6章(2)

 弓鳴は、今年の夏にトスカーナ地方でペストが流行することを知っていた。

 ネズミや猫などに寄生するノミを媒介にして、爆発的に拡散するという。僕たちの住居はこの時代の水準に照らせばかなり清潔な方だろうが、油断はできない。村はもちろん、フィレンツェとも革製品や農作物、食料品など頻繁に物が行き来している。そこにノミが紛れ込む可能性は十分にある。

 症状が悪化し肺が菌に冒されると、人間同士の感染も起こるという。夏の間は、極力、人混みを避けた方が無難だろう。早めに買い溜めの計画を立てなくてはならない。


「ペストのことをマキャベリに知らせたら、まずいかな? 歴史改変に繋がる?」


 いまのうちに警告をしておけば、被害を減らせるかもしれない。

 弓鳴は眉を寄せ、思案深げな顔をした。


「ン――どうだろう。母国から流行の噂を聞いた、というくらいの注意喚起なら問題ないんじゃないでしょうか。実際、東の方から流行が広まっていったようだし……」


 その案を借りて、マキャベリに手紙を書くことにした。


 × × × ×


 一週間ほどで、返信があった。

 その手紙はフィレンツェの靴屋に預けられ、製品を納めに行った社員がそれを持ち帰った。


『サヤマ、貴重な情報をありがとう。君の母国で講じているという対策を、さっそく市民に通達した。ネズミやネコの駆除、廃水の清浄化、集会の禁止、女性や子どもの事前避難。我らが司祭様サヴォナローラにも、積極的に説教の中で取り上げていただいた。五月に教皇から破門されたばかりだというのに、まったく説教を止めるきざしがないのだから、恐れ入ったよ。しかし、効果は期待できるはずだ。彼は人間の本質を知らない。それでも、ということについては、専門家だ」


 八月になった。

 ペストが北イタリア全域で猛威を振るい、各都市で何千何万という数の死者が出たが、事前の対策が功を奏したのか、他国と比べてフィレンツェの被害は著しく少なかったようだ。ただ、思わぬ副作用があった。


『お蔭で、疫病による被害は、以前ほどではなかった。深く感謝する。困ったのは、市民たちが、サヴォナローラの預言が当たったと騒いでいることだ。情報を与えたのは神ではなく、君であり、私なのに! あのボウズは、それをあえて否定しない。使えるものは、なんでも使う。腹が立ったが、むしろこういう狡猾こうかつさは、見習わないといけない。』


 僕に愚痴を書き送ることがストレス発散になっているのだろうか。

 マキャベリは、よく手紙を寄越した。筆まめというのか、僕が返信を出さないのに、二通、三通と連続して届くこともあった。おかげで、フィレンツェで何が起こっているのか、手に取るように把握することができた。


 ペストの終息後、バスティアーノの持っていたリストを元に市内でメディチ派の取り締まりが行われ、関与が明らかになった者は処罰された。中には、政府の要職についていた大物もいた。ピエロ・デ・メディチについても侃侃諤々かんかんがくがくの議論が持ち上がったが、ひとまず処刑はまぬがれたようだ。


 この頃、マキャベリには肩書が増えた。

 現代の感覚で言えば首相に当たる『正義の旗手ゴンファロニエーレ・ディ・ジュスティーツィア』という職があり、その秘書官を、第二書記局の仕事と兼任することになったのだ。数ヶ月前まで無名だった青年に、大きな権力が集中しつつあった。マキャベリはそのいびつさを自覚しており、やや下品な表現を用いて、こんな風につづっている。


『この街では、権力闘争が何より一番の娯楽なのだ。目立てば叩かれるのは、食事をすれば屁が出るのと同じくらいに自明のことでね。常に謙虚でいなければ、生き延びることはできない。』


 ペストに関する『預言』がどれだけ影響を与えたのかは分からない。しかし、刑死するはずの一四九八年になっても、サヴォナローラの人気はまったく衰えなかった。

 そんな中、マキャベリは対外戦争と外交をつかさど十人委員会ディエチ・ディ・バーリアに対し、ピサ攻略作戦を上程する。


『私はこの計画で、市民の信頼を預言者から政府へと引き寄せるつもりだ。』


 ピサはフィレンツェの属領だったが、フランス軍の侵攻でフィレンツェ政府がゴタゴタしている隙をついて独立を宣言した。これは、フィレンツェからすればになる。そのときのフィレンツェの権力者が、ほかでもない、ピエロ・デ・メディチだった。


