第2話 こーるまいねーむ
「はいどうぞー」
その声と同時、目の前のテーブルにごとり、と器が置かれる。
「おう、サンキュー」
器から立ちのぼる湯気と共に香る出汁が、嗅覚に訴えかけ、食欲を刺激する。
器の中には、太めの白い麺に琥珀色の二等辺三角形が載せられていた。
今日の昼食は、きつねうどんだ。
「うどんはお手軽で美味しいですし、いいですね」
「めんつゆかけるだけでも食えるし、便利だよな」
そんな話をしながら、俺と雨空は揃って、いただきます、と呟いた。
そこで、七味をかけていないことに、ふと気づく。俺は、うどんに七味をかける派だ。
「あ、雨空。七味取ってくれるか?」
俺がそう言うと、雨空が何故か七味を手に取って固まった。
「……雨空?」
「……それです」
「それ? どれだ?」
雨空が急に言い出したことを怪訝に思っていると、雨空がバッ、と顔を上げて言った。
「先輩、呼び方を変えましょう」
「……何のだ? 七味か?」
七味に別の呼び方なんてあったか……?
ふむ、と深い思考に入りそうになった瞬間、雨空が叫ぶ。
「違いますよ! わたし! わたしの呼び方です!」
「……雨空の呼び方?」
「はい」
こほん、とひとつ咳払いをして、雨空は続ける。
「まず先輩。わたしたちはお付き合いしていますよね?」
「……そうだな」
「なぜ間があったんですか……?」
「……いや、改めて言われるとちょっと恥ずかしいな、と」
「そ、そうですか。……そうかもです。……じゃなくて! お付き合いしているわけですよ!」
「お、おう」
唐突なハイテンションに、俺のテンションがついていかない。いったい雨空の何がここまで駆り立てるんだ……?
「そう、お付き合いしているわけです。なのに、なのにですよ!」
バン! とテーブルに手をついて、雨空が食い気味に叫ぶ。
「先輩はわたしをまだ『雨空』って名字で呼んでるわけです!」
「……ああ、そういうことか」
そこまで言われて、ようやく理解が出来た。
要するに、名字でなく名前で呼んでほしい、ということなのだろう。
「やっと分かってもらえましたか」
ふう、とひと息つく雨空を見ながら、たしかに俺は雨空をずっと名字で呼び続けているな、と思う。……だが。
「雨空も俺のこと、『先輩』って呼ぶだろ?」
「そ、それもそうですね……」
「自分で気付いてなかったのか……」
ハッ、とする雨空に、思わず呆れながら、
「で、俺はなんて呼べばいいんだ?」
と問いかける。
別に、今のままでもいいような気はするが、雨空はそれは気に食わないらしい。まあ、呼び方を変えるくらいなら大したことはないし、それで雨空が納得するなら、と思う。
「そ、それは、その……名前、でいいんじゃないでしょうか」
「名前、名前ね……」
やっぱりか、と思いつつ、何故かそんなところだけ照れる雨空を見ながら、俺は小さく息を吸い込んで。
「──蒼衣」
「〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
呼んだ瞬間、雨空──いや、蒼衣が悶えた。
「……せ、先輩、もう1回……」
ぷるぷる震えながら、蒼衣は指を立ててそう言う。
「……なんで?」
「理由はいいので、お願いします……」
「お、おう……。蒼衣」
名前で呼ぶの、ちょっと慣れない感じがして、恥ずかしいというか、くすぐったい感覚があるんだが……。
「もう1回……」
「蒼衣」
「もういっかい!」
「蒼衣」
「こ、これはいいものです……!」
「結局なんなんだこれは……?」
興奮する蒼衣と、対照的にまったくよくわかっていない俺のテンションは、机を挟んで天と地の差がある。……いや、本当になんなんだ?
「……この良さがわかっていないようですけど、きっとこれを聞いたらわかりますよ」
ふう、と蒼衣が呼吸を落ち着けて、小さく息を吸ってから。
「──雄黄くん」
「────ッ!?」
衝撃が走った。
なるほど、これはアレだ。やばい。
これまでなかった、名前で呼ばれる、という感覚は、脳が麻痺するほどに刺激が強い。
……これは、やばい。
蒼衣が何度も何度も、求める理由がわかった。
「……わかってもらえたみたいですね、先輩」
「……おう。これは、アレだな。やばい」
「そうです。やばいんです」
語彙力をふたり揃って失いながら、うんうん、と頷き合う。
「と、いうわけで先輩。今後わたしのことは名前で呼んでくださいね?」
満足げな表情を浮かべながら、蒼衣はそう言った。
「……それはまあ、いいんだが。お前は俺の呼び方、変わってないみたいだが」
「……その、ちょっと、思っていたより恥ずかしかったので、わたしは先輩呼びのままにします」
すすす、と目線を逸らす蒼衣。
「……俺も恥ずかしいんだが」
「先輩はダメです。さすがに『雨空』呼びは他人行儀すぎます」
逸らした目線を戻して、蒼衣は強くそう言う。……いやいや。
「ええ……。先輩呼びの方が他人行儀じゃないか?」
「そ、そんなことないです。ないと思います」
「そんなことあると思うんだが……」
「……可愛い彼女の可愛いわがままということで、ここはひとつ」
ここにきて上目遣いで、さらに、ね? と言わんばかりに、こてん、と首まで傾げてそう言う蒼衣に、俺が抗えるわけもなく。ひとつため息を吐いて、俺は諦める。
「……わかった。わかったから、蒼衣。そろそろ七味を渡してくれ」
「……あ、はい」
完全に忘れていたのであろう、一瞬惚けた蒼衣から、握り締められた七味の小瓶を引き渡してもらう。
軽くうどんに振りかける。白に散る赤を見ながら、ちらり、と機嫌の良さそうな蒼衣を見て。
……まあ、俺は先輩呼びが嫌いではない、というより気に入っているから、結果オーライかもしれないな。
なんて思いながら食べるうどんは、伸びきっていたが、変わらず美味かった。
「そういうわがままを聞いてくれるところも好きですよ、雄黄くん」
「ゴフッ! げほっ!」
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