第二十五話 第二次アヘン戦争の勃発

太平天国が上海にあるイギリスの租借地のアヘン商人へ取り締まりという名目で異国人の租借地を襲撃したこと、それに対してイギリス海軍が上海在住イギリス人保護という名目で太平天国への反撃を開始したという書状が、茶室にいる阿部正弘様の下に届けられると、すぐに阿部様はアッシらにその書状を読み上げられました。


「このことは、香港での交易から帰った商人からの報とのことだ。

イギリスとロシアのいくさを長引かせることに成功したので、イギリスと清国のいくさが勃発する可能性は下がったものだと思っていたのだがな」


そう言うと、阿部様はため息を吐かれる。

確かに、象山先生や阿部様は、イギリスなどの欧州列強が清国を喰いつくせば、次に日ノ本が狙われる危険があるとお考えでした。

だから、清国への欧州の侵略を防ぎ、時を稼ごうと策を尽くしたはずなのに。

どうして、こうなっちまっうのですかねぇ。


象山先生の本来の策は、イギリスの評定(議会)に働きかけ、いくさの勃発を遅らせるものでした。

イギリスは、君主が独断で国家の方針を決めるのではなく、評定で国の方針を決める国と聞き及んでおります。

だから、イギリスの評定の中にも、戦争推進派と戦争反対派の両派が存在し、反対派が勝つ様に情報を操作すれば、清とイギリスの開戦を遅らせることが出来るというのが象山先生のお考えでした。

そして、時間さえ稼げれば、天竺(インド)で大反乱が起き、イギリスも清との戦を後回しにする可能性が高いとは、アッシも思っておりました。


ところが、一橋慶喜公と大久保一蔵(利通)様は、象山先生の策以上に大きく盤面を動かされました。

清国に対するヨーロッパ侵略を防ぐ為に、クリミア戦争を長引かせることと、天竺での大反乱を前倒しに誘発することに成功されたのです。

その結果、ロシアはクリミア半島に多数の陸軍を送り込み、情報操作で英仏の戦意を低下させ、インド反乱部隊への武器の補給やインド王族の保護を行うことに成功したおかげで、イギリスは劣勢に追い込まれていると言うことでございます。


それだけやれば、イギリスが清国にちょっかいを出す余裕なんぞ、無くなると思ったんですがねぇ。

実際、それでアロー号事件は、事件自体が起きなくなっちまいましたし。

その結果から見ると、アロー号事件自体がイギリスの陰謀、言い掛かりだったのかもしれねぇって気になってきちまいます。

イギリスは、アヘン戦争で幾つかの交易港を開いたところで、イギリスの対清貿易赤字は減らず、イギリスの懐も苦しいところだったことは、アッシの夢でもそうでしたし、欧州視察団の調査でも同じ結果だったと聞いております。

その赤字を解消するために、アロー戦争を起こして清国から色んな物を奪い取るってのがイギリスの目論見だったのでしょうか。

ロシアとオスマン帝国(トルコ)で戦いならが、天竺(インド)での反乱に対処しているというのに、その上で清国との戦争を始める余裕はさすがのイギリスにもなかったのでございましょう。

それが、アロー号事件が起きなかった理由だろうと象山先生とも話していたんですが。

どうして、太平天国の方からイギリスに手を出しちまうかなぁ。

これも、運命って奴なんでしょうか。


アッシがそんな風に考えていると、安藤信正様が少し困った顔をしていることに気が付く。

いや、勿論、武士として知らないことがあるなんて恥ずかしいこと。

安藤様は、顔に出ないように平然を装ってられるようですが、アッシには何となく解っちまうのですよ。

怖いお侍の顔色を伺ってきたのでが庶民でございますから。

まあ、考えて見りゃぁ、清国やイギリスを巡る戦術・戦略について、アッシも象山先生も阿部様も何度も話して来たことでございます。

だから、わざわざ細かいことを話す必要もなく、互いの言いたいことが、かなりの部分阿吽の呼吸で解るようになっているのですよ。

ですが、安藤様は、アッシらの話し合いに参加するのは初めて。

老中になられるにしても、まだ、この辺の話には詳しくないこともあるのかもしれませんね。

そう思って、阿部様を見ると、阿部様も安藤様の様子に気が付いたようで、助け舟を出すことにした様でございます。


「平八、今の話、解ったか?ここは茶室だ。

解らないことあらば、身分など気にせず、遠慮せずに聞くが良い」


アッシに声を掛けながら、阿部様は安藤様に目を向ける。

なるほど、阿部様は、こうやって、安藤様に話の進め方をお教えになられるつもりですか。

忌憚のない意見を聞かせてくれなんて言っても、畏まった場所に呼び出して、上座から声を掛けられりゃ、普通の人間は緊張して話すことなんざ、出来やしませんぜ。

まして、聞かれたこと以外、話すことを許されなければねぇ。

だけど、そんな評定が今のお江戸では当たり前。

阿部様の様に茶室で忌憚なく話を聞いたり、身分に関係なく腹を割って話す島津斉彬様が例外中の例外なのですな。


確か、アッシの夢の中でも、勝さんがアメリカから帰って来た時に、安藤様は、老中一同がズラリと並び、聞かれたことだけにしか話せない状況の中で、勝さんたち遣米視察団からアメリカの報告を聞こうとしたのでしたな。

