第二十六話 英国宰相 佐久間象山の戦略
「もし、僕が英国宰相であるならば、まずは清国と天竺(インド)から兵を引くな」
象山先生は、呆気に取られるアッシらを眺めながら続ける。
「そもそも、地球最大の大帝国とは言え、オスマン帝国、天竺、清国と三か所で戦線を広げていることが無茶なのだ。
戦術の基本は、戦力の有効活用。
その為に必要なのは戦力の高速移動と集中投入。
戦力を分散していては、勝てるものも勝てなくなる」
「だが、それでは、イギリスの面目が立たぬのではないか」
安藤信正様が象山先生に尋ねる。
「戦略的に一時的な撤退をするだけでございます。
一旦、イギリスが清国と天竺が離れれば、反英国運動は活発化するやもしれません。
だが、次に来るのは清国地域と天竺内のそれぞれの地域の主導権争い。
清国地域では、清国と太平天国が争い傷つけあい、天竺ではロシアが天竺の反乱に介入する口実を失い、天竺の各藩で主導権争いが起こるでしょうな」
確かに、イギリスが撤退すれば、大陸ではイギリスを追い払えたと信じた人たちは、太平天国に参加するかもしれませんね。
そうすると、清国と太平天国の争いは今以上に激化することでございましょう。
そして、天竺に至っちゃぁ、元々、イギリスが来るまで群雄割拠の様な状況だって言います。
今は、明確な敵であるイギリスがいるから、互いに争っていないようですが、それでも幾つかの勢力はイギリスにつき、他の勢力はロシアに接近中であるとも聞きます。
そんな中、イギリスが一時的にでも撤退すれば。
象山先生は、アッシらの理解が追いついたのを確認する様に見渡し、自慢げに続ける。
「もちろん、清国から撤退すると言っても完全に撤退する訳ではございません。
太平天国の根拠地、南京に近い上海から撤退させるだけで、太平天国支配地域から遠い香港は厳重に防衛。
その上で、清国には莫大な賠償金を請求します。
清国皇帝が清国全域を支配していると主張するなら、太平天国の反乱勢力の管理も彼らの仕事ですからな。
それで、清国が賠償金を払うも良し、払わないも良し。
払えば、清国内では弱腰と見られ、清国は弱体化する上に、賠償金が手に入る。
払わねば、ロシア、天竺との争いが済んだ後、改めて清国をイギリスが攻める口実になりますからな」
相も変わらず、えげつない事を考えるお方だな。
アッシの見た夢では、幕府は賠償金を払うたびに、国内の求心力を失っていったのだけれど。
そんなことを考えていると、安藤信正様が、再び困った顔をしていることに気が付く。
ああ、そうか、南京、上海、香港だと言われても、それが何処にあるのかピンと来ておられないのか。
アッシは、散々、象山先生に地球儀だの地図だのを見せて貰っているから、大体のことは解りますが。
江戸のご老中になられる方とは言え、地球の地図が全て頭になど入ってはおられないでしょう。
ならば、アッシのやることは一つでございますな。
「あのー、象山先生、申し訳ないのですが、どうも、アッシの頭では、香港だ、南京だ、上海だと言っても、何処に何があるのか、距離感やら、何やらピンと来ませんで」
アッシが尋ねると象山先生は驚いた様にキョトンと目を丸くした後、尋ねる。
「どうしてだ?地図など、家で何度も見せただろ?」
「確かに、その通りでございます。
ですが、アッシは凡人。
象山先生の様な天才とは違います。
とても、地図を一目で隅々まで覚えることなど出来やしません。
まして、老いぼれてきた、今となっては」
アッシがそう言うと、象山先生は本当に同情した様に言う。
「そうか。凡人とは不便な物だな。
では、僕が解りやすく地図を書いてやるとするか。
阿部様、筆と硯、それに紙を用意して頂けませんか。