『ピサを制圧すれば、かつてピエロが犯した失策をいまの政府が挽回したと格好がつく。。いま、この計画を成功させて流れを変える。』


 気分の高揚が筆に乗り移ったのか、文字が弾んでいる。

 フィレンツェには自国民による軍隊がない。莫大な費用を払って、有名な傭兵団を雇ったようだ。

 弓鳴にその話をすると、渋い顔をした。


「その作戦は、史実より一年半も早いですね。どちらにしても、傭兵に頼る以上、結果は変わらないと思いますが」


「負けるんだ?」


「この時期のピサは、フランスやヴェネツィアの支援を受けていて、かなり手強いんです。そもそもマキャベリ氏は、優れた観察者、批評家、歴史家ですけど、戦争の指揮官としては有能でもなんでもないんですよ」


 自分に任せろと言わんばかりの口調だ。


「……何か警告した方がいいかな?」


「放っておきましょう。やっぱり、歴史を変えるのは怖いですよ」


 ペストの被害を少なくするために警告したら、サヴォナローラに力を与えてしまう結果を招いた。その反省があり、今回は何も伝えないことにした。


 一四九八年二月、フィレンツェ軍がピサに向けて出発。

 マキャベリ自身も副官として従軍した。

 政府が雇った傭兵隊は敵国の領地を制圧し、要塞を奪い、ピサの都に迫る。市壁の一部が臼砲きゅうほうによって崩れ落ちたとき、マキャベリは勝利を確信しただろう。しかし兵が突入するのと同時に、隊長から撤退命令が下る。どうやら、市街戦で自軍が損耗そんもうすることを避けたかったようだ。フィレンツェ市民は大いに落胆した。政府は激怒し、なんと傭兵隊長を反逆罪で処刑してしまう。


『傭兵を信じすぎた。ああ――やつらは見せかけの戦いをして、何日も時間を稼いだんだ!』


 それでもマキャベリは諦めなかった。

 今度はフランス王と契約を結び、スイス傭兵を雇い入れ、万全の体制でピサを再度攻撃。が、数ヶ月かけたこの軍事行動も失敗に終わる。フランス王の気まぐれで軍は迷走し、スイス傭兵団も言うことを聞かずに解散してしまう。踏んだり蹴ったりだ。

 このときの心境を、マキャベリは手紙に簡潔に綴っている。


『逃げたい。』


「だろうね」


 管理職の悲哀が滲む文章に、同情を禁じ得なかった。

 サヴォナローラは、この敵失を見逃さなかった。

 フィレンツェ政府を公然と非難し、いまこそピエロ・デ・メディチを処刑にすべきだと唱える。この扇動に乗った市民たちが、市庁舎パラッツォ・ディ・シニョリーアへとなだれ込んだ。護衛兵が追い出したものの、市民たちは広場に留まって抗議の声を上げ、政府と一触即発の状態となった。

 その内輪揉めは、意外な人物を刺激した。

 キリスト教世界の君主、サヴォナローラの天敵。

 教皇アレクサンデル六世である。


「フィレンツェは神の寵愛ちょうあいを失い、悲劇的な混沌の只中ただなかにある。これを収め得る執政者は、メディチをいて他にない。異端の僧に率いられたいまの政府は、滅ぼさなければならぬ。それを支持するならば、市民もまた同罪である」


 教皇は、自分を飽きることなく責め続けるサヴォナローラはもちろん、彼を罰しないフィレンツェ政府に対しても、怒りを溜めこんでいたのだろう。ピエロの実弟である枢機卿すうききょうのジョヴァンニ・デ・メディチが、教皇に共闘を働きかけた節もある。

 教皇が発した、この激しい宣告は、瞬く間にイタリア半島中に広まった。


 僕たちも傍観者ではいられず、大きな渦に呑みこまれようとしていた。

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