第四話 激動のヨーロッパ

岩倉具視は葉巻をふかしながら、提出された資料に目を通す。

これは、ロッテルダムに着いて以来の毎日の日課である。

時に、1857年10月。

数か月前にヨーロッパに着いた岩倉だが、ヨーロッパの生活にも大分慣れて来ている。

日本を出る時には、ていの良い島流しかもしれないと心配していたが、その待遇は驚く程に良い。

元々、岩倉の家は公家の中でも、官位は高くない。

そして、江戸時代の公家は幕府に冷遇されてる状況。

それ故、岩倉家の生活もかなり困窮していたのだ。


それが、出発前に日ノ本を代表するという全権代理の資格を幕府より与えられ、ヨーロッパでは、その格に相応しい待遇を与えられている。

日本にいては、想像も出来ない程の豪華なホテルの一室が用意され、食事も食べたい時に、いくらでも食べられる。

米があまりなく、パンというスカスカの物を食べなければならないのが残念だと思っていたが、パンの味にも慣れてきた。

肉はあまり好きではないが、大好きな魚がいつでも食べられるのは嬉しいところだ。

日本のキセルが吸えないのは残念だが、葉巻も悪くないと思えるようになってきた。

日本人の魂だと言っていた丁髷ちょんまげも落とし、今はパリで仕立てたスーツを着込んでいる。


要するに岩倉はヨーロッパでの生活に慣れつつあるのだ。

岩倉は既にヨーロッパ各地の使節の見学を行い、その技術力、国力に驚き、理解を示している。

吉田寅次郎から、海舟会の考えた、これからの日本の国家戦略についての説明を受け、十分に理解している。

その上での情報収集だ。


岩倉は、毎日、発売される各国の新聞を訳し、要約したものに目を通し、質問をする。

幸い、日本商社ロッテルダム支店には、英語、フランス語、オランダ語、ロシア語と、それぞれの言葉に堪能なものがいる。

それらの者が読んで翻訳し、要約したものに、目を通し、岩倉は内容を比較する。

各国の新聞を読んで比較し、時系列で考えると、多面的な物事の本質が見えてくる。

その上で、疑問に思ったことがあった場合は、翻訳した者を呼び出し、場合によっては調査を命じる。

そうやって、状況の確認をした上で、吉田寅次郎、橋本左内などを呼び出し、岩倉は、それぞれの見解を聞くことにしていた。


岩倉具視は野心家である。

ただ、生活を安定させたいのなら、他の公家の様に、京に残り、幕府から捨扶持を貰えば良かったのだ。

だが、京に残れば、それでお仕舞い。

どんな活動をしようと、幕府が密告体制を築いてしまい、公家同士の団結が期待出来ない以上、京ではもう何も出来ない状況を幕府に作り上げられてしまっている。

だから、可能性に賭け、岩倉はヨーロッパまでやってきたのだ。

それ故、岩倉は、ヨーロッパで、どんなに高待遇を受けようとも、それで満足するつもりはない。

異国で暮らし、異人の文化・文明を理解し、異国での知己を増やすこと。

川路聖謨に言われた通り、それらの経験が、日本に帰った時、岩倉の大きな武器となるだろう。

だが、折角、異国にいるのに、その機会を生かさないのは、彼の流儀ではなかった。

異国にいるならば、そこで日ノ本の国益を拡大させるだけの手柄を立てるべきだ。

それこそが、岩倉具視のやり方であった。


「それで、クリミア戦争は、もうすぐ終わる言うんか」


岩倉が尋ねると吉田寅次郎が応える。

寅次郎は平八から聞いた夢の話を参考に考える。

クリミア戦争は本来、既に終わっているはずの戦争。

それが継続されたのは、一橋慶喜と大久保一蔵の策略によるもの。

クリミア戦争は従来の戦いから大きく形を変えている。

スラブ人の少女の涙の訴えによって、フランスは継戦意思を失ってしまった(第六部十四話欧州異変の舞台裏参照)。

その結果、展開されているのは平八の夢では、ここから20年後に行われるはずの露土戦争に非常に似た状況である。

解放者ロシア軍をスラブ人は歓喜の声と共に迎え、ロシア軍はオスマン帝国軍トルコを蹴散らし、イスタンブール目前にまで迫っていると報道されている。

これに対し、イギリスは将来の危険を訴え、オーストリア、プロシアの参戦を促したようではあるが、両国とも参戦するとの回答は出せていないようだ。

となれば、寅次郎の目から見れば、答えは明らか。

露土戦争同様の結果となるだろうとの予測が出来る。


「報道によればロシア軍は既にエーゲ海に達した後、進路を変え、オスマン帝国の首都イスタンブールに迫っていると申します。

イギリスは海軍力に優れておりますが、ボスポラス海峡から、陸にいるロシア軍を壊滅させることは困難。

となれば、イスタンブールを守ることは難しいでしょう。

そうなれば、イギリスはともかく、オスマン帝国はロシアと和議を結ぶしかないかと」


20年後の露土戦争で起きる事態を思い浮かべながら寅次郎は応える。

露土戦争では、約一年でオスマン帝国軍はロシア軍に大敗し、イスタンブールに迫られた時点で、オスマン帝国はロシアに降伏し、黒海からエーゲ海に達するスラブ人の居住地域が、大ブルガリアとして、ロシアの保護国となっている。

今の状況は、その状況に非常に似て来ている。

となれば、オスマン帝国がロシアと講和を結ぶのも遠くはないだろう。


「確かに、ここまで負けたら、オスマン帝国は両手を上げるしかあらへんかもしれんがな。

そやけど、イギリスはどうだ?

