第二十七話 パリで蝶が羽ばたく時
「さて、覚悟があるというなら率直に言いましょう。
誰にでも金を貸されるというならば、ロシアに資金提供して頂けませんか?」
慶喜が尋ねるとロチルド男爵はにこやかな表情を崩さずに尋ねる。
「質問に質問で返すご無礼をお許し下さい。
何故、プリンス・ケーキがロシアへの資金提供の協力をなさるのでしょうか?
私は、機会が欲しいという人に協力することを厭いませんが、理由も解らずに資金提供することは致しません」
「実は父がロシアを訪問しておってのう。
その遣いが連絡を寄越してきおったのだ。
今、ロシアは
武人として、戦いの中で敗れるならともかく、兵糧不足で敗れるなど無念の極み。
彼らの無念は理解出来る。
それで、助ける方法がないかと問い合わせがあってな」
慶喜が答えるのを一蔵が訳すとロチルド男爵が答える。
「なるほど、お父上がロシアに同情なさったので、資金提供の口利きをしようとされているのですか
しかし、今伺った限りにおいては、ロシアへの資金提供は難しいかと」
「ほう、何故じゃ。理由を申してみよ。
金貸しは、なるべく多くの資金を貸して利子を取った方が儲かるのではないのか」
慶喜が尋ねるとロチルド男爵が答える。
「理由は大きく分けて、三つございます」
ロチルド男爵は慶喜を見ながら右手の人差し指を掲げる。
「一つ、ロシアが勝てる保証がないという事です。
ロシアがお父上に説明したことは一面の事実ではありますが、真実ではありません。
確かに、ロシアはイギリス、フランスの攻撃拠点であるカルス要塞の陥落に成功しております。
ですが、同時に自分の攻撃拠点であるセヴァストポリ要塞をイギリス、フランスに陥落されている。
むしろ、犠牲はロシア側の方が大きく、蒸気船などの数の少ないロシアは自国で戦っているのにも関わらず苦戦していると聞いております。
負ける側に資金を提供しても返して貰えなければ、損にしかならないのです」
そう言うと、続いてロチルド男爵は中指を伸ばす。
「第二に、我々ロチルド家は現在、ロシアに資金提供するのに難しい状況にあるということです。
今、ロシアが戦っているのはイギリス、そして今、我々のいるフランス、そしてオスマン帝国です。
このイギリス、フランス、オスマン帝国に、ロチルド家は既に大量の資金を提供しているのです。
もし、これらの国が破れて貸した金を返せなくなれば、それだけでも大損害なのです。
戦争の場合に資金提供をするなら、勝利の行方を見定め、貸し倒れにならないようにする為、勝つ側にだけ資金提供する必要があるのです。
両陣営に資金を提供するのは、儲けを自ら潰すことに等しい。
まして、我々ロチルド家の拠点はイギリス、フランスなどにあります。
敵国であるロシアに資金提供すれば、利敵行為と取られ、財産没収されかねません」
最後にロチルド男爵は口元を緩めながら薬指を伸ばす。
「最後に、私はロシアが嫌いです。
ロシアは、最も世界で同胞であるユダヤ人を迫害してきた国です。
今、我々ロチルド家は男爵などという爵位を貰っておりますが、ロシアではその様な扱いは期待出来ません。
その様な国を助けることなど、やりたくはないのです」
ロチルド男爵の言葉を聞くと慶喜は苦笑して尋ねる。
「その様なことを公言しても構わぬのか?
