第16話 互いに互いを求めて
体を拭き終わった蒼衣に呼び戻された俺は、ベッドにもたれかかっていた。
「……どうでした?」
「どうって、何が?」
「もちろん、私の体を拭いてみて、です」
……ふむ。そんなの、ひとつに決まっている。
「めちゃくちゃ疲れた」
大きくため息を吐いて、ずるり、と体を滑らせる。……首の角度がちょうどいいな……。
「ですよね……。わたしも疲れました」
俺に倣うように、蒼衣もほぅ、と大きく息を吐く。
「なんで言い出した側で拭かれる側のお前が疲れるんだ……」
こめかみをぐりぐりと押しながら、俺は後ろの蒼衣へと視線だけを向ける。もちろん、見えることはないのだが。
「ええと、そうですね……。先輩、想像してみてください」
「ん?」
「先輩は風邪をひいています」
「おう」
「熱で体が熱いなー、お風呂入りたいなー、でも危ないなー、なんて思っていると、可愛い彼女が体を拭いてくれるそうです」
「ほう。……というかお前、頑なに可愛いってつけるよな」
付き合いはじめてからずっとなのだが、基本的に蒼衣は、可愛い彼女、可愛い後輩、と言いがちだ。……いや、間違っていないが。合っているからいいのだが。
「先輩にとってだけは可愛いはずなので。……ですよね?」
確信めいた言葉のあとに、ほんの少し不安そうに同意を求める声。
「……まあ、そうだな。で、話の続きは?」
「あ、そうでした。先輩は服を脱いで、わたしに背中を拭かれるわけです。……想像しました? どうです?」
……うん。蒼衣の言いたいことはよくわかった。それは、まあ──
「めちゃくちゃ疲れるな」
当たり前だ。蒼衣の細く、白い手で触れられるだけで、緊張はとてつもないものになる。……そっちはそっちで耐えるのが大変そうだ。
別に、普段なら耐える必要ももうない。だが、そのせいで耐える精神が弱っているのだろう。いざ耐えろと言われると、それはもうギリギリの戦いだ。
「そういうことです。なので、わたしも疲れました」
「なるほどな。……ちなみに、なんだが」
俺は、ふと気になったことを、蒼衣に聞いてみる。
「なんですか?」
「お前、本当に体を拭きたかっただけか?」
「……7割はそうです」
「残りの3割は?」
「……漫画でしか見たことなかったので、やってみたいなあ、と」
「なるほど……。で、感想は?」
「たしかにこれは緊張しますね。ただ……」
蒼衣は、口角を上げ、ふにゃり、と笑う。今日は、蒼衣の笑い方が緩く、いつもと違う可愛さがあるなあ。
「先輩にお世話してもらうの、結構よかったです。いいものですね、好きな人にお世話してもらうの」
思い返すように、ほぅ、と息を吐く蒼衣に、俺は大きく2回うなずいて。
「それに関してはよくわかる。いいよな。いつもありがとな」
「いえいえ、あれはわたしが好きでやっているので」
「それ、よくわからないんだが、どういう感覚なんだ?」
「うーん……。説明しにくいですね。先輩に出会ってすぐの頃は、この人放っておくと死にそう、だったんですけど」
「……改めて聞いて思うが、やっぱりその評価酷すぎるな」
死にそう、なんて、本当の意味で日常生活を送る中、使うことなんてあまりないぞ。
「そう言われましても。わたしから見て、わあ、この人死にそうって感じだったんです」
「まあ、否定は出来ないが……」
当時の俺がそう見える、というのもわからなくはないのだ。少なくとも、今の生活からあの生活には戻れない。……当時の俺が今の俺を見ても、未来の自分だとは信じないだろうな……。
「なので、あのときは義務感に近い感じですね。でも、今は違いますよ? 今は、そうですねぇ……」
うーん、と思案している蒼衣が目に浮かぶ。くるり、と頭を回し、ベッドを見ると、予想通りの表情の蒼衣がいた。
言葉がまとまったのか、閉じた瞳をぱっと開き、俺の方へとぐい、と近づいてくる。普段より少し近い距離感に、思わずどきり、とする。
「先輩をわたしがいないと生活出来ないようにする、みたいな感じですかね?」
「もうちょっと言い方を考える気はなかったのか……」
「前にもこれ、言った気がしますけど……。というか、こんな話、前もしませんでした?」
「した、かもなあ」
俺と蒼衣の付き合いも、出会ってもう1年以上になる。同じ話くらい、何度かするだろう。むしろ、そんなところすら同じ時間を重ねるが故、というやつなのかもしれない。
「それで先輩。今、わたしがいないと生活出来なかったりします?」
首を傾げる蒼衣。はらり、と髪がひと房落ちるのを見ながら、俺は考える。
衣食住のうち、ふたつを担う蒼衣がいなくなった場合。食事はインスタントへと戻り、服は適当に放置。溜まれば洗濯。掃除も適当で、朝は起きれず大学は遅刻。……うん。
「……出来ないな。間違いなく死ぬ」
「死ぬ自覚あったんですね……」
「今から考えてみれば、だけどな」
蒼衣のおかげで文化的な生活が出来ているのかもしれない……。本当に、色々な面で雨空蒼衣という女の子との出会いは、俺を変えたのだなあ、なんて他人事のように思いながら、俺は口を開く。
「……ちなみに、逆に聞きたいんだが。蒼衣は俺がいないと生活出来なくなったり──」
「しませんよ。わたしは先輩みたいに部屋が大変なことになったり、食事に偏りが生まれたりはしないので」
「だよなあ」
改めて、頼りっぱなしだな、と感じていると、蒼衣が、でも、と付け加える。
「精神的には無理ですね。そういう意味ではわたし、先輩がいないと生きていけませんね」
からかうように、にやり、と笑っているのかと思ったが、今回はそんなことなく。なんだか仕方なさそうに、眉を下げて、へにゃり、と笑っている。それは、なんだか少し幸せそうに見えて。
「……それは、俺も同じかもな」
「……なら、ずっと一緒ですね」
すっ、と布団から出された手を、俺は優しく、それでいて強く握った。
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