7/19(日) 葛西詩織⑪
「奥様はお嬢様のご病気のことをご存知ですよね」
「当たり前でしょ、身体が生まれつき弱いのよ!」
当然とばかりにおばさんが言い返すと、鹿之助さんは「ふむ……」と考えるように顎を触ってから言う。
「少なくとも私が葛西家に従事させていただいたばかりのとき、お嬢様は外で元気よく遊ばれておりましたが」
「……そうだ、娘は生まれたばかりのときはたしかに弱かったが、一度は元気になっていた。今の病気は突発性だったかな」
おじさんが代わりに答え、鹿之助さんは静かにうなずく。
「ええ。原因はストレスだそうですね。たしか中学に入る前かと思います」
おじさんとおばさんの顔が曇った。
「中学……」
「小学校低学年で引っ越ししたあと、お嬢様への教育もかなり厳しくなられましたが、それでもお嬢様は、お二人に意見することなく頑張られていたんです。お二人との約束のために」
「約束、ですって?」
おばさんの声が上ずる。
そこで、わっと葛西先輩が泣き出し、顔を毛布に埋めた。
「お、おこずかいのことかしら? それともご本? なにか欲しいものがあったなら、そのときに遠慮なく言えば良かったのよ!」
「いいえ、おふたりがおっしゃったのです。『いい成績を守って中学に主席で入れば、ここに戻ってもいい』と」
おじさんとおばさんはさっと目を合わせた。そしてお互いに首を小さく振ったのを確認し合うと、おじさんはその場で頭を抱えて小さくなった。
「お前はそんな無責任なことを詩織に言ったのか」
「あ、あなたの方じゃない? そんないい加減なことを言うのは……」
「……二人よ」
泣き顔のまま、先輩はお互いを責め合う二人を恨めしそうに睨みつけた。
「なぜ引っ越したの? 大きいだけで遊ぶものは本しかないあの家で、鹿之助と二人きりで、ほとんど連絡の取れないあなたたちの帰りを、今日こそはと毎日毎日待っていた私の気持ち、分かりますか?」
ばつの悪そうな顔をしたまま、両親たちは何も答えない。「かわいそう」とつぶやく凛々姉の言葉を遮るように、おばさんは慌てて叫んだ。
「仕方ないじゃない! 身内が議員になって、私たちは二人とも大学の教授と准教授で、いろいろと忙しいし立場があるのよ!」
「それが理由? なにそれ、特に伯父さんなんて関係ないじゃない」
「詩織、貴女は賢い子なんだから、わかるでしょう?」
「ええ充分にわかりました。小さな私より、自分たちの見栄のほうが大事だったってこと!」
おばさんが否定の言葉を一生懸命叫んでいる。先輩は涙をこぼしながらも決して目を閉じてしまわず、真っ向にそれを受け止めていた。
「ぶたれたって、引きませんから!」
おばさんが叫ぶのを止めて、息を飲んだ。心を決めた先輩は強かった。
「引っ越したばかりのころ、大学に電話したこと、覚えてますか?」
「何の話よ!」
「そうですか。ちょうど二人でいたみたいだったので、私、前の家に戻りたいって訴えました。二人とも『いい子でいれば考える』って言ったんです。だから私、頑張ったつもりだった」
「っ! 悪かったわ……。本気だと思わなくて、帰りたいというのは一過性のことだと思っていたのよ……」
「……私、この家が大好きだったんです。静かで、景色がきれいで」
深い呼吸をして、つらそうに目を閉じる。
「なにより、お父さんとお母さん、私の3人で過ごす時間が、とても大好きでかけがえのないものだったから」
過去に囚われていると言っていた先輩。けれど、慈しみ深く美しい思い出なのであれば、過去を支えに生きてきたことは、尊く、誇るべきものだ。
「ああ……あたしはなんてことを」
おばさんが顔を覆う。
「すまなかった詩織。君の多感なときに一緒にいてやれなくて……」
おじさんも苦痛の表情を見せた。
「暮らしに余裕を持たせることが、君への愛情のつもりだったんだ。私たちもあの頃、踏ん張りどきでね。つい一生懸命になって、大事な君をないがしろにしていたんだね。まったく、取り返しがつかないことをしてしまった……」
絞り出すようなおじさんの声が胸に痛かった。
「……そんなことないです」
気がつくとそう口走っていた。
「今からでも遅くないです。これからいくらだって取り戻せますよ」
よそ者が口を挟むのは気が引けるけど、そう言わずにはいられなかった。
「そう……だな」
おじさんが先輩の肩に手を置き、噛みしめるように目をつむるのを見届ける。
先輩と目が合う。
「ありがとう、小鳥遊くん」
「いや……」
そもそも俺が元凶だし。
「……あのね、言いつけをずっと守っていたのは、両親を怒らせたくないからだったけど。やっぱり、見放されるのも怖かったんだと思います」
先輩は苦笑した。
「自信がなかったんです。私が尊敬するふたりの子どもとして、きちんとできているのかどうか……」
肩に置かれた父の手に、自分の手を重ねる。
「でも小鳥遊くんは言ってくれましたよね。“たとえ迷惑をかけられても、私のことを嫌いにならない”って。父や母だって、きっとそうだって、信じてみたいと思えたんです。だから、ありがとうなんです」
そっか。先輩、乗り越えたんだね。
言葉を返す代わりに俺はこくりと頷いて、親指を立てて見せた。先輩も少し笑って、同じように返してくれる。
「――それはいいのだけれど」
あたたかい空気をぶち壊すように事務的に声を上げたのは凛々姉で。その目は両親を交互に捉えているところだった。
「詩織の虎蛇会存続は、お認めになるってことでよろしかったんですよね?」
あーちょっと凛々姉……。相手は学生じゃなくて、先輩の親なんで……。追い込むのはやめてください……ね?
「本当は、委員会をやめさせるいい機会だと思って来たんだが……。娘を、よろしくお願いします」
「ええ。大事にお預かりしますわ」
苦笑するおじさんから、しっかり言質を取っていた。
でも先輩もおじさんおばさんも、憑き物が落ちたように穏やかだから、いいか。うん。
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