神降りる場所

 普通、こういった宿のような場所では座卓の周りには四つほどの座椅子が並び、当然上座の方にも座椅子があるはず。しかし辻堂つじどうがやってきたこの部屋には座椅子は一つであり、それは上座ではない位置に配置されていた。

「客が一人だから一つなのか?」

 床の間と座卓の間はかなり離れており天井も廊下よりもずいぶん高い位置にある。

 廊下の天井は背の高い辻堂つじどうが腕を伸ばし、ジャンプすれば届くほどだったのにこの部屋の天井はジャンプどころか高い梯子が無ければ届くことは無いだろうと言うほどだった。

 そんな妙な違和感のある部屋に入り、座椅子に腰かければ自然と視線は目の前にある床の間の掛け軸へと移る。

 白く猛々しい狼が一匹、鋭い目つきでこちらを見つめている掛け軸。

「掛け軸のことはよくわからないけど、これは凄いような気がする」

 そう辻堂つじどうが呟くと、その掛け軸の中に描かれている真っ白で大きな犬に見える絵がゆらりと動いた様な気がした。

 疲れ切ってしまって体だけではなく目まで駄目になったのかと固く瞼を閉じ目頭に指を押し当ててからもう一度掛け軸を見る。

 今度は筆書きされた普通の掛け軸が見えるだけ。

 やっぱり疲れすぎているんだと大きなため息をついて背もたれに凭れ座卓を眺めた。

 部屋に漂う良い香りは道祖土さいどの部屋で嗅いだものと良く似ているがほんのわずかに苦みが勝っている感じがする。

 鼻から入った香りはそのまま粘膜を通して血液の中に入り込み体全体に運ばれていくようで、染み入れば染み入るほど体の疲労感を無くしていってくれているようだった。

 何度かの深呼吸をすれば香りの効果で、鉄の鎧でも着ているんじゃないか、というほどに重たかった自分の体が柔らかく軽くなってくる。

 肩の力を抜き、最後にもう一度と瞳を閉じて大きく息を吸い込んだ瞬間、床の間の方から音がしてそちらへ視線を向け瞳を見開いた。

 その視界に入りこんできたのは掛け軸から大きく真っ白な犬の足が飛び出している光景。

「な! なんだよ、これ!」

 辻堂つじどうはそう叫んで、非現実的であり今まで遭遇等勿論したことが無い状況にただ驚き、大きく口を開けてその場に固まってしまった。

 左の前足から現れ次は右の前足、ゆっくり悠然と姿を現していく大きな白い犬のような其れ。

 その姿は、まるで陽炎のようにゆらりと揺れる。

 質量が無いのだろうか、重量感があるように思われる巨体なのに床が軋む音はしない。

 座卓を挟んだ辻堂つじどうの目の前にお座りをした犬の頭は天井すれすれで、大きな氷山がそこに現れたかのようだった。

 辻堂つじどうは呆然と、思考が止まり自分の状況が今一つ読み取れないままその大きな犬を見上げる。

 真っ白な体に真っ赤な瞳、柔らかそうに見える全身はよく見れば、輪郭に筆描きのような境界線が見え、無数の筆線が揺らめいていた。

 大きく裂けた口の牙の間から吐き出される息は何処かこの部屋の香りに似て心地よささえ感じた。

「人間、貴様中々ややこしい力を持っているな」

 口を小さく動かして自分に語りかけてきたことに更に驚いて「犬っころが喋った! 」と叫べば、白い巨体は目じりをぴくりと動かして鼻先を辻堂つじどうに近づけ低いうなり声をあげた。

「犬っころとは失敬な呼び方だ。我は狼であり大きい神と書いて大神おおかみ。人の中には犬神いぬがみと呼ぶものも居るゆえに犬には違いないが『ころ』を付けられるのはいささか納得いかぬな」

「大きい神? 神様っていう事か」

「……。貴様はここを利用し、さらにはそのようにややこしい力を持っておきながら何も知らぬのか?」

「俺はただの新聞配達員で、此処には道祖土さいどに行って来いって言われたから来ただけで」

「ほぅ、道祖土さいどにか。あの者が詳しく説明せずにこの場に送り込んだと言うことは、貴様は相当頭が固いのだろうな。故に奴の思惑としては目の当たりにさせ、まずは状況を信じ込ませようと言うことだろう。それでなければ貴様は事実を認めぬのだろうよ。良かろう、では直々にこの我が説明してやろう」

 瞳を下弦の三日月のように歪ませて大きな口を開けたかと思えば、あっという間に辻堂つじどうは食べられてしまう。

 説明しようなどと言いながら全く説明らしいものはない。

 あまりに急な出来事に辻堂は抵抗する暇もなく少しざらついた舌でさらに喉奥へ送り込まれた。

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