこかにたどりつける。

 簡単そうで何より難しいことをしてくれていた。 

 

「おれも帰りたいですけど、ちょっとムリっぽいんで……、靴を、持って帰ってもらえますか。って、あいつに……」

 

 遊馬が目を閉じる。

 口だけを動かして、笑った。


「あー、死にたくねえな……」


 遊馬の頬を一筋の涙が伝う。

 静かに息をつく。

 それが最後だった。

 あたりに静けさが満ちる。

 おれは涙を拭って立ち上がった。


「……行こう。社長が戻ってくる」


 遠くから、松明の灯りが連なって近づいてくる。

 火葬する時間も、遺体を運ぶ余裕もなかった。


 僕たちは遊馬の靴を脱がして、その場を離れた。

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