第十五話 日露通商事情

この世界線において、1856年、日本はロシアと正式に通商条約を結んでいる。


内容として重要なのは、まず日本とロシアの国境が確定し、ロシアもそれを認めていること。

日本の領土には、北蝦夷(樺太)、蝦夷(北海道)が含まれ、更に先日、購入したアリューシャン列島やアラスカも日本の領土に追加されている。


加えて、日露通商条約では、ロシア側に幾つかの制限が課されている。

まず、ロシアが日本に寄港出来るのは、樺太のみであるということ。

ロシア船が、日本の他の港に寄港することを許可されていない。

これは、病気を防ぐという防疫が目的であるとされているが、実際のところは、異人が急速に日本に入り込み、日本の秩序を混乱させることを防ぐのが目的である。

だから、日本に寄港する際も、ロシア側は武装解除をした上で、日本の法に従うことが定められているのだ。


一方、日本はロシアへの寄港が制限されている訳ではない。

おまけに、相互主義に基づき、日本人がロシアにいる間はロシアの法に従わなければならないという制限はあるものの、武装解除までは要求されていない。

こうして見ると、日露通商条約は、日本側にだけ一方的に有利な条約に見える。

だが、当時のロシアを含めた欧米列強にとって、日本とはそれだけの制限を受けても、取引をしたい魅力を感じる市場であったのだ。


だが、こうして2年前に結ばれた日露通商条約であるが、条約締結後、ロシアが樺太に来た実績は、ほとんど存在しない。

だから、日本の状況を聞く上で、条約締結前に、樺太に長期滞在したネヴェリスコイ大佐が一番の日本通と看做されるのである。

通商条約を締結したのに、ロシアが樺太に来ない理由。

それが、クリミア戦争である。


クリミア戦争は、オスマン帝国(トルコ)に住むスラブ人を巡る戦争であるが、その戦場はバルカン半島に限定されたものではない。

戦争に参加し、ロシアに敵対したイギリス、フランスは、ここアジアでもロシアと戦っている。

実際、それでイギリス・フランス連合艦隊の襲撃を受けたロシア軍は、後に日本に譲渡することとなるペトロパブロフスク・カムチャツキーを放棄して、アムール川流域に隠れた程なのだ。

そんな状況だから、クリミア戦争中、海軍力に劣るロシア側は武装解除して、樺太に来る余裕などなかったのである。


そして、クリミア戦争が終結すると、日本とロシアの交易の舞台はヨーロッパに移る。

1856年、延長されたクリミア戦争中に、日本が日本商社ロッテルダム支店を開設してしまったのだ。

ロシアは広大で、アジアまで陸路では数か月もの距離がある。

そんな距離を移動するよりは、多少割高であろうとも、ロッテルダムで気軽に買える方が良い。

そう思うロシア貴族が多く、ロシア商人の多くもロッテルダムに集まってしまったのだ。


その結果、ロシアは日本の実情を知らないまま、対馬を巡るポサドニック号事件に突入してしまったのである。


******************


「一体、何だ。ここは」


初めてみる日本の風景に、ロシア人達は呆気に取られていた。

アジアと言えば、不潔で雑多で無秩序。

その代わり、エネルギーに満ち溢れた場所。

それが、彼らの持っているアジアのイメージだった。


だが、ポサドニック号が日本の蒸気船に曳航され連れて来られた、対馬群島の北端に位置するこの海栗島はヨーロッパ以上に清潔で整然として、活気もあるが、秩序にも満ちている。