勝手にオスマン帝国がロシアと和議を結んだら、イギリスの面子が立たへんと考えて、オスマン帝国に圧力を掛けるのちゃうか」


ヨーロッパに来て数か月だと言うのに、よくもまあ、そこまで理解しているものだ。

寅次郎は内心で岩倉に感心しながら、答える。


「確かに、仰せの通り、イギリスとしてはオスマン帝国とロシアに和議など結ばれたくはないでしょう。

それ故、イギリスがオスマン帝国に圧力を掛けるということは十分に考えられます。

しかし、イギリスの民草は、これ以上のいくさを望んでおりません」


スラブ人少女の涙の訴えはイギリス世論にも影響を与えているのだ。

何故、イスラム国家であるオスマン帝国の為に、イギリスが犠牲を払わねばならないのかとの声が大きくなりつつある。

その上で、インドで大反乱が起き、太平天国の乱の余波が清国にあるイギリス植民地にも被害を与えているとも聞く。

100年の計を見るイギリスの政治家たちから見れば、目先の植民地の被害よりも、ロシアの勢力拡大の方が危険であることは明らかだ。

だが、イギリス世論の多くは、オスマン帝国をロシアから守る為に、戦っている暇があったら、植民地の自分達の権益を守れと言う様に変わって来ているのだ。

これも、新聞で世論の動向を確認すれば、解ることであった。


「民草の声をまつりごとに反映させる。

デモクラシーやら言うたか。けったいなものやな。

そんなんをしたら、何するか他の国にも知られてまう言うのに」


岩倉は呆れたように呟く。


「イギリスも、フランスも、民草に銃を与え、戦う体制となっております。

その様な体制でございますから、民草がまつりごとに納得して戦いに赴く仕組みが必要。

その為のデモクラシーでございましょう」


寅次郎の言葉を聞くと岩倉は口の端に皮肉な笑みを浮かべて答える。


「ヨーロッパでは戦うのんは民草の仕事になってるちゅうことか。

ぎょうさんの異国の民草が、日ノ本に攻めてくるとなると、こちらも、それなりの準備をせなあかんな」


ヨーロッパでは武士の世が終わっていることを知り、日本も武士の世は長続きしないぞという皮肉を込めて岩倉が言うと、寅次郎は怯まず真っ直ぐ答える。


「仰せの通りであります。

それ故、我らも、国民皆兵を進めねばなりません。

デモクラシーを導入し、民草の納得できるまつりごとを実施せねばならないのです」


「国民皆兵にデモクラシーか。そんなんを導入したら、武士もののふの天下も長ないのちゃうか」


「致し方ございません。

これも、全ては天子様の御座おわします日ノ本を守る為。

天子様の赤子として、身を粉にして働くのみでございます」


寅次郎の真っ直ぐな瞳に岩倉は驚きながらも尋ねる。


「そやけど、徳川はんは、ほなおもろないやろう。権力を手放さへん為、争いになるのちゃうか」


「岩倉様もご存じの通り、欧米列強が侵略の牙を剥く中、今、日ノ本は身内で争っている余裕など、ございません。

それ故、国防の為の武力は国防軍に、日ノ本の産業開発の為の財力は日本商社に集中するだけにするのです。

その上で、幕府には、これまで通りの役割を果たして貰った上、国防軍の長、日本商社の長の任命権を幕府が握り続ければ、変化に気が付く者は多くないかと」


外見上では幕府が権力を握っている様に見せ掛けながら、徐々に幕府の権力を形骸化していく。

