幕間③『花束と善喜』

「花束や。ちょっと聞きたいことがあるんじゃが」


 ある日の昼下がり。食後の紅茶を白い陶器に運びながら、唐突に善喜は孫に尋ねた。


「なあに、おじいちゃん?」


 中庭で春の陽気を浴びながら、腰かけているイスから身を逸らせて、花束が返事をする。

 日光の加減で色の変わる小さいながらも重たそうなテーブルに、微かな音をたててカップが置かれた。

 ろんナントカというドイツの紅茶らしいのだが、興味がなかったので花束は憶えていなかった。

 いま善喜から質問がなければ再度聞いていたのだが、優しい香りと飲みやすい味がとても好きになって、お茶には無関心だった花束も少し興味が湧いていた。

 予定変更。彼女は改めて後で聞いてみることにする。


「久しぶりにテレビを観たらの、ワイドショウじゃったか、ネットでえすえぬえすが炎上、というフレーズを耳にしての。よく分からんかったんじゃ。どこが燃えているのか、教えてもらえたらと思ってのう」


「人間の心よ」


 善喜が花束の隣に、よっこいしょ、と腰掛けた。花束はカップを手にとり、静かに目を閉じて一口。


「ほー、そうか。……いや、でもソーシャルなネットが燃えてるんじゃろ?インターネットの友達か何かじゃと思ったんじゃが……。おじいちゃん、それぐらいは知ってるぞい」


 カップを置いて、花束は善喜に目を移した。


「おじいちゃん。何年もこちらで生きたおじいちゃんなら分かると思うけれど、昔から、人間は他人のプライベートと失態、そして不幸が大好物なのよ」


「まあ、そうじゃのう」


「それで、今はネット上で、自分の個人情報やプライベートを聞いてもいないのにおおっぴらにして、他人からの評価を得たり、自分の承認欲求を満たすことができる時代なのね?」


 善喜は片方の眉をあげて、首をかしげた。


「ん?よく分からんぞ。自分の評価は、自分が一番よく分かっているべきものじゃろ?どうして他者がそこに介在するんじゃ?」


「…………………………」


 花束の両目が、見開かれる。しばし、善喜をじっと見つめていた。


「わし、変なこと言ったかの?」


 善喜の言葉で、我に返った様子の花束。優しい春の終わりが、中庭にさあっと風を吹かせた。

 花束の口端が微かに上がった。


「いえ。私もそう思うわ。おじいちゃんの性格の知らない部分を知ることができて、私は少し嬉しくなっただけよ」


 その様子に、善喜の心の温度が上がる。頬を掻きながら、


「うーん、おじいちゃん、なんだか照れちゃうのう」


 と、笑っている。ふふっ、と花束は笑ってから、


「そう。こんな風に、自分の行動を評価されたら、誰だって嬉しいものでしょう?」


 と、耳を紅潮させた善喜に向かって鼻を高くして訊ねた。善喜の表情から笑みが消える。


「……さっきの言葉は本意ではなかったのか?」


「そんなことないわよ、安心して?おじいちゃんがちょうど、分かりやすいことを言うから。で、話は戻るけれど、プライベートの内容は、それこそ日常の些細なことから、自慢や流行、驚いたこと、悲しいこと、主義主張から笑いまで、それこそ多種多様に公開されているのよ。ソーシャル・ネットワーク・サービスの中にはね」


「おう、それじゃそれ。えすえぬえすとはその頭文字のことじゃったんじゃな?」


 善喜は人指し指を一本上に立てて振りながら、花束への視線に力をこめている。


「察しがいいわね。さすがおじいちゃん」


「ふ、伊達に歳はとっておらんからの」


 得意気に両腕を組む。


「さて、ここでおじいちゃんに、人間の心に関する問題です。そうやって評価をたくさん得ている有名人に対して、他の人間が抱く感情って、なにかしら?」


「うーん、……崇拝かの?おじいちゃんが花束に感じているような」


「おだててる?それとも、言いたいだけ?」


「おじいちゃん分からんもん。人間共の気持ちなんぞ、若返ってからは特に分からん」


 あきれた、という表情を隠さずに、花束がため息を吐いた。


「間違いでもないから考えものね。そういう人も多いわ。芸能人の盲目的なファンとか。まあ、夢中になれるものがあるということは、悪いことではないとも思うけれど。……求めていた答えは、羨望。それも限りなく嫉妬に近い、ね」


