1章(2)
経理部長からだった。
『月島局長 CC茶山課長
役員会議用に提出した月次資料に誤りがありました。累計の数字が、一部、元データとずれております。大変失礼しました。ただいま修正中ですので、あと十五分ほどお待ちください。』
このまま資料を作れば、僕の責任になってしまう。
というか十五分後って――
朝礼の五分前じゃないか!
高速で返信メールを打ち始め、
『ハイ分かりました……ってなるか! 絶対に許さない。』
そこで指を止めた。
年上じゃないか。
経理部長は四十八才、一回り上の大先輩だ。
息をゆっくりと吐き出す。
脳を占めた怒りの感情を
人はなぜ仕事でPCを使うのか?
便利だからというだけではない。
PCはいちいち怒ったり悲しんだりしないからだ。
仕事中、人は柔らかい機械であるべきだ。
バックスペースで文字を削除し、頭から書き直した。
『ギリギリになってもいいので、正確な数字をお願いします。』
諦めるな――
五分でやれることを考えるんだ。
そこに、上司の月島さんから携帯に電話がかかってきた。
巻き込み
僕は飛びつくようにして携帯をつかみ、応答ボタンを押した。
「はい、茶山です」
「今すぐに電気室に来たまえ」
月島さんは、いつも生徒に接する先生のような話し方をする。
「はっ、電気室……ですか?」
そんな設備があることすら、初耳だった。
「場所が分からなければ、総務の誰かに聞くといい……」
気のせいか、声が苦しそうだ。
「局長、いま他に人がいないので、私があれやこれや対応しておりましてですね、席を離れる時間が――」
「全部、後回しで構わない。早くしたまえ! 私は十三分後に死ぬ」
そこで電話が一方的に切れた。
僕は呆然として作業中のPCモニターを見つめた。
社長に指示された仕事を、すべて投げ出す――
出勤途中に会社とは反対方向の電車に乗るくらい魅力的な話だが、0.2秒で、『ダメ、絶対』と理性が教えてくれた。
しかし、月島さんの口ぶりは、ただごとではなかった。
十三分後に死ぬ?
大げさな比喩表現だとしても、無視するわけにはいかない。
社長には、月島さんが作業に横槍を入れた事実を話すことにしよう。
それが社長の
× × × ×
管理局総務部に、ひとり社員が残っていた。
年齢は、ちょうど僕の十歳下、今年で二十七になるはずだ。
前髪のあるショートボブがよく似合っている。
ゆったり感のある白いニットセーターに黒のテーパードパンツを合わせ、足元は自社のパンプス。シンプルだが、上品で清潔感のある恰好だった。
「弓鳴さん、ちょっといいかな」
声を掛けると、大きなアーモンド型の瞳が僕に向いた。
童顔で、どことなくリスを連想させる顔立ち。
ただ、目付きが異様に険しい。
好意がまったく感じられず、攻撃的ですらあった。
弓鳴はスリープモードになったPC画面を指した。
「良くないです。もう朝礼に行くんで」
はっきりと断られて、面食らった。
仕事で関わったことは数えるほどしかないが、弓鳴の評判は聞いている。
総務の狂犬。
感情表現がはっきりしていて、気に食わないことがあると、上司にも平気で噛みつくという。『みんなで守ろう年功序列』が浸透したこの会社にあって、かなり異端なキャラクターだといえる。
「電気室の場所を教えてもらえないか?」
弓鳴は僕の目を見ずに、一息で言った。
「エレベーターで地下にいって右に曲がって突き当りを左に曲がって三つ目の扉を開けて左手の二つ目の扉の中です」
「いや、絶対嘘だよねソレ……」
僕が所属する経営戦略局は、社長の秘書として動く関係上、強い権限を与えられている。僕は課長に過ぎないが、社長の名を出して、他局の部長、ときには局長クラスに指示を出すこともある。虎の威を借る何とやらで、嫌われるのも無理はない。茶山という名字をもじって、『
「説明通りに行ってダメだったら、また聞いてください」
弓鳴は挑発的な態度で腕を組んだ。
噂に聞く以上の
高圧的に接して、揉め事を起こすのは得策ではない。
こういうとき、やり手の課長はどうするか?
「月島局長から、いますぐ来いと呼ばれているんだ。頼むよ」
全力で下手に出る。
年上に謙虚な態度を取られると、たいてい、萎縮するものだ。
「嫌です。もう朝礼に遅刻して罰金を食らいたくないんで」
手強い。実に手強い。
「罰金、取られたことがあるんだね」
「ええ、吐きそうな額を」
遅刻の罰金は、一分が千円相当だ。しれっと給料から差し引かれる。
額が多い場合は、法律に抵触するのを避けるために、ボーナスで調整される。
「頼むよ。『社律』違反のペナルティは、月島さんが何とかする。と、思う」
弓鳴が形のいい眉を寄せた。
「思う、って言いました、いま?」
「する。局長が。何とか」
「信じられませんね、茶坊主さん」
「さん付けしても失礼だからね、ソレ」
「どうしてもというなら、月島局長が責任を取ると明言してください」
弓鳴が携帯を僕に向かって差し出した。
ピッ、と小さな電子音が鳴る。
録音?
本気か。
いや、むしろ僕も局長の声を録るべきだった。
ここは戦場なのだ。
「経営戦略局の茶山です。本来は朝礼の時間ですが、月島局長の指示で、弓鳴さんに電気室まで案内してもらいます」
僕はことさらに『月島局長の指示』と言うところに力を込めて言った。
ピッ。
弓鳴は、ようやくデスクから立ち上がった。
膝に置いていた手帳が床に落ち、何か小さなものがこぼれ出た。
「あ――」
僕はとっさに屈んでそれを拾った。
イラストが描かれたシールのようだ。
西洋風の甲冑を着た美少年が、流し目で、『おまえだけだ』と言っている。
弓鳴がそれを僕の手から奪い取った。
顔が真っ赤になっている。
束の間、沈黙が流れた。
弓鳴が、言葉を細かく区切ってゆっくりと言う。
「あなたは、何も、見なかった」
「はい」
答えると、弓鳴が微笑んだ。
命の危険を感じた。
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