12話

 その後、何度か話し掛けてみたが、声が鈴の言葉に対して返事をすることは無い。

 相手が完全に無視を決め込んだのだと分かると鈴もまた、薄暗い何もないその場所に座り込んで、じっと在るかどうかも分からない地面を見つめる。

 どこまで行っても、上も下も、右も左も、全てが同じ色であり、その場所に床であれ壁であれ何かしらの隔たりがあるのかどうかも見た目ではわからない。

 ただ、鈴は自分の体がこの場所に立っているし座っているのだからここには床らしき何かがあるのだろうと思っていた。

 そしてそのよく分からない空間に存在することに慣れ、床のあるなしは大したことではないと思いだした時、鈴は大きなため息をつく。

(何もかも、分からないことだらけだわ)

 膝を曲げて座り、腕で足を抱えて膝に顎を置いた鈴は、目の前に掌を持ってきて、指を一本ずつ折りながら自分の頭の中を整理することにした。

 初めに、引っ掛かったのは自分が何故外灯の下に突っ立っていたのか。

 覚えている記憶の中の自分は確かに公園に行こうとしていた。公園を利用しようとしていたという事はあの日、タオル等では収まらない汚れがあったはずだ。しかし、実際はそのような汚れなどなく、いつもの外灯の下で突っ立っていた。

 そして帰宅してみれば、いつもは遅い母親が先に帰宅していて、今朝それを自分に伝えたという。

 しかし、それは鈴の記憶の中では昨日の出来事に位置付けられていた。夕食のメニューも、母親が喋る内容も全て同じ。昨日起こったことをもう一度体験しているのだ。

(私の中にある記憶は一体何なのだろう? 夢なの、現実なの?)

 さらに、いつもならわかったと素直に応えて終わるはずの会話が、自分の口が勝手に動いていつもとは違う否定の返事をした。

 その瞬間から鈴は自分自身の中に閉じ込められることになる。

 答えにならない答えを吐き出すそれは鈴の仮面であり鈴自身だと名乗った。

(仮面。何処か何か引っかかるけれどそれが何なのかわからない。霞の中にぼんやりとした人影が見えるのにそれが誰か分からない感じで気持ち悪いわ)

 鈴が自分の体をその仮面の自分に返してもらうには、鈴が仮面の自分を見つけなくてはいけない。

 湧き上がって来るだけで何の解決もしない疑問符に頭の中は混乱し、考えているのに考えていないような不思議な感覚のまま、鈴は肺一杯に空気を吸い込んで、吸った空気全てを出すような息を吐いた。

 そんな鈴の様子を気にすることなく、すでに仮面は日々の生活を送っている。

 それに引きずられるかのように過ごす中、考えがまとまらず、頭に浮かぶのは暴言を吐いた自分を驚きながらも寂しそうな顔で見つめていた母親の顔だった。


 仮面の意識が眠れば暗闇の中に居る鈴も眠り、目覚めれば目覚める。自分の意識で行っている行為ではない故になんだか落ち着かない。

 目が覚めればやはりあれは夢だった。

 そんな期待を抱いて鈴は瞼をゆっくり開いていく。見えてきたのは暗闇のもう見慣れてしまった場所。

(やっぱり、そうよね)

 落胆で肩を落とし、何時になったら自分は自分で居られるようになるのだろうとため息をつく。

「鈴ってまるで漫画みたいな発想をするのね。あれだけ現実的で衝撃的なことがあったって言うのに、そのすべてが泡沫の如くなくなってしまう夢なわけないじゃない」

 仮面は鈴の考えを読み取って、馬鹿にするように笑いながら言う。

 しかし鈴にとっては全てが現実的ではない。

 現実的だと言うその存在自体も現実ではないと思える。

 胸の中に生まれた苛立ちをそのままに、隠すことなく鈴は機嫌悪く仮面に向かって言葉を吐き出した。

(そうね、我ながら幼稚な考えだったわ。それにしても、貴女には私の考えも思っていることも筒抜けなのね。私には分からないっていうのに気分が悪いわ)

