第8話 夕焼けにふたり想う

目蓋の向こうが、真っ赤に染まっている気がした。


ゆっくりと目を開くと、変わらず世界は赤く染まっている。視界に映る、部屋のなにもかもが赤に変わっていた。


窓の外へと視線をやると、建物も、道も、空も、雲も、すべてが赤い。空気すら染められたかのような赤に、思わず声を漏らす。


「おぉ……」


真っ赤に染め上げられた世界の向こう側に存在するのは、それ以上に赤く燃えているような太陽だ。


その景色に圧倒されていると、少しずつ、他の感覚が蘇ってくる。


赤い世界に漂う空気は、やけに焼肉臭がしている。窓は開けていたのだが、どうやら抜け切らなかったらしい。綺麗な景色には似合わない、胸焼けしそうな匂いだ。


ただ、それを上回る魅惑の甘い香りと、柔らかな感触。ぴったりとくっついているせいか、少し暑い。


俺の腕の中で眠っている蒼衣は、俺が動くと同時に、んぅ、と声を漏らす。少し暑そうにしている蒼衣を見ると、なんだか申し訳なくなる。


半ば強引に抱きしめて寝たからな……。


アルコールが入ると判断能力が鈍る、なんて言われるが、たしかにそうなのかもしれないな、と思う。……少なくとも、普段の俺はあまりしない行動だ。


なんとなく恥ずかしくなって頭を掻く。


その少しの動きに反応したのか、蒼衣はゆっくりと目蓋を開いた。


「ん……おはようございます」


「おう、おはよう」


「ふぁ……。わあ、随分と赤いですね」


目尻の涙を指で拭いながら、蒼衣も窓の外を眺める。


「綺麗ですねぇ」


「だな。……少し散歩でも行くか?」


「珍しいですね。先輩がお散歩に外に出ようなんて言い出すの」


「そんなことないだろ。……いや、あるか」


俺、基本的に用がないと外に出ないからな……。


「そんな珍しい先輩のお誘いですけど、今日は部屋で過ごしたいです。お散歩は今度行きましょう」


「そうか? ならそれでいいが」


俺の言葉に、蒼衣は俺に抱きついたまま、こつん、と頭を胸に当てる。そんな彼女の頭を撫でながら、俺は思ったことを口に出す。


「……蒼衣、俺からやっておいてなんだが、暑くないか?」


「暑いですよ。離れませんけど」


「えぇ……」


「だって、こうしていたいから、お散歩にも行かないって言ったんです」


えへへ、と笑う蒼衣に、俺はどきり、として小さく息を吐く。


「あ、せっかく景色が綺麗ですし、先輩、座ってください」


そう言って、蒼衣は俺から離れて起き上がる。そして、ベッドの端をぽすぽすと叩く。


「ん? ここか?」


俺は、指示された場所へと腰掛ける。それを見た蒼衣は、満足そうにひとつ頷いて──


「はい。それで……よしょ、失礼します」


「は!?」


蒼衣は俺の足の上に腰を下ろした。


ふわり、と香る甘い匂いはもちろん、普段触れる部分とは違う柔らかい感触を、普段触れない場所に感じる。……この位置はまずい。


「……何これ?」


戸惑い半分、誤魔化し半分に問いかけた言葉に、蒼衣は答えることなく、


「はい、先輩、腕を前に回して、後ろから抱きしめてください」


まるで、ストレッチを教えるかのようにそう言いながら、蒼衣は俺の両手をそれぞれ掴み、自分の前へと回す。とりあえず、そのまま蒼衣を抱きしめてみる。……どういう状況なんだ、これ……。


「……で、やっぱりよくわからないんだが、何これ?」


「特に深い意味はないですよ。景色を見ながら、先輩とはくっついたままいれるだけです」


蒼衣の声は、心なしか嬉しそうだ。それはいいのだが、問題がひとつ。


……その位置に座られるのは、色々とまずいんだよなあ。


蒼衣が身動ぎするたびに、柔らかい感触が伝わってきて、何とは言わないが、どうしても反応してしまうものはある。……どうにか、気づかれないといいのだが。


そんな俺の葛藤はいざ知らず、蒼衣は外の景色を見ながらぽつり、と呟いた。


「……もう紫色が混じってきましたね。せっかく夕焼けが綺麗だったのに」


「ん? ああ、まあでも、これはこれで綺麗だと思うが」


言われてみれば、先ほどまでの真っ赤な世界に紫色が差し込まれている。これはこれで幻想的だ。


「そうですけど、なんだか名残惜しいというか……。もうちょっとだけ、見ていたかったなー、と思いません?」


「まあ、それは思う。でも──」


真っ赤な夕焼けは、そういつだって見れるものではない。どういう原理かはよく知らないが、条件が揃ってはじめて見れるものなのだろう。だからこそ、もう少し見ていたいな、と思う気持ちはわかる。けれど、きっと。


