第三十四話 大戦略

平八の見た世界線において、インド大反乱は鉄砲に使う油紙を切っ掛けにして起こったと言われている。


この当時、最先端のライフル銃は油紙に一発分の弾丸と火薬を包んだものに入れた物を、弾込めの際に油紙を噛み破って詰める方式だった。

そして、この弾丸を入れる包み紙に、火薬を湿気させない為に牛と豚の油が塗られていたことが、反乱の切っ掛けとなったのだ。

インドにはイギリスの東インド会社が編成したインド人傭兵団セポイが存在していた。

そのセポイに、イギリスがライフル銃を配備し、牛と豚を使った油紙を配ったことがセポイのイギリスへの反感に火をつけた。

セポイにはヒンズー教徒やイスラム教徒が多くいたのだ。

ヒンズー教徒にとって、牛は聖なる生き物であるから、油紙にする為に牛を殺すことに抵抗がある。

イスラム教徒にとって、豚は食べてはいけない穢れた生き物であるから、その様な物の油に塗れた紙を口にすることに抵抗がある。

牛と豚の油紙を噛み破ることは、ヒンズー教徒とイスラム教徒にとって宗教的禁忌であったのだ。

だが、大英帝国はその様な傭兵たちの感情を理解しようとしなかった。

逆に、セポイの側には、イギリスがわざと彼らに宗教的禁忌を犯させて、キリスト教徒に改宗させられようとしているのではないかとの噂が流れ、不信感が増幅されていった。

その上、イギリス進出によってインドの物価が上がっているのに、セポイへの賃金は上がらない。

その結果、両者の間の不信感が暴発へと繋がったのだ。


もちろん、これは只の切っ掛けに過ぎない。

その背景にはイギリスのインド搾取とインド側の不満が重なったことがある。


イギリスは、インドを綿花や阿片の一大供給地としていた。

インドで得た原産品を産業革命で手に入れた技術で加工し、大量生産して世界中に売って利益を稼いでいたのだ。

勿論、イギリスの綿製品の売り先には、インドも含まれる。

その結果、イギリスは綿花を安く買い、大量生産の綿製品をインドに売ることにより、インドの富の収奪に成功。

更に、イギリスは日本で言う藩の様な役割を果たしている藩王国に税を掛け、幾つかの藩王国の相続を認めず、藩王国の統合や取り潰しなども行っていた。


この様なことをして、インド人がイギリスに不満を持たないはずがないのである。


平八の世界線で行われたセポイの反乱は、デリー近辺を中心とするインド傭兵団の暴発から始まった。

勢いで反乱を起こしたセポイはイギリスに不満を持つ市民と協力して、ムガル帝国皇帝を擁立。

デリーを占拠し、ムガル帝国の統治復活を宣言した。

だが、あくまでこの反乱は、イギリスへの不満が原因で発生した暴発が切っ掛けであり、計画的なものではなかったのだ。

その為、デリーの反乱に対する各地の呼応は遅れ、統一的な対応も出来なかった。

これに対し、イギリス側はボンベイ、マドラス両管区から兵を召集、前年に反乱が終結していたイラン、太平天国の乱が下火になっていた中国から軍隊を移動させた。

さらに、イギリスはネパールのグルカ兵を投入。

藩王国の中にはイギリス側に付く勢力もあり、イギリスは近代的装備にものを言わせて反撃に移ったのだ。

その結果、デリー自体の反乱は4か月で終息することとなる。

だが、それで全てが終わるほど、インドのイギリスへの不満は小さなものではなかった。

デリーでの反乱が鎮圧されても、インド各地で反乱が頻発したのだ。

最終的にはインド全域の三分の二が反乱に加わったと言われている。

これらの反乱の鎮圧に、イギリスは皮肉なことに、反乱の原因となったライフル銃を大量に投入。

古い銃(マスケット銃)しか持たない反乱軍をイギリス側は射程距離の外から攻撃し、各個撃破。

ライフル銃の戦果は圧倒的であったが、それでも反乱は続き、最終的に鎮圧を終えるまで、2年もの年月を必要としたと言われる。


これが、平八の世界線におけるインド大反乱である。

だが、この世界線では。


「一体、どういうことだ。経緯を詳しく説明せよ」


パーマストン子爵が苛立ちも露わに問いただす。


「は。インド全土でインド人達が一斉蜂起・・・・を起こしました。

反乱勢力の数は圧倒的で、各地の武器庫が襲撃され、多数のエンフィールド銃(ライフル銃)が強奪されております」


「一斉蜂起か。その様な兆候があるという報告は受けていないぞ。

何故、その様な動きが掴めなかった?」


パーマストン子爵は声を震わせながら静かに問う。


「報告によれば、イギリスはインド人をキリスト教徒への改宗を強制しようとしいる。

我らを追い出さねば、インド人達に未来はないとの噂が広がっていたと言うことは聞いておりましたが」


「その様な噂が何になる。

その様な噂程度で、一斉蜂起など出来るはずはなかろう。

問題は、誰が一斉蜂起の指揮を執っているかということだ」


「情報収集を急いでおりますが、今のところ、明確な指揮官は不明です。

各地の反乱に統一性がないのです。

デリーの反乱軍はムガル帝国皇帝を担いで、ムガル帝国統治の復活を宣言しているようですが、他の地域の住民は、各地の武器庫の襲撃とイギリス人への攻撃を行う暴徒と化している模様。