 鈴の言葉に月曜日となり、学校へ向かう準備をしている仮面は声を立てて笑った。

「何を言っているの? 人に本心を見せないのは鈴の得意技でしょう? 私はその得意技を使っているだけよ。本当に鈴って楽しいわ」

 唇を噛み締め眉間に皺を寄せた鈴の胸の中にあるのは不愉快という気持ち。

 悲しみ、怒り、理不尽、様々な感情を今まで経験したが「不愉快」という言葉の感情はこれだとはっきり言えるのは初めてだった。

 仮面の態度に鈴の苛立ちは収まることは無い。そして、苛立ちと共に仮面が自分であると言う仮面の言い分に自分自身が嫌になっていた。

 なるべく考えない様にしようと思っても(これが私なのか)と考えてしまい、その考えを感じ取ったのか再び仮面は高らかに笑い、不愉快はさらに募ることになる。

 仮面は鈴だと言うだけあって、「鈴である」行動をそつなくこなしていた。

 朝起きてから洗顔などの身支度を済ませ、朝食を二人分作る。

 もちろん自分と母親のもので、いつもはここで母親を起こし二人で朝食を食べ戸締りなどを確認して揃って家を出るのだが、仮面はその場で一人朝食を食べて玄関へと向かった。狼狽える鈴に仮面は動揺することなく靴を履き始める。

「言ったでしょ? 鈴のやりたくてもできなかったことを私が代りにやってあげるって」

(私はこんなこと、やりたいなんて思ってないわ!)

 強い口調で反論する鈴。

「夕食も昼食も私は居ないことが多いから、せめて朝食の時位は二人の時間を作りましょ」

 母親の仕事が多くなり、一緒に過ごす時間が減ってきた時、母親がそう言ってそれから朝食は二人で取る様になった。

 他愛のない話やテレビを見ながらだったが、母親はその時間を大事にしようとどんなに疲れているときでも、鈴が起こしにくれば起きて食事をする。母親と顔を合わせるのが朝だけという事が多くなってくれば、鈴も朝の時間を大事にしようと思いだした。

 だから、仮面が今やったように一人で食事をして母親を起こすことなく学校に行くなんて事を、自分がやりたいと思っているなどありえないことだと声を荒立てたのだ。

(私はお母さんとの唯一の時間を大事にしようとしていた。話したいこともいっぱいあったし、この時ぐらいしか話せないんだもの)

 大きな声で怒鳴る様に言ってくる鈴に向かって、仮面は鼻息を一つ吹きかけるように掃出し、呆れたような口調で論じ始める。

「話し、ねぇ。そうは言うけど最近自分の話を朝食の時にした? してないでしょ。この頃は全部母親のストレス解消のための愚痴を聞くだけだったじゃない。現に鈴の今の状況を彼女がちゃんと理解していると思う? 私は、思わないわよ」

 確かに、このところ朝食の時の話と言えば母親の会社の話ばかりだった。

 入って来たばかりの若い子が使い物にならない、上司が頼りない、自分ばかりが仕事をして他の人は仕事を押し付けて休んでしまう、等々。

 鈴が自分の話をしていてもすぐに話題は母親の愚痴になってしまう。

 不満が無かったとは言い難い。

 しかし、鈴にとってはそんな朝食の会話であっても、母親が起きて来て一緒に食べてくれると言う事実が、母親の中で自分が存在しているのだと想い、それでいいと思っていた。

「鈴という存在があの母親の中に居るですって? 本当にそうかしら? もしそうだとしてそんな事、鈴はどうやって確かめていたっていうの」

 鈴の思っていることを勝手に汲み上げて言い放ち嘲笑を浮かべ、黙り込んでしまった鈴に対してさらに続ける。

「本当に彼女の中に鈴という存在が居るならどうして彼女は一言『最近どう? 』って鈴に声をかけてくれないの? 鈴の話を聞こうとせずに自分の事ばかり話すの? 彼女が鈴の変化に気付いたなんて感じたことないわよ。鈴の悩み、鈴の苦しみ、鈴の事が彼女の中心に存在しているのであればほんのわずかな変化にも気付くはずよ。どうして彼女は鈴に質問しないの? 鈴の変化を不思議に思って言葉にしないの?」

 仮面は矢継ぎ早にそう言い、鈴は仮面が出した疑問符に返答できずにただ黙り込んでしまっていた。

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