第3話 通い妻です

講義を受けるには至ったものの、緩み切った精神力で、つまらない話を聞いたらどうなるかなんてことは明確で。


俺は、受けた2つの講義、その両方に関する記憶の大半を吹き飛ばしたまま、帰路へと着いていた。


決して無いわけではない。吹き飛んでいるだけだ。


いや、本当に。寝たわけではない。……寝ていた気がしなくもないが、どちらも記憶に残っていないという結論になるのだから些細な問題だ。多分。


くぁ、とあくびをひとつ。それを合図に思考を切り上げ、自室の鍵穴に鍵を突っ込んだ。


建て付けの悪い扉を、音を立てて開く。


普段はあまり近寄ることのない台所へと向かい、左手に持ったコンビニの袋を冷蔵庫へと突っ込んだ。


雨空はまだ講義があるはずなので、今はひとり。


特にやることもなく、ベッドに寝転がってスマホでゲームをしていると、意識がふわり、と浮きはじめる。


大学生とはこうも眠れるものか、となぜか感心しながら、意識を手放す。


ガチャ、と扉の開く音がした。


目を開き、手に握りっぱなしだったスマホを見る。


浅く眠っていたらしく、意識的には一瞬が、時間的には2時間が経過していた。


「また寝てたんですか、先輩」


起き上がるのも面倒で、そのままベッドに寝転がっていると、影とともに暗めの茶色髪が視界に揺れる。その髪に乗せて、甘い香りが舞った。


「寝る子は育つって言うからな」


「それ、よく寝る子は起きたら活発に動くから育つって事含めてだと思いますけど」


「子どもは活発に動くって決めつけは良くない」


「時代背景的に多分決めつけから意味が生まれていると思います」


「ことわざの時代背景ってなんだよ……」


のそ、と緩慢な動きで起き上がり、小さくあくびをする。


「それで、寝る子な先輩は成長してるんですか?」


「そりゃあもちろん。今日だって1歳成長してる」


「それ寝なくても出来る成長じゃないですか……。他にはどんな成長が?」


「……さあ?」


「さあ!? 諦めるどころか投げましたね!?」


「いや、改めて自分の成長したところ、とか言われてもわからねえぞ……。雨空はここ最近で成長したと思うことあるか?」


雨空は、ふむ、と顎に手を当てて考える素振りをする。


「……そうめん料理のレパートリーが増えましたね」


「その節はお世話になりました。他には?」


「え、ええと……。あ! 先輩を起こすのが上手くなりました。素早く起こせるようになりましたね」


「その節はお世話になっております。他は?」


「う、うーん……。先輩へのツッコミに磨きがかかった……とかですか?」


「なぜ疑問形……。つーかお前、全部俺関係じゃねえか!」


「だって改めて考えてみたら大学生になってからほとんど先輩といるんですよ! 特に最近!」


言われてみれば、前期は週に2、3日来ていたのが、最近は週に2日来ない日がある、くらいの頻度になっている。週休2日制だな。


普通になりすぎていて気付いていなかった。


「なあ、もしかして俺の家にいるほうが時間長いのか?」


もしや、と思ったことを聞いてみると、想定通りの返答が返ってくる。


「そうですね。お風呂と寝るくらいしか家にいませんし。これからさらに頻度を増やすつもりなので実質同棲ですね」


さらに、ということは。俺が気づいてないだけで、雨空は意図的に俺の部屋に来る日数を増やしていたようだ。


「確信犯じゃねえか! あと同棲ではない」


ツッコミと共に、訂正を入れておくと、それが来るのはわかっていた、というようにさらにカウンターが飛んでくる。


「じゃあ通い妻で」


「それも違うだろ……」


「どの辺りがですか?」


「どの辺りって言われてもな……」


ふむ。通い妻ってアレだよな。


食事や掃除、洗濯といった家事を筆頭に、必要なことをしに来てくれる、同棲していない女の人。


……うん?


「なあ、ちょっと待ってくれ」


「?」


頭に手を当てる俺を見て、首を傾げる雨空。


「雨空、少し確認したいことがある」


「はい、なんですか?」


「飯作ってくれてるよな?」


「そうですね」


「掃除もしてくれてるな?」


「はい、してますね」


「で、洗濯もしてくれてる」


「はい、そうですね」


これはつまり。


「通い妻じゃねえか!」


「だから言ってるじゃないですか。というか、認めましたね。これでわたしは通い妻です」


なぜか胸を張る雨空。


「なぜか彼女を飛ばして妻になりましたが、まあいいことにします。……んんっ……あなた、今日の晩ご飯は期待していてくださいね?」


咳払いの後、雨空はいたずらっぽく目を細めて、そう言って台所へと向かった。


「……まったく……」


そういう呼び方は、ドキッとするからやめてほしい。


火照った顔を冷ますために、俺は窓を開けた。

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