ポサドニック号が修理の為にと連れてこられたドックもそう。

アムール川流域にあるロシア海軍基地にもない様なドックに何艘もの船があり、修理を受けていたのだ。

そこで働くのは、白人ではなく、恐らく日本人。

そう、多くの日本人の船大工と思われる男たちが、ドックで船の整備をしているのだ。

あまりにも、自分の常識と異なる日本の姿に、ロシア人達は混乱していた。


故障という名目で日本に来たポサドニック号。

そのポサドニック号にドックがあてがわれると、修理してやろうと、親切な日本人の船大工が集まる。

中には、樺太で、ロシア人と共に過ごし西洋帆船の作り方を習った者さえいると言う。

その親切を軍事機密の名目で断り、時間を稼ぎながら、ピリリョフは次の一手を考える。


この国は、他のアジアの国と明らかに異なる。

噂では、日本人は、ロシア貴族の様な教養とコサックの様な勇猛さを兼ね備えると聞いていた。

しかし、ピリリョフは、そんな噂を信じてはいなかったのだ。

ネヴェリスコイ大佐が、日本人の優秀さを強調するのも、サハリン(樺太)占拠に失敗した自分の失敗を誤魔化す為に違いないと思っていたのだ。


だが、目の前に広がる、この光景は何だ。

日本人に関する噂は、誇張どころか、噂以上ではないか。

ピリリョフは、対馬の一部を占拠し、ロシア軍基地を作るつもりでやってきた。

日本など数年前まで、まともな軍艦を一艘も持たない国だと聞いていたのだから、それは然程難しいことはないはずだった。

それなのに、あの蒸気船は何だ。

日本人は、イギリスから買ったと思われる最新の蒸気船を何艘も持っているではないか。

もう、この時点で、ピリリョフは、対馬の占拠という当初の目的を諦めざるを得なかった。


ロシア人船員たちは、ポサドニック号をドックに固定すると、海栗島にある日本人の駐在所に呼ばれ、注意を受ける。

故障という緊急事態であるから、特別に上陸を許すが、窃盗、傷害などの不法行為は決して許さないこと。

犯罪を犯した場合は、日本の法で裁かれること。

ロシア船は、故障を直し、食料の購入を終えたら、速やかに、この島を離れること。

ロシアと交易をするのは、サハリン(樺太)であるから、交易は行わないこと。

海栗島を決して出ないこと。

それ以外は、自由に過ごして貰って構わないので、日本を楽しんで貰いたい。


そう言われて、ピリリョフ船長は一部の船員を修理の名目でポサドニック号に残し、それ以外の者には海栗島への上陸を許可する。

本音で言えば、ロシア人船員たちに自由にさせれば、何か揉め事を起こす危険もあるので、許可などしたくはない。

だが、船員には荒くれ者も多い。

その様な者たちの息抜きを邪魔すれば、海の上で反乱を起こされかねない。

だから、ピリリョフは船員たちに上陸の許可を出さざるを得なかったのだ。


海栗島には、異人が滞在する為の宿、風呂屋、酒場が存在し、丸山遊郭から女衒に連れてこられた遊郭まで作られていた。

異人だろうと、人が集まれば、飯を食い、眠り、性を楽しむのが当たり前。

必要とされる物を持って行けば、喜ばれ儲かる。

これが日本人の感覚であった。

ロシア人達は、珍しい食べ物に舌鼓を打ち、日本で作られた焼酎と言う珍しい酒を楽しみ、美しい日本の女たちを愛でた。


そんな中、ピリリョフは日本の情報を収集しようと、酒場を訪れ、フランス商人と交流してみることにした。


「私は船が故障して、初めて日本にやってきたのだが、ここは全く驚きだな」


当時、フランス語はヨーロッパで使われる共通言語の様なもの。

多少なら、ピリリョフも話すことが出来る。


「ほう、故障して。それは、ついていましたな。ここは、漂着して来るなら最高の場所ですよ」


「漂着してついているもないでしょう。

そもそも、武器を押収されては、不安で仕方ありませんよ」


ピリリョフがそう言うとフランス人商人は苦笑する。


「お気持ちは解ります。

私も初めて日本に来た時は、同じ気持ちでした。

野蛮なアジアに武器も持たずにいるなど、恐ろしくて堪らないと。

ですが、それは杞憂に過ぎません。

ここは、世界で最も安全な場所。

酒に酔って夜道を歩こうと何の心配もない街なのです。

酒に酔いつぶれ道で寝たとしても、日本の侍は優しく起こし、宿まで案内してくれる。

財布を抜き取ったりすることをせずにね。

世界の何処に、そんな場所があるでしょう。

悔しいが、我が祖国のパリであろうと、そんな事は不可能です」


海舟会の歴史の介入により、攘夷派の志士たちが異人に斬りかかるという事件は、この世界線では起きていない。

異国との交流により、攘夷の意識を持つ者は減り、交流する場所が限定されている為、異人に対する日本人の悪感情も育っていないのだ。

それ故、日本は女性であろうと安全に一人旅が出来る治安が未だ維持出来ているのである。