小一時間もあれば、地球の地図を書いてお見せ致しますので」
そう言って、象山先生が阿部様に筆と硯を所望されると、阿部様は苦笑して止められる。
「それには及ばん。
佐久間殿の書かれた地図ならば、我が家の家宝になるやもしれぬが、今は時間が惜しい。
地球の地図程度なら、私も持っている。
小間使いに持ってこさせるので、暫し待て」
そう言われると、阿部様は人を呼び、地図を持ってこさせる。
地図が阿部様の手でアッシらの方に向けて広げられると、象山先生は懐から扇を出し、それで指し示しながら説明をする。
「こちら、薩摩から西に進み、海を越えた先の海岸にある都市が上海、そこから内陸に向かった位置にあるのが南京。
香港は、ここよりずっと南、琉球から更に南西に進み海を越えた先にある海岸都市だな」
「なるほど、それで太平天国の支配地域は?」
「今のところ、南京を中心とした一帯だという。
だから、上海は近く、攻撃し易かったとしても、香港まで来ることは困難なのだ」
象山先生がそう説明するのを横目にアッシは安藤様を見る。
今度は理解されているご様子ですな。
それでは、話を続けさせて頂きましょうか。
「ありがとうございます。良く解りました。
それで、象山先生、清と天竺から撤退させた兵はどうなさるのでございますか?」
アッシがそう尋ねると、象山先生は自信たっぷりに答える。
「当然、オスマン帝国にいるロシアとの決戦に戦力を集中させるのだ。
まあ、清と天竺はオスマン帝国まで距離があるので、すぐに決戦を始められる訳ではないがな」
そう言うと、扇の先を大きく動かし、バルカン半島を指し示される。
「ロシアとイギリスの
そして、ここクリミア半島にあるロシアのセバストポリ要塞が陥落し、ブラック・シー(黒海)の制海権はイギリスが支配しております。
まあ、代わりにイギリス側のカルス要塞も陥落しているので、どちらかの勝ちと断言出来る状況ではないのですが」
そう言いながら、象山先生はオスマン帝国内、セバストポリ要塞の反対側にあるカルス要塞を指し示して見せる。
「それ故、本来の歴史では現状維持の痛み分けで終わったと言います。
だが、そこに一橋慶喜公の介入がございました。
ロシアからアラスカを買い取り、その代金で戦争を継続する為の資金を補填。
更に、ロシアに策を与えられました。
そのおかげで、ロシアは、バルカン半島のスラブ民族をオスマン帝国から解放するという大義名分をヨーロッパ中に喧伝して、フランスの介入を抑制した上で、ルーマニアに解放軍として大量のロシア陸軍をバルカン半島に進駐させました。
その上で、イギリスのコロニー(植民地)である天竺での反乱を誘発し、イギリスが戦力を集中し難い状況を作られました。
ここまでは、よろしいですかな?」
象山先生はそう仰ると、不機嫌そうに辺りを見渡す。
自分ではなく慶喜公と大久保様の策で、盤面が動いているのが気に入らないのですかね。
天才だけど、本当に面倒なお人でございますよ。
「確かに、情報戦略も、天竺への戦力分散も、中々に見事な策ではある。
だが、僕が英国宰相であるならば、その様な策を逆手にとって、ロシアを追い詰めて見せる」
象山先生は悪人の笑みを浮かべる。
慶喜公たちよりも、自分の策の方が凄いと認めさせたいのですかね。
もう、味方なんだから、どっちでも良いとアッシは思うのですが。
「清国と天竺から撤退させた軍は、アフリカを経由させて黒海のオデッサとバルト海に面したロシアの首都サンクトペテルブルグに向けます」
そう言って、象山先生が黒海沿岸、バルカン半島入口にあるロシア領オデッサと、それよりずっと北にあるサンクトペテルブルグを指し示されると阿部様が尋ねられます。
「それで、ロシアを抑えられるのか?