ただ、大英帝国への攻撃を目的にしている様に思われます。

暴徒は、武器庫で手に入れた以外にも、何故か多数のマスケット銃を持っていたようで各地の駐屯地は混乱。

セポイが反乱を起こしたという情報が流れた為、暴動の鎮圧よりもセポイへの牽制をするイギリス軍部隊も存在。

暴動への対応も混乱状況にあります。

余程、我らの統治に対する不満が溜まっていたことかと」


報告を聞いて、パーマストン子爵はため息を吐く。


「ああ、何と愚かな。

インドの野蛮人共め、我らを追い出して、どうしようと言うのだ。

我らがいなくなれば、再び、牛の糞に塗れた未開の生活に戻るだけではないか。

我らがいるからこそ、曲がりなりにも文明的な生活を過ごせる者がいるというのに」


この時代、多くの白人は本気でこう考えていた。

有色人種を自分達より劣った存在だと考えており、白人がいるから文明を享受出来ると本気で信じていたのだ。

白人がいなくなれば、街はゴミだらけになり、公共施設も全て廃墟と化すと。

まあ、日本人も異人を蛮族と考え、清国も自分以外の国は野蛮だと考えていたのだから、お互い様ではあるのだが。


インド大反乱で苦労する者がいれば、笑う者もいる。

その筆頭がロシア帝国である。


「どうやら、うまく行っているようだな」


ロシア皇帝アレクサンドル2世は上機嫌に笑う。


「は、ここまでうまく行くとは予想外でした。

シーボルトには、軍事の才能もあるのかもしれませんな」


今回のインド大反乱は、全てロシアの策謀により始まったものであった。

シーボルトからの提案とされたのは、イギリスを牽制する為に、インド及び周辺各国と協力してインドで反乱を起こさせること。

ロシアは、アフガニスタンなどイギリスの侵略を受けた国に声を掛け、ロシアからインドへの援助の為の通行許可を求めたのだ。

この提案にイギリスの攻撃を受けたことのある国々は、インドで反乱が起きれば、自国がイギリスに攻撃されずに済むとロシアの補給の通過を快諾。

アフガニスタンから通行許可を受けたロシア兵は使わなくなった大量のマスケット銃をインドに持ち込み、反乱の噂を流したのだ。


曰く、イギリスはインドから全ての富を収奪するつもりだ。

曰く、イギリスはインド人をキリスト教に改宗させようとしている。

曰く、ライフル銃の油紙に牛と豚の油を塗り付け、セポイを堕落させようとしている。

曰く、これに耐えられないセポイは間もなく各地で反乱を起こす。

曰く、その日には、インド人が一斉に立ち上がる等々。

ロシアの領土にはアジア系の人間も多く存在し、インド人に混ざって、この様な噂を流すことも可能であったのが、イギリスとは異なる多民族国家ロシアの強みでもあった。


そして、反乱勃発の日には、この様にインド各地に侵入していたロシア人が示し合わせ、暴動を主導したのだ。

マスケット銃を各地にばら撒き、反乱を叫び、武器庫を狙えと叫ぶ。

それだけで、枯れた野に火を放つように、インド全土で反乱が広がっていったのだ。


「全くだ。

必要なくなったマスケット銃をインドに運び、噂を流すだけで、良いと言うから試しにやってみただけなのだが、まさか、それで、ここまでの混乱をインドに生み出せるとはな。

シーボルトは、本当によくやってくれた。

日本へのアラスカ売却も、シーボルトの口利きなのだろう?」


「ゴルチャコフ公爵は、日本を説得したのは公爵であって、シーボルトは日本との仲介をしただけと言っておりますが、アラスカ売却も、おそらくシーボルトの手柄かと」


「確かに、それはあるかもしれん。

出発前に、ゴルチャコフ公爵から、アラスカ売却計画の話など聞いていなかったからな。

だが、まあ、いいだろう。

アラスカ売却に、インド反乱まで、シーボルトの手柄とするなら、その功績は一人の外国人が挙げた手柄とするには大き過ぎる」


「ですが、アラスカ売却はともかく、ペトロパブロフスク・カムチャツキーまで日本にやったのは、やり過ぎでは」


「構わん。アラスカは、今の内、日本に預けてやるだけだ。

ヨーロッパでの戦いが終われば、その後、利息を付けて返して貰えば良いのだからな」


既に日本侵略を考えているアレクサンドル二世は不敵に笑う。

カムチャッカ半島に日本の領土があれば、国境を越えた日本の侍と「偶然」武力衝突が起きることもあるだろう。

開戦の口実として、かえって都合が良い位だと、アレクサンドル二世は考える。


「ともかく、日本のおかげで、オランダやアメリカから、ミニエー銃やスプリングフィールド銃などのライフル銃を手に入れることが出来たのだ」