ロシアに恨みを買うことになるのではないか」
「既に、我々がロシアに敵対する英仏土に資金提供していることは知られております。
ユダヤ人を迫害してきた自分達が、好意を持たれるはずもないことは、ロシア側も理解していることでしょう」
「ならば、金を貸す条件として、
敵意に敵意を返せば、其方の同胞は更なる迫害を受けるのではないか」
慶喜の言葉を言うとロチルド男爵はため息を吐き、肩をすくめる。
「我々、ユダヤ人は国を失ってから2000年もの間、放浪してきました。
個人を守ってくれる国がないのですから、何処に行っても、隣人と友好的な関係を築く為、多くの者は誠実に、隣人であるローマ人、ゲルマン人、フランス人、イギリス人、ロシア人に対し友好的に過ごしてきました。
ですが、好意を向ければ、必ず好意を向けられるなどという事はないのです。
ユダヤ人は本の民と呼ばれるように、子供の頃から教育を重視する民族です。
それ故、優秀な人材も多く、特定地域に押し込められ、隔離されようとも、経済的に成功する者も多い。
我がロチルド家も、父の代までは、
しかし、その結果、多くの成功者は成功を良く思わない領主たちから、財産を没収され、焼き討ちにあってきたという事実がございます。
とても、好意を向ければ、良好な関係を築けると信じることは出来ないのですよ」
ロチルド男爵の話した言葉は重く、吉田寅次郎などは同情して泣いている。
国を無くし2000年もの期間を放浪してきた人々。
それは、気を付けなければ未来の日本の姿かもしれないのだ。
「なるほど、其方の同胞の辛い歴史は解った。
だが、商人であるならば、敵は作らず、儲けを逃さないことは重要ではないのか」
慶喜がそう言うとロチルド男爵は笑みを大きくし、深く頷く。
「さて、ロシアに金を貸しにくい理由は理解した。
だが、この理由がなくなれば、貸すことは問題ないという事で良いか」
「もし、その様なことが可能であれば」
「まず、一つ目だ。
ロシアが勝てなければ資金が返却されず、損をするという話だが、それならばロシアから担保を取れば良いのではないか。
金を返せなければ、土地なり、財産なりを渡す契約を結べば、損をしないで済むであろう」
慶喜がそう言うと、ロチルド男爵が尋ねる。
「確かに、その様な約束が出来るなら、損はしないで済むでしょう。
ですが、何を担保に、いくらの貸付をお考えですか」
「アメリカ大陸にあるアラスカなる土地を担保として、720万アメリカドルでどうだ。
ここは、広大な土地であるも、首都サンクトペテルブルグから遠すぎて、ほとんど開発も出来ず、ロシアも持て余していると聞いておる。
もし、ロシアが資金を返せないのなら、アラスカを担保として取り上げ、そこにロシアや各地から同胞を呼び集め、ユダヤ人の国を築いてはどうだ」
それは、大久保一蔵が、海舟会の予言書を読んだ知識から導き出した結論。
海舟会の予言によれば、約10年後にロシアはアメリカにアラスカを売却するという。
ならば、今、アラスカ売却の話を持って行けば、ロシア側は検討するに違いないというのが一蔵の読みだ。
ユダヤ人の国家再建という提案をされ、ロチルド男爵は一瞬茫然としたように見える。
それは、2000年の迫害に耐えてきた彼らから見れば、あまりにも甘美な誘惑だろう。
だが、ロチルド男爵はすぐに気を取り直したように、返事を返す。
「なるほど、資金も莫大ですが、本当に担保されるならば、実に魅力的な話ですな。
ですが、我々ロチルド家には武力がありません。
どんな約束をしたところで、ロシアが踏み倒しを決めてしまえば、我々は手も足も出ないのです」
「確かに、その危険はあるな。
だが、資金を返せねば確実にアラスカが手に入るのならば、資金提供するということでよろしいか」
慶喜が確認すると、ロチルド男爵が応える。
「確かに、確実であるなら、十分検討に値しましょう。
ですが、先ほど申した通り、我々はイギリス、フランスを裏切る訳にはいかないのです」
ロチルド男爵がそう言うと、慶喜が頷き、返事をする。
「先ほど言っていた二つ目の理由じゃな。
それにも解決法がある。
戦争中のロシアに金を貸せないというのなら、ワシら日ノ本に金を貸さぬか?
