第十七話 薄氷上の安全

象山書院での海舟会と江川英龍の相談が終わって一か月後、長崎には中浜万次郎と桂小五郎の姿があった。

目的は幕府の決定を伝え、それにどう対応するか勝と吉田の意思確認。

決断次第では、そのまま、万次郎の乗ってきた幕府の御用船に乗り、樺太まで行って貰うことになる。


勝、吉田、そして一緒に来た万次郎の前で、桂小五郎が一月前、象山書院で聞いた幕府の決定を伝える。


「という訳で、私は長州藩の許可を得、幕府の許可を得て、この長崎に来たのであります。

まだ、この決定は全国に届いてはいないようなのですが、その勅は御用船に乗った勅使の方が長崎奉行所に渡しているはず。

お気持ちを決められ、長崎奉行所に申し出れば、吉田先生と勝様は、正式に視察団に一員として登録される手はずとなっております」


「かー、おでぇれーたね。海舟会の建白書の読み通りじゃねぇか」


小五郎が話し終え、唖然としていた勝が声を出す。


「いえ、建白書以上の成果です。

建白書では、参勤交代の軽減による予算の確保も、国防軍の創設も、実現できるのはもっと先であったはずであります。それが、この段階でとは」


吉田寅次郎が感嘆の声を上げると、小五郎が補足する。


「その点に関し、象山先生は、実現が早過ぎる故に起きる問題点も指摘されておりました。

早過ぎるが故に、国防軍の組織も仕組みも決まっていないことが大問題になる恐れがあると」


「受け入れ態勢もないのに、人が集まっちまうと江戸が混乱するって訳か」


「指揮官が決まらずとも、とりあえず、組織を作ることを提言するとおっしゃってましたがね。

それで、まず、伺いたいのは、お二人のお気持ちです。

お二人は、家を捨て、視察団に参加するお気持ちはございますか」


「当然です。家のことなど、公私の私に過ぎません。

この日ノ本の為、家を捨てることなど、躊躇う理由にすらなりません」


吉田寅次郎が食い気味に応えると、勝が苦笑しながら応える。


「まあ、おいらの方は、守る価値もねぇ様な貧乏御家人だからな。

ガキもこの間、生まれたし、一応、名目だけでも家督を継がせておけば何の問題もなし。

なおさら、視察団参加を躊躇う理由なんざねぇよ。

ところで、桂君、象山先生の事だから、視察団に参加する場合の助言があると思うんだが」


勝がそう言うと、小五郎は頷き答える。


「象山先生は、異国に行くなら異国の言葉を覚えておけと仰っておりました。

オランダ語は、もう役に立たない。

アメリカに行くなら、アメリカの言葉を。ロシアに行くなら、ロシアの言葉を学んでおけと」


「なるほどな。その為に、中浜様が来て下さったのかい。

だけど、ロシア語の方はどうするんだい?

ロシアの言葉を話せる奴は、この日ノ本にはいねぇんじゃないか?」


「はい。ですから、ロシアに行こうと思う者は北蝦夷(樺太)に向かえとの指示を受けております。

北蝦夷(樺太)に行き、ロシア人が北蝦夷(樺太)を去る前に、ロシア語を教える者を置いて行くよう要請せよと。

ロシア視察の為に、お互い言葉の話せる人間が必要だと言えば、必ず自ら残る者がいるはずだと」


「ならば、私が行くであります。私は、異国の言葉は、今はまだ一切わかりません。

しかし、ロシア視察には時間が掛かるとの話。ならば、その間に覚えれば良い。

私が死ぬ気で覚えるのであります」


吉田寅次郎がそう答えると、小五郎が嬉しそうに頷く。


「吉田先生なら、そう仰ると思っておりました。私も、先生と一緒にロシアまでお供させて頂きます」


勝はその様子を見て苦笑しながら答える。


「じゃあ、ロシアの方は吉田君たちに任せて、おいらはその間にアメリカに行かせて貰いてぇもんだな。

中浜様、英語のご教授お願い出来ますか」


「はい。それは、構わんのですが、わしが長崎まで来た理由はもう一つありまして」


万次郎がそう言うと、勝は小五郎に確認を取る。


「桂君、中浜様には、どこまで伝えているんでぇ?」


「私たちの『予想』は伝えてあります。ですが、その根拠については」


「そうかい。まあ、妥当なところだろうな」


未来を夢見た男がいるなんて、言って回ったところで、信じて貰える保証はない。

それなら、消息筋からの極秘情報が流されたと言った方が、まだ信憑性があるだろう。

まして、ここは長崎。

平八の話が多くの人に知られ、噂となる位なら、オランダからの情報だとか勝手に勘違いして貰った方がずっと良いと勝は考える。


「9月にイギリスがこの長崎まで来るかもしれねぇから、来ていただいたってことですかね、中浜様」


そこで、勝はズバリと万次郎の考えを言い当てて見せる。


「そうです。江川先生から、長崎にイギリスが来るかもしれないので、長崎へ行けと指示を出されたのですが、一体、何処から、そんな情報が出たんですかいのう」


万次郎が首を捻ると勝はニヤリと笑って答える。


「そりゃあ、御公儀の秘密って奴でさぁ。中浜様が知るべきことじゃございませんよ」


「ほう、そうですか。どうもお武家様の世界はよくわからないことが多いですのう」


「実際に、長崎まで本当にイギリスが来るかもわからないのが現状。

だから、おいらたちは、そこで最善を尽くすしかないんでさぁ」


「まあ、イギリスが来たら、そりゃあ、出来る限りのことはさせて頂きますよ。

ただね、アメリカの時は、わしの他に佐久間先生がアメリカの言葉を理解され、江川先生が半年、ロクに寝ないでアメリカの言葉を習得されましたから、わしが通詞をしても信用して貰えたようなのですが。