「ほう……。よく分からん感情のひとつじゃのう」


「そうね。私たちはあっちで、うらやむぐらいなら手に入れてたし、そのための研鑽は惜しまなかったし、邪魔する者はことごとく打ち滅ぼしてきたものね」


 善喜の目に光が宿る。その瞳には花束が写っていたが、彼の脳内ではその情報以上に、自身の栄光の過去に思いを連れ去られている様子だった。


「我が主を中心にな……、おっと」


 その栄光の日々に、思わず彼の口がすべる。


役割ロールを忘れるほど、過去を懐かしむことに夢中にならないように。……次はないわよ?」


 花束が老人を、いや、自身の右腕であった部下の竜を睨む。慌てて老人は口を開いた。


「すまんすまん。じゃが、……たまにはいいじゃろて?」


 ぷい、と花束はそっぽを向いた。


「知りません。……ええっと。じゃあ、その羨望の対象が、失態をおかしたとして、更に悪いことに、失態を失態と気が付くことができず、SNS上でそれを報告したとして、どうなるでしょう?」


「うーむ。そうしたら、それはいけませんぞ、って、悪いことを咎めてあげるんじゃないかの?」


「もう。そんな優しい世界じゃないのよ。いい?……今まで感じてきた妬み嫉み、フラストレーションが、爆発するのよ。だって、相手は失態を犯した、いわば絶対悪なのよ?悪に対して自分の、個人の正義を大々的に振りかざしてぶつけるの。一方的に、延々とね」


 その答えにまた、善喜は首をかしげることとなった。


「なんでそんなことをする?……他人じゃろ?」


 ため息の再放送。


「……多分、おじいちゃんには一生、理解できない気持ちのような気がしてきたわ」


 頭を抱えた花束に、両手を胸の前で合わせて、善喜はお願いする。


「頑張るんじゃ、花束や。迷える無知な子羊に、知識を授けてくれたもれ」


「たもりたくないわね。子羊って歳でもないガラガラドンのくせに……」


「た、頼む……。あと絵本のガラガラドンは、ヤギじゃ……」


 なぜだか分からないのだが、そんな指摘で、自身の主の魔力が高まっているのを、善喜は認識した。


「……ヒマなのよ」


 面倒なものを放り出すかのように吐き捨てられた五文字。


「え?……それは随分と、……端折った説明じゃのー」


 音を立てそうなくらいに、竜神の魔力が瞬間的に跳ね上がった。


「怒れるヒマ人が多いんだってば。そういうことでいいじゃない。おじいちゃんの言う通りよ。誰が嬉々として他人の個人的な情報に興味津々になるっていうのよ。私はね、人間という生き物は、もっと早い段階で他者に対して興味がなくなって、ゴシップに対する負の感情なんていう下らないことに惑わされず、自分の生き方に集中して、追及していけるようになると思っていたの。もっと個人としてのレベルを上げて、さらに高尚な生き方をどうやってしていくか、模索していくようになると期待していたのよ。……だというのに、いつまでも人間は下らない些事ばかりに感情を踊らされて、揚げ足をとるような真似ばかり続けて。バッカじゃないの?嫉妬に駆られて無闇に怒りの矛先を向けるぐらいだったら、そんな情報シャットアウトしたらいいじゃない。情報の取捨選択もできないわけ?悪いことに対する制裁は、赤の他人様の仕事じゃないのよ。それを何?鬼の首でも討ち取ったみたいに得意気になって不快な言葉を重ねて。気持ち悪いったらない。他人に対してどんな夢を抱いているっていうのよ。みんな人間なんだから、失敗だってするに決まってるじゃない。よしんばそれが犯罪だったら、それは警察の仕事でしょうが。顔も出さないような個人が、とやかく言うことじゃないでしょう?そんなことに張り付いてるヒマがあるんだったら、もっと自己研鑽に努め……」


「す……、すまん、すまんっ!分かったぞ、花束っ!おじいちゃん炎上分かった。分かったからそれ以上、魔力を高めんでくれ。おじいちゃん潰れてしまうぞいっ」


 言葉を重ねるごとに高まる力に、善喜はたまらず花束の言葉を遮った。なぜ、そんなに怒るのか、彼には分からなかったが。


「……うむ。分かったならいい。すまんな。我もここまで取り乱すつもりはなかったのだが」


 なにか、えすえぬえすで大きな失敗でもしたんじゃろうか。この孫は控え目に言っても美人じゃしのう……、と善喜は考えていたが、ふと、目の前の女の子の物言いのおかしさに気がついた。


「は、花束!ろ、ロール!……ロール!」


「……あ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る