それなら、問題なかろう」
慶喜が言うと、ロチルド男爵は慶喜の意図をすぐに理解し、確認する。
「私が貸した資金で、日本が、ロシアからアラスカを買うということですか?」
「そうじゃ。イギリス、フランスも、日ノ本に金を貸すならば、文句は言わんだろう。
その上で、ワシらがロシアからアラスカを購入する。
そうすれば、ロシアに戦争継続資金が入るであろう。
その際に、其方から借りる資金の担保はアラスカだ。
我ら、日本人は損得よりも名誉を重んじる。
もし借りた金を返せねば、必ずアラスカをくれてやる。
もっとも、アラスカには資源も豊富であると言うからな。
出来れば、其方にやらずに、日ノ本の物にしたいところではるが」
慶喜の言葉に呆気に取られたロチルド男爵が尋ねる。
「その様なことをすれば、ロシアの同盟国と看做され、イギリスと敵対する恐れはありませんか?」
「ワシらは、ロシアが売りたいという物を買い取るだけだ。
別に戦争の資金提供をする訳ではない」
慶喜が答えるのを見て、ロチルド男爵は考え込み、頭を振る。
「プリンス・ケーキ。
あなたは、ローマのカエサルの様に、他人からの借金で世界を動かすおつもりですか。
何という人だ。
2000年前、あなたの様な方がユダヤの国にいれば、我らは国を失わずに済んだでしょうに」
「カエサルとは?」
「かつて、1000年に亘る帝国の基礎を築き、ヨーロッパを作り上げた英雄でございます。
ユダヤの国は、そのローマに滅ぼされたので、複雑な気持ちはあるのですが、傑出した英雄であることは間違いございません」
権現様の再来などと言われ、褒められ慣れている慶喜は苦笑するだけで平然と尋ねる。
「それで、資金提供はして貰えるのかな」
「最初、プリンスは、この話をロシアに唆された物の様に話されましたが、そうではないということですな。
日本の目的は、あくまでも日本の為の物。
ロシアに戦いを続けさせることで、日本にどんな利益があるのか」
ロチルド男爵が考え込んだ後、呟く。
「そうか、この戦争の勝ち負けは関係ない。
イギリス、フランス、ロシアに戦いを続けさせること、そのものが目的なんですな。
イギリス、フランス、ロシアが戦いを続け、傷つけあうなら、それだけ国力を低下させることになる。
そうすれば、アジアに目を向ける余裕がなくなっていく。
それだけ日本が侵略される危険が下がっていく。
いや、そもそも、交渉が長引き、ヨーロッパで混乱が続くだけでも日本の利益となる。
そういうことですか」
これだけのやり取りで、日本の目的を見抜いたロチルド男爵を慶喜は好ましく思うが顔には出さず惚ける。
「何のことだ?
我らは
日ノ本を侵略しようというものがいれば、打ち払うのみだ」
そんな慶喜の言葉を気にせず、ロチルド男爵は続ける。
「日本が、アラスカ購入をロシアに提案をすれば、ロシア使節団は必ず皇帝の意向を確認しようとするでしょう。
それで、ロシアが日本へのアラスカ売却を決定したとすれば、今度は、イギリスが日本のアラスカ購入に反対し、日本に圧力を掛けることになる。
だが、その交渉の時間さえ、あなた方の狙いなのです。
むしろ、イギリスとの通商条約締結の為の交渉の手札が一枚余分に増えることになるということですな」
ロチルド男爵が感心した様に呟き、頭を振る。
「そういうことでしたら、アラスカを担保にして頂けるならば、日本に720万アメリカドルをお貸ししましょう。
我々の予測では、ロシアが資金提供されても、イギリスには勝てません。
その方が、ロシアの現在の体制に傷をつけられる上、アラスカを手に入れることができる。
聡明なプリンスを信頼致しましょう」
ロチルド男爵が握手の為の手を伸ばすと、慶喜が握り返す。
歴史に小さな波紋が生まれた瞬間であった。
**********************
カオス理論というものがある。
様々な要素が複雑に絡み合う混沌とした状況(カオス)の中において、小さな変化が予想も出来ない様な大きな結果をもたらす為に、結果を正確に予想することなど出来ないとする理論のことである。
この例として、北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで竜巻が起きるという話が良く挙げられる。
これをバタフライエフェクトと呼ぶ。
さて、ここパリでも小さな蝶の羽ばたきが起こされた。
軍事力も、経済力も持たない、日本という小さな島国の男たちが起こした小さな羽ばたきだ。
果たして、本当にバタフライエフェクトが起きて、世界は大きく変わり、歴史の流れそのものが変わるのか。
それとも、大河に投げ込んだ小石のように、波紋を巻き起こすだけで、歴史の流れそのものは収束していくのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます