19話

鞄から鍵を取り出して鍵穴に差し込んでみると、鍵はかかって居なかった。鍵がかかっていないことに鈴が首を傾げて呟く。

(珍しい。お母さんが先に帰ってきている)

 鈴の言葉に仮面は少し瞳を伏せた。

「そうかしら? 帰ってきたんじゃないかもしれないわよ」

(どういうこと?)

「休んだかもしれないじゃない? 会社を」

 仮面の言葉に鈴は首を横に振りそんなことはありえないと否定する。

 今まで鈴が風邪をひいても、何かがあったとしても決して母親が仕事を休んだりはしなかった。もし、今朝の出来事が母親にとってありえないと受け入れがたい事であったとしてもそのせいで会社を休むなんて鈴には考えられない。ありえないことだと否定してくる鈴に仮面は少々ため息をついた。

「少しは分かって来たのかと思ったけど、やっぱり鈴って鈍いわ」

 今更鈍いといわれて腹が立つ事は無い。けれど、あまりに遠まわしな言い方で仮面の言いたいことがわからず鈴は首を傾げたまま眉間に皺を寄せていた。すると、その様子を察した仮面が鈴に言う。

「何度も言うようで悪いけど、答えを出すのはあくまで鈴だからね」

 念を押すような言葉に鈴は唇の端に笑みを浮かべて(分かっている)と返事をした。思わず仮面にどうして? そう聞きそうになった自分自身に笑ったのもあるし、先手を打って言ってきた仮面にも笑いが出てしまう。そういう風に自分は何もしないと言っている仮面だったが、その態度こそ鈴はヒントをくれていると思えていた。

「ただいま」

 ドアを開け、家の中に入って帰宅の挨拶を玄関先ですれば、廊下の先にある居間でゆらりと人影が動くのが見える。

「……おかえり」

 溜息混じりに聞こえてきたのは母親の声。その声は仮面が出した声よりも低く部屋の中に響き、鈴は心が軋みを上げたような気がして息苦しくなった。いつも感じていた恐る恐るの鼓動ではない、胸の奥で何かが傷んでたまらないような鼓動を感じる。しかし、そんな鈴の気持ちを知っていながら仮面は母親を横目に居間へ向かおうとはせず自分の部屋のドアを開けた。

 瞳の端に映り込んだ母親は今朝鈴が出て行くときと同じ格好をして、仮面の態度に大きな溜息をついている。同じ格好で化粧もしていない姿、会社に行かなかったのは一目瞭然だ。鈴は母親のその姿と会社に本当に行かなかったのだという事に驚いていた。

「鈴……」

 母親が部屋の中に入ってドアを閉めようとした仮面に向かって声を掛け、仮面は閉めようとしたドアを止めて返事をする。暫しの沈黙の後、ひどく静かに母親が低い声で仮面の背中に向かって言った。

「貴女、本当に鈴なの?」

 仮面と入れ替わってから、印象が変わったとは言われたが誰一人として言わなかった言葉を母親が言い、鈴は驚きながら様子を見守る。

「何言っているの? 私以外のなんだっていうのよ。変な事言わないで」

「そう、変な事。そうね、でも、お母さんは貴女が鈴だとはどうしても思えないわ」

 母親の言葉にただ驚いていた鈴だったが、仮面は唇の端を引き上げ鼻息を一つ吐き出してから母親の方をちらりと横目で見た。

「いつもの、聞き分けのいい鈴じゃないからそう思うんでしょ? 私が好きで聞き分け良くなったと思っているの?」

 意地悪に、どうせ貴女には分からないでしょうと言いたげな口調で言えば、母親は大きく一度呼吸をし首を横に振る。

「いいえ、そんな事思ってなんかないわ。そうね、鈴、貴女はいつでも聞き分けが良かった。確かにお母さんはそれに甘えていたわ。鈴が文句を言わないのをいい事に見て見ぬ振りをしてきた。でもね、見ていないわけじゃない。これでも、貴女の母親よ、見えていないわけが無いでしょう?」

「だから何だって言うの? 私は私。それ以外の何者でもないわ。本当に鈴なのって聞くこと自体がお母さんが私を分っていない証拠よ。見ていない証拠だわ」

 仮面は母親の言葉に強い口調でそう言って、睨み付ける様な視線を送ったのち、勢いよく部屋のドアを閉めた。鈴はただ黙ってその様子を見、部屋の中に入ってからも黙ったまま。

「……言わないのね?」

 仮面が鈴に話しかけてきたが、鈴は一体何のことを言っているのかわからず首を傾げる。

「お母さんにあんな言い方しなくてもみたいな事を今回は言わないのね」

 首を傾げたままの鈴に仮面がそう言えば、鈴は首を横に振った。

(言いたいと思ったわ。でも、言えなかったのよ)

「どうして?」

(貴女の言葉が気になったから)

「……そう」

 仮面はそれ以上何も言わず、鞄を置いて制服を着替え始める。鈴もまたそれ以上仮面に何か聞いたりすることもなく膝を抱えて座り込み、顎を膝に乗せて小さくため息を吐いた。

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