だけど、その時、安藤様の同僚の老中があんまり詰まらないことばかり聞くんで、勝さんがブチ切れて「アメリカと我が国の最大の違いは、偉い人ほど頭が良いところでございます」なんて啖呵を切っちまったなんて言っていたっけ。

まあ、象山先生や吉田寅次郎(松陰)さん辺りなら、立場なんか関係なく、堂々と自分の意見を述べそうな気はしますが。

普通の人間には、そんなことは無理ですからねぇ。

そういう意味では、誰が相手であろうと、こういう茶室みたいな場所で、身分に関係なく、話を聞く習慣を安藤様にもつけておいて貰った方が良いのかもしれませんな。


となると、アッシも、安藤様に、身分の低い者なりの話の進め方をお見せしますか。

安藤様にしても、驚くべき速さで老中に抜擢され、周りに妬まれたり、大変なところでしょうからね。


「それでは、恐れながら、聞かせて頂きます。

確か、以前、聞いたこともあるような気もするのですが、アッシは先生方の様に賢くないので、忘れたこともあるようでして」


武士である安藤様は、アッシほど露骨に遜ることも出来ないでしょう。

ですが、それでも妬みや反感を躱すには、老中筆頭に就任される堀田正睦様を立てながら、うまく誘導することも必要となられる。

そういう意味では、若輩者ゆえとか、堀田様に聞く振りをして、誘導していく方法ってのは使えると思うのですよ。

ちなみに、茶室とは言え、身分の差が離れすぎている状況だと、普段から、大体、アッシが聞き役で象山先生から話を聞く役をやっております。

そんなことを考えながら、アッシが頭を下げて象山先生の方を向くと、いつもの様に話を聞かれ慣れてきている象山先生は、鷹揚に説明を始める。

象山先生の場合、元々褒められるのが好きで、誰かに説明するのも好きだから、こうやって聞かれるのは嫌いではないんでしょうな。


「うむ、まあ、誰も、僕の様な天才ではない。

平八君の様に歳を重ねれば、物忘れも酷くなってくると聞く。

それに、平八君の質問は、時になかなか鋭いこともあり、僕が名案を思い付く切っ掛けになったこともあるからな。

遠慮なく、聞き給え」


象山先生のあまりにも傲慢な言葉に安藤様は驚いているようでございますね。

アッシとしては、象山先生に驚くよりも、アッシのやり方から、何か掴んで頂きたいのですが。


「まず、太平天国というのは、アッシの夢だと清国の耶蘇教(キリスト教)の宗門(宗教)を母体とする清の反乱勢力が名乗った団体の名前であったと思います。

実際は、この太平天国の信じる耶蘇教というのは、ヨーロッパやアメリカの耶蘇教とは似て非なる物であったと思うのですが。

欧州列強は、本来は宗門の違いに煩く、太平天国が本来の耶蘇教から見ると邪教であったと聞き及んでおります。

ですが、欧州列強は、清国の弱体化に役立つと、同じ耶蘇教を信じる者同士ということを口実に、太平天国を放置していたかと。

そして、太平天国が攻撃相手していた相手は、あくまで清国。

それなのに、どうして、今回、太平天国はイギリスを攻撃したのでございましょう。

もしや、運命という物が導いたのでございましょうか」


アッシがそう言うと象山先生が鼻で笑う。


「平八君、まず運命などと言う言葉を僕の前で口にするな。

なるほど、もしかすると、本当に運命という物が存在し、状況を定められた未来に導く為に修正しようとすることがあるのかもしれない。

だが、そんな物はないのかもしれないのだ。

あるか、ないか、解らない物であるなら、多少の警戒する必要はあるかもしれない。

だが、運命の言葉を言い訳にして、考えることを止めるな。知ろうとする努力を怠るな。

何かが起きるのには、必ず理由があるのだ。

理由が解れば、それを防ぐ方法も必ずあるはずなのだ」


「申し訳ございません。

年を取ると、どうも迷信深くなっちまうようでして。

それでは、象山先生は、太平天国がイギリスを攻撃した理由をどの様にお考えで」


「うむ、正直言えば、まだ情報が足りない。

これから、出来る限り情報収集を行い何が起きているのか、探る努力をしなければなるまい。

また、情報収集をする上で予談を持って、物事を見ることは禁物ではある。

しかも、イギリス、太平天国、共に、自分に都合の良い情報を出すであろうことから、情報収集に力を入れても、本当のところ、何が起こっているのかは、簡単には解らないかもしれない。

