第三十二話 老人と少年
まだ子供ではないか。
それが、パーマストン子爵が一橋慶喜に会った時に感じた第一印象である。
欧米人から見るとアジア人は若く見えると言う。
まして、この当時、一橋慶喜は数えで二十歳。満年齢で言えば19歳。
既に70歳を超えているパーマストン子爵から見れば、孫よりも幼い位の印象を受けたのだ。
見慣れない奇妙な服を着ているが、貴族で目の肥えたパーマストン子爵から見れば、その仕立てが悪くないことは理解出来る。
絹で織られた美しい服が身体に合う様仕立てられている。
持っている装飾品も美しく、アジア人には珍しく目鼻立ちもクッキリしていて、ハンサムと言えなくもない。
その振る舞いには、気品があり、多くのアジア人に見られる様な傲慢さも、逆に卑屈さも感じられない。
なるほど、女子どもに人気が出るのも不思議はないか。
だが、幼い故に、ロシアに上手く利用されたのだろう。
ならば、こちらも、利用させて貰うことにするかと、パーマストン子爵はそう考え、挨拶も早々に本題を切り出すこととする。
「遠い所より、遥々よく来られた。心より歓迎いたします。
しかし、申し訳ないが、今は、重大な交渉中の為、あまり時間は取れないのです。
早速ですが、ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」
パーマストン子爵が尋ねると、日本人の通訳らしき男が慶喜に話し、その返事を通訳が話す。
日本人はオランダ語しか話せないと聞いていたが、通訳の話すのはアメリカ訛りの英語らしきもの。
イギリスで生活出来ずに出て行った貧しい食い詰め者たちが話していた言葉だ。
実に品位に欠ける。
イギリス本国に来て彼らが謁見を求めるならば、ヴィクトリア女王に向けて話して良い言葉ではないだろう。
正しい英語を話す通訳を付けてやるべきかもしれないな、などと考えながら話を聞く。
「お忙しい中、お時間を割いて頂き感謝致します。
それでは、早速、本題に入らせて頂く。
既に、スターリング提督より、聞き及んでいると思いますが、我が国はイギリスとの条約を締結することを検討しております。
その為に、まず、イギリスの視察をご許可させて頂きたく参りました」
「今や、ヨーロッパ社交界でも評判のプリンス・ケーキがイギリス視察に来ると言うのならば、イギリス国民も女王陛下も喜ばれることでしょう。
その上で、我が国をご覧になればお解りになられるはずです。
アメリカやオランダの様な小国と同じ扱いに出来ぬような国であると」
日本が求めているのは、平等な通商条約の締結であると言う。
彼らの主張する土地を日本の国土と認め、他の国に攻められない土壌を作ること。
日本に軍艦が寄港することは許されず、日本に来るならば武装解除しておくこと。
寄港出来る港は日本が決定し、日本国内への自由な侵入は禁止。
更に、日本にいる間は、日本の法律に従わなければならないと言う。
実に、日本に都合のいい条約だ。
途上国に圧力を掛け、イギリスに都合のいい不平等条約を押し付けることを常としている彼としては、とても簡単に同意出来ない内容である。
「はて、アメリカやオランダとは同じ扱いに出来ぬことが解るとはどういう意味ですか?
我らが学んできた万国公法なるものによれば、国と国の間は基本的に平等であると聞き及んでおります。
それにも係わらず、イギリスを特別扱いしなければならない理由があるのでしょうか」
パーマストン子爵は、プリンス・ケーキが国際法の常識を知っていることに内心驚く。
幼いようだが、社交界で評判になるだけのことはある。
ロシアに騙されたとは言え、多少の小賢しさはあるようだ。
幼い彼に、国際社会の常識というものを教えてやるとするか。
「なるほど、よくご存じだ。
確かに、国際法において、国家間は国の大小に関わらず平等とされております。
だが、それはあくまで、我ら欧米、先進国の間だけの話です。
失礼ながら、あなた方の国は、我々と対等にやっていけるだけの文明国ではありません」
パーマストン子爵がそう言い放った言葉を聞くと、プリンス・ケーキは何故か口元を緩める。
プライドの高いアジアの王族なら激高してもおかしくない発言であるはずなのに、表情を変えない彼らに多少の不気味さを感じる。
「我ら、日本を文明国でないと仰るか。
これは、驚いた。
確かに、我ら、日本はあなた方と異なるが、十分、文明国であると自任しております。
だから、アメリカも、ロシアも、あなた方の同盟国であるフランスも、この条件で条約を締結してくれたと認識しております。
それなのに、何故、あなた方は自分だけ特別扱いを求められるのか」
「それは、彼らが神秘の国、日本とどうしても貿易を始めたかったから受け入れたというだけでしょう。
彼らにしても、あなた方、アジアの国が文明国であるとは思っていないはずです」
「なるほど、フランスやロシアは、我が国との交易目当てに、野蛮な我らと条約を結んだと仰るのか」
「その通り。
そして、あなた方は、ここヨーロッパでも貿易を始めた。
だから、我々が不利な条件で、あなた方と条約を結ぶ必要もなくなったのです」
「確かに、日ノ本の物を買いたければ、割高になりますが、ヨーロッパやアメリカでも買うことは出来るでしょう。
だが、それならば、我が国に来ることは許可出来ない。
それで、よろしいですか?」
慶喜が尋ねるとパーマストン子爵が応える。
「それで、日本に近づけば攻撃すると仰るのか。
だから、あなた方は、文明国とは言えないと言うのですよ」
「入国を受け入れるかどうかは、各国の勝手であると聞いております。
来るなと言うのに、勝手に来る人間は排除出来るのではないですか?