今度はわしの通詞を信じて貰う為に、勝さんにアメリカの言葉を教えれば、良いんですかいのう」


そう言われて勝は考える。

イギリスと言えば、今、アヘン戦争で清を倒し、今、ロシアとも戦っているこの地球で最強の大国。

平八の情報によれば、今度の9月に来る英国艦隊は外交使節ですらなく、ロシアと日本が手を組まないよう警告に来るだけの目的だと言う。

だが、平八の夢では、アメリカ、ロシアと立て続けに開国を求めて来たので、イギリスもそうに違いないと思い込んだ幕府が外交使節でもないイギリス艦隊に日英和親条約を提案してしまったと聞く。


だから、本来は、相手の話をよく聞いて、ロシアとイギリスの間の戦に口を出さない。

局外中立を約束さえすれば、それでいい「はず」なのだ。

だが、そうならない可能性を象山先生が危惧した故に勝らはここにいる。


これまでのアメリカ、ロシアとの交渉は、相手が日本と国交を結びたいという意思が存在した。

それ故に、この国に対する武力行使を躊躇う部分があったのだ。

プチャーチンの場合は本人の意思で。

ペリーの場合は、ペリー本人の意思はともかく、アメリカ本国の意思で。

それ故に、日本は危険を冒さずに、最大限の利益を得られた。


しかし、今度のイギリスは違う。

平八の言葉によれば、今、ロシアといくさの最中で、2年後には清に再び言い掛かりをつけて戦を仕掛けて蹂躙する最強国家だ。

扱いを間違えば、その標的が、この国になる危険さえ存在する。


「象山先生は仰っていました。

今、この国は、象山先生の目論見以上の速度で異国対策を進行させている。

しかし、それは、異国が攻めて来ないから、無事に済んでいるだけのことだ。

欧州列国のトラたちが、清という美味い獲物を貪っているから、この国は後回しにされているに過ぎない。

ペリーなどの威嚇ではなく、本気で今狙われれば、この国が甚大な被害を受けることは間違いない。

だから何とかして、アメリカやロシアの様に、イギリスが日ノ本を攻めにくい状況を作り上げて貰いたい」


「つまり、イギリスに、この国を攻めるより、付き合う方が得だと思わせなきゃいけないってことかい」


「そうです。この国は焼け野原にするよりも、協力関係を築かせた方が得だと思わせなければならないと」


「その為に、交易をする気があることを匂わせ、その交易でイギリスが得をすると思い込ませる必要があるってか」


だが、最大の問題はイギリス海軍指揮官がどんな奴かってことなんだろうな。

ロシアと戦い、清と戦い、いくさで手柄と立てたがっている奴ならば、交易の利益なんざ、どこまで理解出来るか。

そういう意味では、平八の夢の中で、幕府が日英和親条約を結んじまったのは、勘違いだったかもしれねぇが、イギリスから攻撃されない為には正解だったかもしれねぇんだよな。


「はい。それが、象山先生からの助言です。

ところで、オランダの方の了承は取れているのでありますか」


小五郎が聞くので、吉田寅次郎が応える。


「大丈夫であります。オランダは他の国がこの国に暴虐を行わないようにする為、この美しい長崎を守る為、非常に協力的であります」


そんな寅次郎の言葉を聞いて、そいつは、オランダの善意を信じ過ぎじゃねぇか、と勝は思う。

オランダとしては、自分の縄張りであるこの国に他の国が入ってくることを望むはずがない。

だから、何とかして、異国との交易を妨害したいというのが本音なんじゃねぇか。

まあ、こっちも、そいつを承知で今回、利用させて貰うんだが。


「まあ、こっちの準備は万端整っちゃいるんで、心配しないでくれ。

それで、北蝦夷(樺太)行きの方は、すぐに出るのかい?」


「はい。北蝦夷(樺太)に行く者はイギリス対策は残る者に任せ、なるべく早く発てと言われております」


小五郎がそう言うと、寅次郎が驚く。


「そんな、これから日ノ本の一大事なのに、私は参加出来ないのでありますか」


「まあ、残ったところで、実際に交渉するのは川路様。

おいら達は、その準備をし、事前の打ち合わせと、情報提供をする位しか出来ねぇからな。

それより、早く北蝦夷(樺太)に行かねぇと、プチャーチンがロシア人全員を北蝦夷(樺太)から連れて帰っちまう可能性もあるんじゃねぇのか」


実際、あの時点では樺太領有を確実にする為に、ロシア兵の全面撤収を要求しちまったしな。


「一応、この船とは別に江戸から北蝦夷(樺太)への直行便を出して、ロシア語勉強の為の人を残せという要請は伝えたはずなのですが」


「まあ、確実に到達している保証はねぇか。

となれば、吉田君には早めに長崎を出て貰った方が良いだろう。

吉田君なら、プチャーチン提督と面識もあるはずだし、万が一、ロシア語を学ぶ機会を失ったらことだ。

それとも、おいら達だけでは心配かい?」


勝にそう言われて、吉田寅次郎は暫し考え込んでから頷き、勝の手を両手で包み込むように握る。


「いえ、勝君なら、任せられるであります。

それでは、私は、長崎奉行所に行って、視察団への参加を申し出て、北蝦夷(樺太)へ向かうことにします。

後は、川路様に中浜様を紹介し、打ち合わせ通りに」


「ああ、イギリスが来たら、オランダ語で交渉して貰うことにするさ。

連中が間抜けなら、やり易くなるんだがな」


そう言うと、勝はいたずら小僧のような表情で笑った。

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