「少しの間しか見れないから、いいのかもしれないぞ」


「それもそうかもしれませんね。毎日見ていたらきっと、綺麗だー、なんて思わないですよね」


外を眺めながらそう言う蒼衣の頭の上に、俺は顎を載せる。なんとなく、載せてみたくなったので載せてしまったが、蒼衣は抵抗することなく、そのままだ。……これ、ちょっと楽だな。


そんな風に思っていると、蒼衣がくすり、と笑う。


「……にしても先輩、ずいぶんと気取ったというか、詩的なことを言いますねぇ」


「……」


言われてみれば、たしかに。指摘されると恥ずかしいな、これ……。


「……聞かなかったことにしてくれ」


「残念ながら、先輩の言ったことを忘れられるわたしではありません!」


……こいつ、今間違いなくにやり、としてるな……。


俺は、微妙な顔をしながら、回した腕を離し蒼衣の顔を後ろから両手で挟み込む。両手にむにゅり、と柔らかく、弾力のある感触が伝わってきて、そのまま両手をぐりぐりと動かす。


「な、なにするんれふか」


「にやついているだろうから潰しておこうかと」


「やめれくらはいー」


むにむにと手を動かす間にも、蒼衣はもごもご喋っているが、手を使って止めるつもりはないらしい。突くのもいいが、手のひらで揉むのもいいな……。たまにはこれもやろう。


「ひなみにへんふぁい」


「ん? なんだ?」


まったく何を言っているのかわからねえ。


俺が顎と手を離すと、蒼衣は髪を直し、自分の頬をむにり、と触って解してから、もう一度話をはじめる。


「ちなみに先輩。さっきは毎日見ると、綺麗なものもそうは思えなくなる、って言ったじゃないですか」


「おう」


ひとつ、息を吸う音が聞こえた。


「……わたしは、どうですか?」


蒼衣は、くるりとこちらを向いて、俺を上目遣いで見上げる。


──どきり、とした。


「……お前といると、楽しいよ」


「はい」


蒼衣との生活は、大きな事件こそないものの、小さな刺激に溢れていて、退屈しない。


……それに。


こいつにどきり、とさせられることは、いつも多くて、慣れるとか、魅力が減る、なんてことはない。むしろ、増す一方だ。


間違いなく、今の俺の方が、蒼衣に告白されたときより、俺が告白したときより、蒼衣のことを好きだ、と間違いなく言える。


「……あとは、まあ、その、なんだ……」


じ、と見てくる蒼衣の瞳から目を逸らしながら、俺は頭を掻く。くそ、恥ずかしいな……。こんなときにこそ、アルコールが入っていればいいのに。


「……ずっと見ていても、ずっと綺麗なものもある、と思う」


そう言うと、蒼衣は少しだけ目を見開いて、嬉しそうに目を閉じたあと、くすくすと笑う。


「……今日は先輩、詩的ですね」


「……これに関してはお前の質問も詩的だろ……」


「そうかもです」


にこり、と俺に笑いかけたあと、蒼衣は元通り、視線を窓へと戻す。なんだか名残惜しくて、俺はもう一度、蒼衣の頭の上に顎を載せる。


「……先輩、これ気に入ってます?」


「ちょっといいな、とは思ってる」


楽だからな。


「……ちなみに、お前は?」


「……変わらず……いえ、前よりもっと、好きですよ」


ほんの少しだけ、蒼衣は俺の顎に頭を擦り付ける。


俺は、蒼衣の前に手を回し、もう一度抱きしめる。


「……暑いなあ」


「……暑いですねえ」


そう呟いて、俺と蒼衣は変わりゆく空模様をゆったりと眺めた。


「……あ、先輩。先輩が無理やり抱きしめて眠ってしまって、プレートが洗えなかったので、洗うの手伝ってくださいね。焦げ取ってください」


「……お、おう」


……忘れてた。あれ、直後に洗うほうが綺麗になるんだよなあ。


急に憂鬱になりながら、俺はしばらく窓の外を眺めた。


……まあ、蒼衣と一緒なら、面倒でも構わないか。会話をしながらなら、きっと面倒なことも、楽しくなるに違いない。

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