セバストポリ要塞の攻略でも1年という時間と多大な犠牲を強いたと言うが」
阿部様がそう尋ねると、象山先生はドヤ顔で頷く。
「いえ、僕はオデッサに兵を差し向けますが、攻略は致しません。
あくまでも、包囲し、補給を断ち、無力化するだけ。
これは、平八君の夢の中で、後の世でドイツなる国が始めた浸透戦術なる作戦であると聞きます。
強大な要塞がある場合、これを打ち破るのではなく、迂回して、後方の戦略目標を達成するやり方ですな。
そして、今回の場合の戦略目標は、バルカン半島に進駐しているロシア軍の補給を断つこと。
それならば、要塞を攻める様な多大な犠牲を払わずとも、戦力目標は達成が可能でございます」
「なるほど、要塞は攻めずとも包囲するだけで無力化が可能か」
「その通りにございます。
その上で、バルカン半島のロシア軍への補給路を断ってしまえば、解放軍として入ったはずのロシア軍も解放するはずのスラブ民族から食糧などの徴発をせざるを得なくなります。
果たしていつまでロシア軍とスラブ民族が共闘することが出来ることやら」
そう言うと象山先生は再び悪い顔でニヤリと笑う。
「なるほど、さすがは象山先生でございますな。
ですが、それなら、オデッサ要塞の兵が打って出るのでは?」
アッシがそう尋ねると、象山先生は詰まらなそうに呟く。
「要塞という地の利を捨てて攻めてくるなら、願ってもないことだ。
出てきた兵を叩けば、要塞そのものの攻略ですら可能になるやもしれぬ」
「では、補給を守る為にロシア軍が本国から増援を送ってきた場合はどうする?」
阿部様がそう尋ねられると、象山先生は我が意を得たりと頷く。
「その判断をさせぬ為の、サンクトペテルブルグ攻撃でございます。
大阪冬の陣の際、大筒の砲弾が淀殿の戦意を挫いたのと同様、ロシア皇帝に攻撃が当たるかもしれないと脅かすことがその目的」
「つまり、陽動ということか」
「如何にも。
ロシアの海は冬になると凍ると申します。
つまり、サンクトペテルブルグの海も冬になれば凍ってしまうでしょう。
その様なところにある要塞都市を海から攻略など出来るはずはございません。
ですが、余程、肝が据わっておらねば、攻撃されるかもしれない状況で、平静を保つことなど出来ないでしょう。
さて、その様な状況で、遠くバルカン半島の補給の為に増援を行い、自らの護衛に回さないなどという判断が出来るかどうか」
確かに、目の前でイギリス海軍が迫っている中で、バルカン半島のことなんて考えられるかどうか。
少なくとも、アッシには無理でございますね。
「増援が出なければ、バルカン半島に進駐しているロシア軍は選ばねばならなくなります。
撤退して補給を確保するか。
バルカン半島に残って増援を待つか」
「ロシア軍はロシア皇帝の軍であるなら、勝手に撤退することなど出来ぬだろう」
阿部様がそう言うと象山先生がしたり顔で頷く。
確かに、その通りでしょうな。
皇帝にバルカン半島の進軍・占領を命令されたのに、勝手に撤退すれば、後で責任を問われるのは間違いございませんから。
だが、補給・連絡の手段は断たれ、ロシア皇帝はサンクトペテルブルグ攻撃の対処に追われている状況。
バルカン半島のロシア軍指揮官にとっては悪夢としか言い様のない状況でしょうな。
そんな事を考えていると象山先生が応える。
「仰せの通りでございます。
そして、バルカン半島に進駐しているロシア軍の滞在が長引く程、補給のないロシア軍とスラブ民族との仲は拗れ、ロシア軍が疲弊していくのは必定。
一方でイギリス軍は海を抑えておりますから、潤沢な補給を得ることが出来ます。
更には、インド鎮圧に送る予定だったネパールの戦闘集団グルカ兵も、バルカン半島への補給路遮断や撤退するロシア兵の攻撃に投入すれば、ロシアがバルカン半島の支配という戦略目標を果たすことが出来ないのは間違いございません」
「さすがは、象山先生でございますな。
それで、ロシアをバルカン半島で倒し、有利な条件で講和を結んだ後、天竺、清国と順に反乱勢力の鎮圧に兵を向けるということでございますか」
「そうだ。
バルカン半島でロシアを叩き、講和を結んでしまえば、ロシアは天竺の反乱に介入することが出来なくなる。
ロシアの補給を断てば、天竺の反乱鎮圧もそう難しいことではないはずだ。