実際のところ、日本とのアラスカ売却交渉は、もっと早く妥結していた。

発表まで時間を掛けたのは、アメリカやオランダから極秘に買い取ったライフル銃をロシアに運び込む為の時間稼ぎ。

ロシア皇帝の意向を聞きに戻る名目で何度もロシアとヨーロッパを往復したロシア船には大量のライフル銃が積み込まれていた。

そして、それと入れ替えに、古くなったマスケット銃をインドに運びこむロシア軍。

戦闘再開の準備は整っていた。


「さあ、今度は海ではなく、陸からオスマン帝国(トルコ)を攻めるぞ。

ゴルチャコフには、フランスで、イギリスは、インドを守る為に、イギリス海軍をインドに回すという噂を流させろ。

そうすれば、フランス軍は戦争再開に参加することを躊躇するだろう。

オスマン(トルコ)を攻め、インドに補給を続け、イギリスにオスマンとインド、どちらを確保したいのか聞いてやることにしよう」


アレクサンドル二世は猛獣の様な笑顔で玉座から腕を振り上げるのだった。


そして、そのロシアを誑かした男たちは


「まさか、本当にインドでの反乱が早まるとは。まさに、神算鬼謀であります」


吉田寅次郎は感嘆する。


「ロチルド男爵から、イギリスん統治ん状況は聞いちょっ。

不満が重なれば、一揆を煽っことなぞ難しゅうはなか」


大久保一蔵が答えると、寅次郎が答える。


「ですが、私はインド大反乱は来年まで待たねば起きぬ物と思い込んでおりました」


「海舟会ん予言ん書か。あれはあくまで参考や。

実際に、あそけ書いてあっこっが確実に起きっ保証はなか」


「では、どうして反乱が起こせるとロシアに伝えさせたのですか?」


「実際にインドで反乱が起きらんでん構わんかったど。

こちらん目的は、ロシアとイギリスが戦い、双方が日ノ本を攻むっ余裕をなっすこと。

うまっいっかもしれんなと、ロシアがそん気になり、イギリスとん戦いを始めてくれせすりゃ良かったど」


「確かに、大事なのは、日ノ本を守ることでありました。

私は、クリミア戦争ばかりに目が向き、地球全体のことに目が向いておりませんでした。

痛恨であります」


「あても、慶喜公やロチルド男爵とん付き合いや予言書があったで気付けたこっじゃ。

威張るっ様なことじゃなか」


そう言うと大久保は口元に冷笑を浮かべて呟く。


「今んところ、面白かほど、うまっ行っちょっ。こんまま事態が推移すりゃ、どげんなって思う?」


そう言われて寅次郎は考えて答える。


「まず、インド大反乱は簡単には終わりません。

本来は五月雨式に起きたはずの反乱が一斉蜂起となり、その反乱の補給をロシアが受け持つ状況。

イギリス側の武器庫を襲撃したことから、ライフル銃の強奪にも成功していると言います。

ならば、大量の暴徒を前に、イギリス軍はかなりの苦戦を強いられるはず」


そう言われて、大久保は頷く。


「そん上で、イギリスがインド鎮圧に成功しそうなら、ロシアからもライフル銃を補給してやれと伝えてあっ。

イギリスがロシアと戦いを続けっ限り、インド人を殺しつくさん限り、インドん反乱は終わらんじゃ」


「一方、ロシアがオスマン(トルコ)とだけ戦うならば、ロシアは勝てるはずであります」


平八の話によると、これから20年後に起きるはずのロシアトルコ戦争では、トルコが惨敗。

スラブ人の国家大ブルガリア公国が誕生。

ロシアはエーゲ海までの土地を事実上、自分の物にしたはずだ。

その後、今はまだ小国のプロイセンとオーストリア、イギリス、フランスの介入で、ロシアは追い返されたとも聞いているが、今はプロイセンにロシアに対抗する力はない。


「イギリスはインドを確保すっ為にロシアん介入を防がんなならん。

だが、そけ兵を動かせば、オスマンをロシアに奪わるっ。さて、イギリスはどちらを取っか」


「そして、ロシアとイギリスの戦いが長引く程、日ノ本は安全になるということでありますね」


インドはイギリスで最大の利益を生み出す植民地だ。

清国はイギリスからの商品を買おうとしない為、アヘン戦争で香港を奪っても、港を開いても未だにイギリスは貿易で赤字を出していると言う。

ならば、インドはイギリスにとり、どうしても失う訳にはいかない生命線であろう。

となれば、イギリスは、ロシアに介入を止めさせる為に補給線を塞ぐ為に兵力を投入するか、ロシアと交渉してトルコを見捨てるかを選ばなければならないはずだ。

そう考えれば、戦いが長引くことは確実だろう。


蝶の羽ばたきがヨーロッパに嵐を引き起こしていた。

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