だから、あくまでも、今から話すのは、僕が考えた幾つかの可能性に過ぎぬ」


象山先生は、そう言うと阿部様に目を向ける。


「そうだな。情報収集は重要。それ故、情報収集は、引き続き行う。

その為に、香港だけでなく、上海にも、海軍を送り込むことにしよう」


阿部様はそう答えると象山先生は頭を下げ、話を続ける。


「上海の戦場を見てくることは、海軍にとっても良い訓練となるでしょう。

ですが、理由の調査よりも重要なのは、現在の状況を確認し、それをどう利用するか。

明智光秀公がどうして織田信長公に謀反を起こしたか、その理由、本当のところは未だに解りません。

しかし、謀反を起こしたという事実を知った羽柴秀吉公は、中国大返しを行って、明智光秀公を討つことに成功し、天下人に成り上がりました。

我らもそれと同様でございます。

イギリスと太平天国、そして清国との現在の状況を確認することを第一にし、その状況を利用することこそが必要でございます」


「なるほど、調査は良いが、どの手が正解か解らねば、迂闊な手を打ってはならぬ。

危険を冒さず、調査に徹するのが第一ということか。

それで、佐久間殿は、現状をどう推察する」


阿部様がそう聞くと象山先生は頭を下げ、話始める。


「まず、太平天国が上海のイギリス人居留地を襲撃したということは事実でありましょう。

イギリス側に、積極的に太平天国を攻撃する理由がございませんからな。

清国相手なら交易での損が膨らんでいるという問題があるのですが、太平天国はその清を弱体化させる存在。

更に、クリミア戦争の長期化と天竺大反乱によって、さすがのイギリス側にも戦線を拡大する余裕はないはず。

それは、アロー号事件が発生していない点にも現れております」


「では、どうして、太平天国側がイギリスを攻撃したので」


「正直、意図的なものなのか、偶発的な事故なのかさえ、僕にも解らん。

調べても簡単には解らないだろう。

まず、太平天国は宗門の反乱であるのと同時に、農民の反乱だ。

太平天国の中心部はともかく、太平天国に参加した者の多くはアヘン戦争の敗北で清に重税を課せられて流民になった者も多いと聞き及んでおる。

その上で、太平天国は、アヘン厳禁を定め、内部で権力争いも絶えないと言う。

であるならば、たとえ軍を厳しい規律で縛っていたとしても、暴走する勢力があってもおかしくはない」


「暴走でございますか。

太平天国がイギリスを攻撃する意義はないと」


アッシがそう尋ねると、象山先生は暫く考え、応える。


「いや、そうとも限らん。

イギリスが大々的ないくさをする余裕のない今ならば。

あるいは、清国から太平天国が大陸の主導権を奪う機会になり得るやもしれんな」


そう言うと、象山先生は腕を組み、大きな目をギョロリと動かす。


「清国は、イギリスに敗れ、その権威は低下している。

もし、その中で、太平天国がイギリスを打ち破ることが出来るなら」


「イギリスに勝つことが出来る勢力という事で、太平天国は民の支持を得ることが出来るということでございますか」


それは、アッシの夢の中で、長州藩がやろうとしてきたことでございますな。

長州が異国勢力を攻撃するたびに、幕府はその責任を異国に問われて権威を低下させていきました。


「そうだ。

この世では、まだ清国とイギリスは二度目のいくさを始めていない。

それ故、清国側には太平天国に向ける兵力が豊富にあるのだ。

だから、太平天国が清国を打ち破るのは簡単なことではない。

対して、イギリスはオスマン帝国、天竺と2か所で大きな戦をせざるを得ず、清国に向ける兵力が足りていない。

ならば、一時的にでも、イギリスを撃退することが出来るやもしれぬ。

そして、一度でもイギリスを破ることが出来るなら、大陸中の民草が太平天国を支持して蜂起するかもしれん。

そうすれば、太平天国は、清国を一気に吹き飛ばせる。

もし、意図的に太平天国がイギリスを攻撃したのなら、そう考えたのやもしれんな」


アッシの夢でなら、長州に攻撃された異国勢力は長州を攻撃すると同時に幕府への賠償を要求したはずでございます。

そして、その要求に対して、異国と日ノ本の力の差を理解している幕府はその要求に応えざるを得なかった。

そのことによって、異国に立ち向かう頼りになる勢力薩摩長州と異国に媚びる頼りない幕府という印象が日ノ本中に広がって参りました。

それが幕府の権威の低下にも繋がっていったのですが。

太平天国は、そこまで考えて、イギリスを攻撃したのでございましょうか。

アッシの夢では、アロー戦争で清国がイギリスに敗北した後、清国の要請を受けたヨーロッパの軍が太平天国を滅ぼしたはずなのですが。


「果たして、その様な意図通りに進むのでございましょうか」


「いくら、僕でも解らないことはある。

そもそも、太平天国のイギリス攻撃が、意図したものであるかも解らぬからな。

果たして、太平天国側に、今の状況を利用出来る者がいるか。

イギリス側がどの様な手を打つか。

特にイギリスなどは、評定で方針を決める国。

最善手があろうとも、その通りの手を打てるとは限らん」


現在の地球で最強の大英帝国。

それが、リパブリック(共和制)なる物を導入し、評定(議会)で方針を決めているという。

評定が、民草の声に方針を左右されるところ、イギリスに、付け入る隙があるということか。


「では、象山先生が英国宰相であるなら、どの様な手を打たれますか?」


「もし、僕が英国宰相であるならば、か」


そう言われて暫く考えると、象山先生が話始める。

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