これも、万国公法の定めるところのはず。
それを野蛮とおしゃるか。
それでは、あなたは、文明国を、何と定義されているのでしょうか?
あなた方の様に、武器を持って、相手を従わせるだけの力があれば、文明国というのでしょうか?」
慶喜がそう言うと、今度はパーマストン子爵が苦笑する。
武力を背景に、清やムガール帝国を脅迫してきた彼ではあるが、武力があれば何でも出来るなどとはさすがに言えることではない。
「そんな野蛮なことは言いません。
もし、軍備が整っていれば文明国だなどと言えば、弱い国に対してはいつでも戦争を仕掛けてよいことになってしまうではないですか。
文明国とは、武力の有無で決まることではないのです」
「それでは、あなた方と同じ宗教、あるいは人種が条件なのでしょうか?」
そう言われて、パーマストン子爵は考える。
実際にそう考えている欧米人は多いだろう。
だが、今はロシアの暴虐からトルコを守るという名目で戦っている最中。
非白人、非キリスト教徒は文明人でないから、平等に扱わなくて良いとはさすがに言いにくい状況だ。
そこで、仕方なく応える。
「いや、それも違う。
人種や宗教は絶対的な条件ではない。
人権は誰にでも平等にあるのだから」
パーマストン子爵がこう答えると、日本側は多少理解に時間が掛かる。
当時の日本人には、権利、自由などの概念が存在しない。
これらの言葉も概念も、この当時の人々が海外から取り入れたものなのだから。
だが、その様なことを知られれば、文明国でない証拠だと言われかねない。
だから、慶喜は、その様なことをおくびにも出さずに尋ねる。
「それでは、何を持って文明国だと言うのですか?」
「法と秩序です。
対等な関係を結ぶのならば、我が国の国民の権利が守られることが保証される相手でなくてはなりません。
それに対し、あなた方日本は、自国の漂流民を届けた時でさえ攻撃して追い返すというではありませんか。
権力者を縛る憲法もなく、法の適用も曖昧であると聞いております。
申し訳ないが、その様な国に、我が国の国民を任せることは出来ません」
パーマストン子爵がそう言うと慶喜は首を振って答える。
「私は、ここフランスに来るまで、各国を回ってきました。
そこで確信したのですが、少なくとも、我が国は、これまで回ってきた、どの国よりも清潔で、秩序ある国ですよ。
物乞いもなく、盗人の心配もいらない。
我々が、あなた方の入国を拒んできたのも、あなた方が我らの法に従わず、無法を犯す恐れがあるからなのですよ」
「確かに、シーボルトの書いた本にも、その様に記述されておりますな。
日本は世界一、安全な国であると。
だが、それを証明するには、明文化された法が必要です。
スターリング提督より、日本の法という物を見せて貰いましたが、まだ曖昧なところが残っているし、刑罰も厳しすぎます」
「それでは、我らが権力者を縛るという憲法なる物を作り、法を今よりも明確にすれば、文明国であると認めて頂けるということでよろしいか?」
「ええ、きちんとした物が作れるのならば」
パーマストン子爵はそう答えるが、本当のところ、日本を文明国と認めて平等な条約を結ぶつもりなどはない。
法の整備は、本来、各国の自由である。
だが、日本が文明国と認められる為に、法を整備するというのなら、法の内容にケチをつけることも可能であり、ゆくゆくは、イギリスが望む様な条約を押し付けることも可能であろうと考えているのだ。
「それならば、必ずやイギリスも納得される法を整備して見せましょう。
その為にも、是非、イギリスにも人を派遣し、学ばせて頂きたい。
そして、ご安心下さい。
我ら、日ノ本は必ず約束を守る国です。
信ずるに値する国であることを証明して見せましょう」
誠実さに胸を張る少年の姿を見て、パーマストン子爵は内心苦笑する。
外交とは、決して綺麗ごとではない。
世間に誠実と見られることは重要だが、本当に誠実である必要などないのだ。
それなのに、誠実さを誇るとは、何と幼いことだろう。
パーマストン子爵から見れば、日本は既にロシアとの関係でミスをしている。
そこをつけば、日本はイギリスの言いなりになるしかないはず。
獲物だと思っている相手が、牙を剥いて待ち構えているなどと夢にも思わず、パーマストン子爵はそう考えていた。
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