更に、清国は戦力的にイギリスとの間に大きな差がある為、たとえ清国全土が反イギリス運動で沸き立ち、太平天国が清国全域を支配することがあろうとも倒すことは容易であるはず」
「なるほど、では象山先生は、その様にイギリスが勝たれると予想されるのでしょうか」
アッシがそう尋ねると、象山先生はため息を吐き、腕を組んで首を振る。
「いや、そうはならぬだろう。
イギリスでは、政策は民の入れ札で選ばれた評定衆が決めると言う。
それならば、一時的とは言え、上海や天竺の利権を放棄して撤退することなど、民草は認めぬことであろう。
僕は僕が天才であることを知っている。
それ故、一旦、損害を被ろうとも、更に大きな利を得られるという確信を持てる。
だが、凡人は目先の利権を失うことなど認められないだろうからな」
確かに、それは間違いないだろう。
アッシら、庶民は100年先の利益だと言っても納得などしない。
今日の寝床に、明日のおまんま、目先のことだと言われても、手持ちの物が減るのに耐えられないものでございますよ。
デモクラシー(民主主義)というのは、民草の声を反映させる政体だと言うが、どうしても目先の損得に振り回されるのは、その欠点と言えるのかもしれませんね。
アッシがそんなことを考えていると、安藤様も声を出す。
「それだけではなかろう。
上海にも、天竺にも、そこを防衛する為の軍がいるはず。
命令とは言え、その防衛を放棄して撤退するなど、武人としての面目が立たぬと思う者も少なくないはずだ」
それもあるかもしれませんね。
アッシが夢で見た遠い未来の世界でも、白人だけが文明を担える優れた人種で、有色人種はそれよりも劣った存在であると言われていたのでございますから。
まあ、これから150年の間、この地球の何処にも白人国家に勝てる有色人種の国家は存在せず、世界中が白人に支配されているのが、アッシが夢で見た世界の話ですから、仕方ないのかもしれませんが。
そして、その様な常識が将来生まれるのならば、今でも、そんな常識を持ち、清や天竺の有色人種相手に撤退するなど、恥辱に感じる者がいても不思議はないかもしれませんなぁ。
「そうかもしれませんな。
実際に、上海ではイギリス軍が太平天国に反撃を開始しているとのことでございますから。
ですが、それではイギリスはオスマン帝国、天竺、清国、それぞれの土地で消耗していくだけ。
バルカン半島のロシア軍の補給路を断とうにも兵が足りなくなります。
そして、もしイギリスが僕の言った浸透作戦ではなく、オデッサ要塞への攻撃を始めてしまえば、更なる出血を強いられることとなりましょう。
そんな状況で、進軍を続けるロシア軍に、オスマン帝国が先に降伏してしまえば、バルカン半島の支配権は完全に奪われることになりかねません。
その上、そこでイギリスがロシアと講和を結ばねば、天竺の支配権もロシアに奪われかねない。
武人の面目という物は、国を傾けることになっても、貫く価値のあるものなのでしょうかな」
象山先生はヤレヤレという感じで呟くが、その言葉に安藤様の表情が凍り付く。
いや、象山先生、それはマズイでしょ。
合理主義の塊の様な象山先生から見れば、武士の意地なんて、不合理な拘りにしか見えないんでしょうが、武士の意地をバカにする様な言動をすれば、武士社会で生きていけませんよ。
そう思って、アッシは付け加える。
「もちろん、象山先生の話を聞いていれば、誰でも撤退を選ぶことでしょう。
ですが、誰もが先生の様に大局で物事を見ることが出来る訳ではございません。
解らぬ者に解りやすく伝え、武士の意地を通したい者には、武士の意地を通した上で戦略目標を達成させる。
先生でなければ難しいやもしれません。
ですが、武士の意地を通しながら、戦略目標を達成することも、佐久間象山先生なら出来るのではございませんか」
アッシがそう言うと、象山先生は口元を緩める。
本当に褒められるのが好きなお人でございますよ。
その様子を見て、阿部様は苦笑しながら、問い掛ける。
「まあ、イギリス宰相、佐久間象山殿の策は、その辺にしておけ。
それより、今の状況において、日ノ本の取るべき策を聞かせて貰えぬか」
日本の百年を決めるアジア戦略がここに始まる。
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