番外編⑩ また別の結末





 ここに来て、どのぐらいの月日が経ったのだろう。

 俺は綺麗な海を眺めながら、大きなあくびをした。


 のんびりとしていて、あの頃の辛さが嘘かのようだった。

 深呼吸をすれば潮の香りを、肺いっぱいに感じる。


「ここは、いいところだな」


 日々を過ごせば過ごすほど、俺の中にあったストレスは海の中に溶けだしていった。

 そして新しい自分に生まれ変わっていく。

 昔の俺だったものは波に流され、きっと誰も知らないところへ辿りつくのだろう。

 見つけた人は、それが何なのか分からずゴミ箱へと捨てる。

 そんな最後がお似合いだった。



 新しい自分に生まれ変わった後、待ち受けているのは幸せな生活だと信じたい。

 海の青さに負けないぐらいの空の青さは、俺の全てを許してくれているみたいだ。

 何もかもを捨てて、ここまで逃げてきた俺の全てを。





 頑張ろうと思っていた。でも耐えられなかった。

 俺は周りのプレッシャーや裏切りに怯え、あの学園から衝動的に逃げた。


 誰にも相談せず、それでも上手くいったのは、どこかでこうなることを知っていた頭が冷静な行動をさせたからかもしれない。

 自分の痕跡を残さず、完璧に姿を消したおかげで、今もこうして見つかっていない。

 それが悲しいと思うが、見つかった時のことを考えれば、絶対にバレない方がいいはずである。


 もう二度と会えないみんなのことを思い浮かべると、まだ胸に痛みが走る。

 この傷が癒えることがあるのかは分からないけど、少しずつかさぶたになっていけばいい。

 胸に爪を突き立てると、俺はゆっくりとベランダから部屋の中へと入った。



 ここに来たのは海の近くに住みたいという、くだらない理由からだった。

 それでも言い訳をさせてもらえるのなら、この世界での俺は海になんて一度も行ったことが無かったので、自分の目で見てみたいと思ったのだ。

 海に行くとしたら綺麗なところと決めていたから、今住んでいる場所になった。


 資金は現金で隠し持っていたおかげで、この家をすぐに借りられた。

 オーナーが良い人だったので、俺の状況を察してくれたのか、何も聞かずに貸してくれた。

 老夫婦なのだが、俺を孫のように思ってくれていて、本当に良くしてくれる。


 食事のおすそ分けや、家具の選び方、お得な店。

 2人がいなければ、俺の生活は目も当てられないぐらい大変なものになっていたはずだ。

 覚悟はしていたとしても、いざ実際にやるとなると違ってくる。


 甘く考えていたところも、何とかカバーすることが出来て、数週間で最低限の生活をするまでになった。

 何度もくじけかけたけど、帰る場所がないのだから弱音を吐く時間はいらなかった。


 意外になんとかなったというか、人に恵まれて運が良かったのだろう。

 そんな強運は向こうにいた時に発揮して欲しかったと思うが、過ぎたことを考えても意味は無い。


 これから、どう生きていくのか考える方が大事だ。

 現在はこれまでに貯めてきたお金を使って生活しているが、いつまでもそうしているわけにはいかない。

 仕事を探さなくては。それも早めに


 目下の目標は、手に職をつけるである。





 せっかく海に近いところに来たから、漁師もいいかもしれない。

 それか店を始めてもいいし、会社に入るのだっていい。

 選ぼうとしなければこんな俺でも仕事はあるから、後は長く続けられるところを選ぶのが大事だ。


 すぐに職を転々とするようなことだけは、あまり印象が良くないだろうから避けたい。

 今日もまた仕事の候補を探そうと、外へ出ると、オーナーにちょうど会った。


「帝君じゃないか。今日は何をするんだい?」


 日焼けして真っ黒な顔に全体にあるしわ。

 笑えば白い歯が浮きでる。


「落ち着いてきたので、そろそろ仕事を探そうかと。いつまでも怠けているわけにはいきませんし」


「そうかそうか。何でも相談しに来てね。手を貸せることがあれば喜んでするから」


「いつもお世話になってます。もし何かあれば相談させてもらいます」


「いつでもおいで。それにしても帝君は若いのに礼儀正しいねえ。ここらの若い衆にも見習ってもらいたいものだよ。スラッと背が高くてハンサムだから、モテるでしょ」


「そんなことないですよ」


「そういえば昨日珍しく旅行に来た人がいたんだけど、その人も帝君みたいにスラッとしたいい男でね。みんな色めきだっているんだ」


「そうなんですか。まあ海も綺麗ですし、海水浴には早いですけど、景色を眺めに来たんじゃないですか」


「まあ色んな趣味の人がいるからね。悪さをしない限りは、別に気にする必要はないさ。それじゃあ、仕事探し頑張ってね」


「ありがとうございます」


 オーナーと別れ、町の方に行こうかと思ったが、少し考えて海の方に足を進めた。



 ここの海は好きだ。

 遠くは青いのに、近くで見ると透き通っている。

 今がまだ海水浴の季節じゃないのが、本当に残念だ。


 諦めきれず、足だけ入れるように、いつもサンダンルをはいている。

 今日もちょっとだけと言い訳しながら、中へと入っていく。

 冷たいが、凍えるほどの温度ではない。

 ずっと入っていたら冷えるかもしれないけど、数分ぐらいなら問題ないはずだ。


 つま先を上げ、水を跳ねさせながら、俺はこの人生で我慢していたことを解き放っていく。





「すみません」




 夢中になっていたせいで、誰かが近づいてくるのに気が付かなかった。

 ここらへんでは聞き覚えのない声だから、オーナーの言っていた旅行者かもしれない。


 ここに来たばかりの俺では道案内が出来ないけど、わざわざ話しかけてくるなんて。

 俺は拳を握りながら、声のした方を振り返った。



「……探し物をしているんです」


「……何をですか?」


 顔を見て驚かないということは、たまたまじゃないわけだ。

 ためらいなく近づいてくるのを、俺は逃げることなく待つ。

 多分逃げてもすぐに捕まるから、無駄なことをするつもりはなかった。


「とても大切なもので、大事にしていたつもりなのですが……全く伝わっていなかったみたいです」


「今度は伝わるといいですね」


「ええ。そのつもりです」


 腕を広げられ、俺は一切迷うことなく、そこに飛び込んだ。


 どうしてここが分かったとか。

 なんで迎えに来たとか。

 向こうは今どうなっているとか。


 尋ねるべきことはたくさんあったけど、今は腕の中の温もりを感じていたくて、ゆっくりと目を閉じた。




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