24話
最後。
その言葉に何故か鈴は一度ほぐれた緊張が舞い戻り乾いていく喉奥を潤わすようにごくりと唾液を飲み込む。
「私は誰ですか?」
にやつく店主が最後に言ってきた質問に緊張しつつ、他人のことを散々聞きながら、この人は自分がわからないのだろうかと見開いた目で老人を見つめる。
手で覆われ隠された顔は指の隙間から見える瞳だけ。そしてその瞳は弓形に歪んで、この状況を楽しんでいるように見える。
そんな老人の妙な質問に自分はきちんと返事が出来るのだろうか? 鈴はいろいろ思案をめぐらせる中、不思議と鈴はここ数日の仮面の様子を思い出していた。
仮面であればどうするだろう、その答えは直ぐに出る。
ただでさえ訳の分らない場所の不気味な店で、その店主であろう老人のことなど鈴の記憶を幾らたどっても無かった。ならば当然、仮面であれば「貴方など知らない」そうはっきりと老人に向かって言い切るだろう。
実際、結構失礼な態度を取られているのだから言ってもいいかも知れないと鈴は思った。
しかし、なぜか鈴自身がそうすることはためらわれる。鈴は彼女であるが、彼女そのものではない。そして、今の鈴の中の「私」は良い子を演じてきたそのものだ。そんな事、思ってはいても直ぐにそうですかと行動できるわけがない。
だが、鈴の中には以前のように答えず黙ると言う選択肢は無かった。はっきりと拒絶するような物言いは出来ない良い子の仮面を持っている鈴は、言葉を丁寧に選んで言う。
「もし、以前会っていたとしたら申し訳ないですが私は貴方の事を覚えていません、当然名前も知りません。だから、貴方が誰か、私は言い当てる事はできません」
鈴の丁寧な答えに店主は顔を隠したまま大きな声で一笑した。
先ほどまでのどこか淑やかさがあり、瞳の鋭さはあるものの柔らかさを老人に感じていたが、一笑した老人はその年齢よりも若さがあるような張りのある声で鈴は少々驚く。
「えらく丁寧なお返事で。そうですね。私はこの外見で貴女に会っていませんし名乗ってもいません。だから私が誰か、貴女は言い当てる事は出来ないでしょう」
出来ないこと、どちらかといえば無理なことを質問してきたのかと、店主の言い分に鈴は首をかしげて聞いた。
「では、何故私にそんな事を聞いたんですか?」
「貴女にとって彼女が貴女であるように、貴女にとって私は誰かと尋ねたかったのです」
「私のとっての貴方ですか?」
「答えられますか?」
こちらに向かってそういう老人に、鈴は優しい微笑を浮かべて、なんだ、そんな事かと思いながら答える。
「えぇ、勿論」
老人の手の間から見ていた笑いがなくなった。そして低くとても真剣な物言いで老人は再び鈴に尋ねた。
「私は誰ですか?」
「貴方は私以外の人です」
それが鈴の答え。
以前の鈴なら店主の出す、まるでそれぞれの存在を示すような、そんな質問に口篭り、答えることは出来なかっただろう。
店主の顔色を伺ってその人の機嫌を見ながら答えたかもしれない。
不正解だと笑われるのが怖くって黙りとおしたかもしれない。
でも、今は違う。
恐らく出されるであろう質問に正解不正解を恐れる事無く答えることが出来る。なぜなら、例え不正解だったとしても、それがその時点での鈴の正解であり、間違えてしまったのならもう一度考え直せばいい。
恥ずかしがる事も、間違いを恐れる事も、他人の顔色を伺う事も、納得しないまま人に合わせる事も、今の鈴には不要なこと。
答えた鈴の顔には自然な笑みが浮かんでいた。何だか分らないけど、解放されたようなそんな気持ちが広がっていた。しかし、鈴の笑顔に比例して、主人の顔は徐々に笑みが消え去り、その顔の表情は無くなっていく。店主の顔の表情がすっかり無くなって顔が固まり、軋むような何かがひび割れていく音が店の中に響いた。
何の音なのだろうと不思議に思って鈴が辺りを見渡せば、目の前の店主の手で覆われたその間から顔にひびが入っていくのが見える。
「な、何?」
鈴が驚いて言えば、店主はその両手をだらりと体の横に力なく落とす。
顔があらわになると、店主の顔の中心に一本の深いひび割れの筋が縦に入っているのがわかった。それは横へと枝を伸ばして無数のひび割れとなっていく。
異様な音は店中から聞こえているようで鈴はただ、驚き息をのみながら無数のひび割れが入っていく店主の顔を眺めた。
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