幕府を公家の様にするということか。

岩倉は日本の未来を思い浮かべ内心でほくそ笑む。

となれば、日本に帰った後は国防軍に参加するか、日本商社に参加するか。

いずれにせよ、目に見えた手柄を立てておく必要があるだろう。

そう考えて、岩倉は寅次郎に確認する。


「日ノ本の話はようわかった。

とりあえず、ヨーロッパのことに話を戻そう。

ロシアがトルコと和議を結ぶことイギリス止められへんかった場合、イギリスはどないなる?

日ノ本なら、責任者は腹を切らされるとこや思うんやけど」


岩倉が尋ねると寅次郎は暫く考えた後、答える。


「おそらくは、責任者であるパーマストン子爵は責任を取らされ、プライムミニスターという責任者の地位を辞任することになるかと」


「辞めただけで済むんか。それで、後任は?」


寅次郎は現在のイギリスの議会の状況、そして平八から聞いた知識を総動員し、これからの状況を考える。


「プライムミニスターの大命は、イギリス国王によるもの。

それ故、確実なことは申せませんが、おそらくは、パーマストン子爵と対立する派閥、コンサバティブパーティーのダービー伯爵になるかと」


「ダービー伯爵か。そいつは、どないな奴や?」


「確か、武器を持って相手を脅す外交を行い、勢力拡大を目指す砲艦外交のパーマストン子爵と異なり、ダービー伯爵は、自国の社会改革、安定性を求める保護主義なる政策を主張していたかと」


「そうか。

せやったら、ダービー伯爵が責任者でいてくれた方が侵略は遅れ、日ノ本にとっては都合良さそうやな。

ダービーはんの天下は長続きしそうなのか」


「それは入れ札の結果次第かと。

ダービー伯爵が政権を握って、すぐに入れ札を行えば、厭戦気分が広がっている今ならば勝てるやもしれません」


その話を聞いて、岩倉は考える。

現在の状況、ヨーロッパで見ている限り、ロシアはいくさに勝ち過ぎている。

ロシアは、オスマン帝国に勝ちエーゲ海への領土を手に入れ、ヨーロッパへの領土拡大の足掛かりを得ただけでなく、インドでも、清国でも、イギリスの権益を侵し、勢力を拡大しているという。

ロシアの産業革命は他の列強国と比較して遅れていると聞いているので、すぐにイギリスが巻き返そうとすれば、ロシアに勝てるとは思うが、イギリスの民草がいくさに反対している為、今すぐ戦うことは困難だろう。

となれば、ロシアは獲得した領土、オスマン帝国から獲得した賠償金を使って、安全に国内の改革を進め、戦力を増強することが可能。

戦力増強に成功した後ならば、イギリスでも簡単には勝てぬ。

ロシアが、イギリスに代わり、地球最大の帝国となるやもしれぬ。


ロシアとイギリスの両帝国の争い。

その時、戦場をヨーロッパに限定出来れば良いが、ロシアの目が日ノ本に向けられれば、ロシアが日ノ本最大の敵となりかねない。

そんな中、ロシアに対抗する砲艦外交のパーマストン子爵が天下を取るのが良いのか、ロシアの成長を見逃し国内改革に邁進するダービー伯爵が天下を取るのが良いのか。

まあ、どちらに転んでも、彼らと知己を得て置いた方が良いだろうな。


岩倉具視はロンドンへ表敬訪問することを考えていた。

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