だが、その様な夢物語に半信半疑のピリリョフは不満を漏らす。


「正直、信じられませんね。

そもそも、武器を押収されること自体、勘弁して欲しいところです。

大砲はさすがに無理でしょうが、鉄砲が何丁盗まれることやら」


ピリリョフが、そう言うとフランス人商人は面白そうに笑う。

確かに、他の国ではその通りだ。

神を知らないアジアの役人の腐敗は酷いなどと言うが、文明国であるはずのヨーロッパも人目のないところでは大した違いはない。

イギリス海軍などは、海賊とたいして変わらない程なのだ。


これは、山がちで居住地の少ない土地に、異民族とほとんど接触せずに暮らす日本人には理解出来ない感覚なのかもしれない。

多くの日本人にとって、他者は協調するべき存在。

下手に敵対すれば、他の場所に移動しにくい状況である以上、ずっと敵対せざるを得ずマイナスが大き過ぎるというのが、一般的な日本人の感覚であろう。


だが、日本人以外の多くの人間にとって、仲間以外の他者は騙して搾取するべき相手なのだ。

遊牧民のいる世界で生きている他の国の人々は、二度と会うことのない人も多い。

そんな人間を騙した所で、デメリットはほとんど存在しない。

騙された方が愚かというのが、彼らの感覚。

聖書の十戒も何のその。

契約書が解り難く書かれているのも、罠をしかけ相手を騙して搾取しようとする為だというのが、日本人以外の常識なのだ。

商売の為に、船に荷物を載せようとすれば、その何割かは船に乗せる港湾労働者に盗まれるのが当たり前。

そんな常識から考えれば、預かると称して持って行かれた武器が盗まれると考えるのは当然のことだ。


だが、それに比べて、日本人とは何とお人好しなのか。

確かに、この様なお人好しでは、異国の『野蛮人』と付き合いたがらなかったのも納得だなと思いながら、フランス商人は目の前のロシア軍人に説明をしてやることにする。


「そのお気持ちは、良く解ります。

私も、最初に日本に来た時は、心配したものです。

日本人の役人にどれだけ荷物を盗まれるのかと。

ですが、日本では心配無用です。

驚くべきことですが、彼らは、まるで修道士の様に誠実なのです」


実際のところ、日本人にも汚職役人がいない訳ではない。

異国の評判を気にする日本人は、自分の行動が日本の恥とならぬ様に互いに戒めているだけなのだ。

しかし、その様な事情を知らない彼らから見ると、日本人は真面目過ぎる様に見える。


「こんな話があります。

ある商人が、この島で武器を預けました。

勿論、渋々です。

しかし、それが日本の法であるなら仕方がない。

いくらの銃が盗まれるのか、武器を返すのに、幾ら要求さるのか、心配しておりました。

ところが、島を出ようとする時に、武器は何一つ欠けずに帰って来たのです」


「少し信じがたい話ですな」


「ええ、お気持ちは解ります。

だから、その商人も、戸惑いながら、島を出たと言います。

ところが、暫くすると、日本の蒸気船が物凄い勢いで追ってきました」


「何か、罠でも仕掛けられたのですかな。

船の中に、違法な物でも隠され、違法行為を行ったという事で逮捕。

荷物は没収など、ありそうな話ではありますな」


「ええ、彼もそう思ったと言います。

だが、日本人は違いました。

日本人は、その商人に返し忘れた銃たった一丁を返す為にワザワザ追って来たのです。

商人自身も気が付いていなかった銃を返す為にですぞ。

全く、日本人というのは、我々の理解を越えた存在です」


ピリリョフが呆気に取られていると商人は続ける。


「ここは、アジアで、いや、恐らく世界で一番安全な街。

だから、一度でも日本に来たアジアで取引をする商人達は、好んで、この島に集まります。

船の故障で立ち寄られたとの話ですが、日本人大工の腕も良い。

簡単に直してくれることでしょうが、それまで、この島を楽しまれることをお勧めしますよ」


上機嫌なフランス人商人を見ながら、ピリリョフは内心で頭を抱える。

日本の評判が良過ぎるのだ。

これでは、日本とロシアが対立すれば、あっという間にロシアは世界一の悪者にされてしまうだろう。


ポサドニック号の修理を名目で対馬に滞在出来るのも、1週間程度だろう。

日本の太平天国への武器輸出を止める為にやってきたのだが、たった1週間で何が出来るのか。

情報収集だけではなく、何らかの成果を残さなくては。


それまでに、何か打てる手はないか。

ピリリョフは頭をフル回転させていた。


******************


ポサドニック号が対馬に現れて数日後、江戸にもロシア船が対馬に来たとの一報が齎され、裏閣議が象山書院で開催されることとなる。


議題は、漂着したロシア軍の船員を国防軍、下村嗣次(芹沢鴨)が斬ったことについてであった。

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