【2章】川の中にいる!

2章(1)

 目を覚ましたとき、視界のすべてを弓鳴ゆみなが占めていた。

 弓鳴は意識を失っているようだ。

 頬に影を落とす睫毛まつげの一本一本が見える。

 鼻同士が触れそうなほど顔が近い。

 僕たちは抱き合ってエレベーターの箱の中に倒れていた。

 強い衝撃が加わったせいだろう、箱の壁や天井が大きく歪んでいる。幸いドアが開いたままで、そこから強い光が射し込み、周囲は明るかった。


 それにしても――

 この距離は、この体勢は、非常にまずい。

 身をよじって弓鳴から顔を遠ざけたとき、足に激痛が走り、思わずうめき声が漏れた。片足が、がれ落ちたエレベーターの内壁の下敷きになっていた。

 壁に貼りつけられた鏡に自分の顔が映っている。

 まぶたが腫れぼったく、眠そうに見える。きれいに七三で分かれた髪。やや面長で、幼い頃からよく草食動物にたとえられてきた。

 すぐ近くで声がした。


「なっ――」


 弓鳴が怒気をはらんだ目で僕を見上げていた。

 早急に釈明する必要があった。

 僕は弓鳴に覆い被さる体勢になっていた。


「落ち着いて聞いてくれ(パンッ)、エレベーターが揺れて箱が落ちるんじゃないかと思って(パンッ)、おれは身をていして君を守ろうとしたんだよね」


 途中に入ったパンッというのは、弓鳴の手のひらが僕の頬を打った音である。

 往復している。


「セクハラ! 知ってますよね、既婚者の違反は二倍刑!」


 至近距離から怒鳴られた。

 『社律』のセクハラに関する罰則は重い。

 社長は社内の女性には一切手を出さなかった。コローレは創業者一族からの縁故採用が多い。さすがの社長も、身内の目を気にしたのだろう。

 おれが我慢しているんだから、おまえたちもするな――

 社長の言葉は、下品な性根を全開にしているだけに、強い説得力があった。


 改めて弓鳴に弁明しようとしたとき、足を再び激痛が襲った。

 自分で手を伸ばしても、体勢が悪くて壁まで届かない。


「足が挟まってるんだ……、ちょっと壁を持ち上げてもらえないか? 一瞬でいい」


 弓鳴は僕を押しのけて立ち上がり、冷ややかな目で見下ろした。


「二年前、あなたは弱っている相手に何をしました?」


「……なんの話?」


「森口くんのこと、忘れたとは言わせませんよ」


 まったく目が笑っていない。

 背筋に寒気が走った。

 弓鳴が口にしたのは、二年前に死亡した社員の名だ。

 そうか、弓鳴と同期入社組だったか――


「彼のことは、気の毒だった」


「他人事ですか。労基に行ったことを社長に告げ口したくせに」


「労基? なんの話だ」


 森口透もりぐち とおるは、営業局に所属していた。二年前に、自宅駐車場の車の中で練炭を焚いて自殺。過労死が疑われたが、経営戦略局が中心となって、世間からその死を隠蔽した。僕が知っているのは、それだけだ。

 過労死――

 急に、あの告発記事のことが思い浮かんだ。


! 今朝ネットに出ていた、会社をおとしめるニュース記事。あれは君がリークしたんだな? 森口くんの仇を討つために」


「……は? ニュース記事? 知りませんけど」

 

 僕たちはにらみ合った。

 至近距離から互いに言葉の弾を撃ちあって、それがまったく相手に当たらないという奇妙な状況だった。

 水が激しく流れる音が聞こえる。

 古いビルだ。先ほどの地震で、老朽化した配水管が破損したのかもしれない。

 微震がやってきた。

 弓鳴がよろめき、壁に手をつく。僕の足を潰している壁に。


「痛い痛い痛い!」


 弓鳴が慌てて壁から手を離す。

 ほどなくして、揺れは収まった。


「外に出るまで、休戦しないか」


 痛みをこらえて言うと、弓鳴は険しい顔のまま、黙ってうなずいた。

 腰を落として両手で壁の底を持ち、ふっ、と息を吐くのと同時にわずかに持ち上げる。その一瞬で充分だった。手を使って、足を引き抜いた。

 スラックスの裾を引き、靴と靴下を脱ぐと、くるぶしにどす黒いアザができていた。足の角度を変えるだけで、かなりの痛みがある。

 いったん靴を履き直し、壁に手をついて、片足で立ち上がった。

 弓鳴が横から僕の腕をつかんで支えてくれた。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 まるで感情のこもっていない言葉が返ってきた。

 エレベーターの出入口の天井が、歪んで下に大きく突き出ている。身を屈めて潜り、廊下に出た。

 そこはビルの最上階、五階だった。何度も往復してきた廊下が、いまは不自然に大きく傾いている。あたりに響く、低い地鳴りのような音。どうやら建物全体が小刻みに揺れているらしい。天井の灯はすべて消え、窓から差し込む光が僕たち以外は誰もいない廊下をくっきり白と黒に分けている。


「嘘でしょ……」


 弓鳴がつぶやいて、窓に近寄った。腕を支えられている僕も、それに引っ張られる。

 窓の向こうに、広い空があった。遮る物がなく、嘘みたいに青い。渋谷駅前のビル群は、どこにいってしまったのか。それだけではない。信じがたいことに、このビルは濁流の只中ただなかに立っていた。

 弓鳴が窓を開けると、それを待っていたかのように、どっと風が吹き込んできた。身を切るような冷たさだ。少し遅れて、強い土の臭いがした。


 僕は窓枠を手でつかんで、顔を出した。

 ビルの三階より下は水没し、正面玄関の脇に置かれていた巨大な靴のオブジェが水にもてあそばれて、繰り返し壁面にぶつかっている。『どの一足ひとあしも、さいわいへと続く』――オブジェに刻まれた、会社のキャッチコピーだ。

 水流の激しさと濁った水面に、災害映像で見た洪水のイメージが重なった。

 月島さんの最期の言葉、『』は、このことか。

 起こっていることがあまりにも日常を超越していて、頭がどうにかなってしまいそうだ。

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